本編

第1話


「ねぇ、あなた。関孝和って知ってるかしら」


 その日、白塚葉月が校庭に備え付けられたベンチで、お弁当を食べていると、突然声をかけられた。


 葉月がお弁当を食べるのをやめ、顔をあげてみると、そこには一人の女性が立っていた。

 色白の肌を引き立てるような艶やかな長い黒髪。今にも折れてしまいそうな細い身体。モデルのように整った顔立ちは、同じ女性である葉月にも、彼女を美しいと感じさせるには十分だった。

 しかし、このような女性が知り合いにいればわかるはずだが、見覚えがない。果してこの人物は誰なのか。


「あの……どちら様ですか?」


 疑問に思った葉月は黒髪の女性に尋ねた。


「関孝和は江戸時代の和算家よ。和算を確立した人物で、関流の始祖として、算聖と崇められたというわ。和算というのは日本で独自に発展した数学のことなの。孝和は日本数学史上の偉人の一人として、上毛かるたにもその名前は詠われているのよ」

「いえ、私が知りたいのは関孝和のという人のことではなくて、貴女が誰なのかということなんですが……」


 葉月が自分が求めているのは関孝和の情報ではないと訂正する。

 黒髪の女性は、なるほどといった様子でポンと手をたたくと、葉月に自己紹介を始めた。


「私は十六夜いざよい。黒瀬十六夜というのよ。この高校の三年生ね。で、関孝和なんだけど……」

「いや、名前を名乗っただけで、シームレスに、関孝和の話に戻るのやめてもらえませんか」

「関孝和のお話はお嫌い?では、何の話がよいのかしら?坂部広胖?それとも飯塚伊賀七の方が好みかしら」

「違います!!」


 葉月は思わず大声で叫んでしまった。目の前に机があれば、思いっきり叩いていたはずだ。全く話が通じない。というか、誰なんだそいつらは。


「結局、何の用なんですか!!なんで突然、私に関孝和を始めたんですか!!」

「なんでって、それは……」

「それは?」

「誰かと、何かお話をしたい気分だったのよ。それで、誰かいないかと人を探したら、あなたが目の前にいたからちょうどいいと思ったの。それだけよ」


 十六夜は、葉月が何が不満なのかわからないといった様子で首を傾げていた。


「それだけといわれても困るんですが」


 食事をしている見ず知らずの後輩に突然、関孝和の話を始めるお前は何なんだと葉月としては言わざるをえない。


 とりあえず、葉月は十六夜のことを無視して、お弁当の残りを食べることにした。

 すると急に、お腹の虫が鳴る音が聞こえた。音の発信源は十六夜である。


「お腹すいてるんですか?」

「そうね」

「お昼食べないんですか?」

「お弁当を忘れてしまったの。購買で何かを買うにしても、手持ちのお金もないわ」


 もう一度十六夜のお腹の虫が鳴る音が聞こえる。


「あなたが気にする必要はないわ。仕方のないことだもの」


 言葉通り、十六夜のことを無視して、葉月が弁当を食べようとする。十六夜がその様子ををじっと見つめている。とても食べづらい。


「本当に気にする必要はないのよ」


 この状況で気にするなと言われてもむしろ困る。


「……わかりました。少しぐらいなら分けてあげますよ」

「本当?とてもうれしいわ」


 こいつ、そう言うのを待ってたんじゃないだろうなと思わないでもなかったが、口には出さない。

 葉月が弁当箱の中からエビフライを箸で摘まむと、十六夜の口の前に差し出した。それを満足そうに咀嚼する十六夜。


「おいしいわ。あなたが作ったの?」

「ええ、そうですけど」

「すごいわ。私のお弁当も作ってほしいぐらいよ」


 なぜおまえの弁当を作らないといけないのだと思いつつ、葉月としても褒められるのは悪い気はしない。


「こちらの卵焼きももらっても?」

「いいですよ、別に。好きにしてください」


 十六夜は卵焼きを頬張り始めた。はた目から見れば彼女はとても幸せそうに見えた。


「本当においしいわ。あら?」 


 十六夜が急に葉月を顔をまじまじと見つめ始めた。


「な、何ですか!?」

「ごはんつぶがついてるわ」


 十六夜が葉月の頬についていたご飯粒を指ですくうと、そのまま自分の口の中へ運んだ。


「何をしてるんですか、あなたは!」

「だって、ごはんつぶがついていたもの」


 顔を真っ赤にして抗議する葉月に、何かおかしなことをしただろうかと十六夜はまた首を傾げ始めた。


 その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。早く教室に戻らないと授業が始まってしまう。


「それじゃあ私は行きますからね」


 そういうと葉月は立ち去って行った。あとに残された十六夜は慌てる様子もなく手を振っていた。


 それが二人の出会いだった。

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