色屋

愛川きむら

色屋

 白とねずみ色で構成されたこの場所は、極彩色で飾られた世界を表とするなら裏なのだろう。影、陰、黒子、脇役。目立つことはない。

 細い線でようやく個として生きている少女がいる。まるい瞳には鮮やかな夢が宿るはずなのに、何も入っていないグラスのように儚くきらめいているだけだ。

 少女は本を読むことを唯一の趣味にしていた。年々、手に取る本は内容を増し厚くなってほこりくさくて仕方なくなる。図鑑のような本を両手で抱え、特等席に座る。――といってもちゃんとした椅子があるわけでもなく、少女は森のなかにあるちょうどいい隙間に挟まって本を読むのだ。

 今日もそうするつもりだったのに、彼女はその銀色の瞳で幻の小屋を見つけてしまう。新しい本を手にするときのようなワクワク、驚き、興奮、喜び。好奇心に弱いがゆえに勝手に足が動いてしまう。

 気がついたら、扉を開けていた。まるで異世界に迷い込んだような光景を目の当たりにする。白と灰色で塗り固められた外見とは裏腹に、小屋のなかは七色で満たされていたのだ。少女にとってそこは未知の世界で。どう表現したらいいのかわからなくなってしまっていた。こういうときのために培ってきた語彙力だというのに、完全に失っていた。

「いらっしゃい」

 お嬢ちゃん、と優しく声をかけられ振り向くと、白銀じゃない青年が立っていた。アンティーク調のおしゃれな丸めがねをかけ、細い体にはエプロンを巻きつけている。

 言葉が浮かんでこなかった。どうしてお兄さんは白くないの、色があるの。わたしもお兄さんみたいになれますか。なってみたい。お兄さんみたく、きれいになりたい――。

「はじめてのお客さんが、君みたいな子でうれしいよ。さ、おいで」

 青年は温かみのある掌で少女の無機質に感じられる髪の毛に触れた。どこもかしこも冷たい。青年は唇を結ぶ。

 天井にかけられた大ぶりのランプが灯される。瞬く間に室内は明るくなり、壁に直接とりつけられている木の板にはいくつもの瓶が並べられていた。

 目を大きくさせて口が閉じられなくなった少女を見て、青年はくすりと笑うと身近に置かれていた小瓶をひとつ手に取った。両手で大切に受け取り、まじまじと見つめる。なかには桃色の液体のような、砂のようなものがはいっている。星屑のようなきらきらが含まれていて、なんとも不思議な代物に少女は胸を躍らせる。

「そこに座ってごらん」

 赤いひとりがけソファに深く腰掛け、ローテーブルに小瓶が置かれる。青年はそのなかから、母がよく化粧をするときに使うようなふわふわのブラシを取り出した。桃色の表面を何度かこすってから毛先を少女の頬にくっつける。

「ふふっ」

 くすぐったい。こちょこちょされているみたいだ。嬉しくてくすぐったいのもある。

「できた」

 青年は満足げに手鏡を渡す。少女の両頬に桃色が宿った。


「ここ、お兄さんのおうち?」

「お店だよ。お嬢ちゃんみたいな子に色をあげるんだ」

「わたし、いま、お金もってない……」

「お代はいいんだよ。お嬢ちゃんの笑顔が見れたから」

 気をつけて帰るんだよ、と青年は愛想よく笑って見送ってくれた。

 大好きな本を抱えて森を早歩きで下りる。頭に思い浮かぶ母の顔。自慢したい。かわいいね、きれいね、と言われたい。母だけじゃない。みんなに、知らない人にまでちやほやされたい。

 一国の姫になったような気分だった。わたしは世界でいちばん可愛いのよ、と。

 刹那、うしろ髪を掴まれたかと思うと強く引っ張られた。叫ぶ余裕すら与えない。くるりと振り向かされ、目と鼻の先には虚ろな目をした男の顔が。喉元にいた発射準備完了の悲鳴が「ひゅん」と引っ込んでいく。無精髭と歯並びが悪い口元、焦点の合わない眼差し、長い髪の毛は見ただけでべたべたしているとわかる。買い物に行くとよく見かける、毎日街灯の下で眠る男だった。

『知らない人に近づいてはだめよ。話しかけてもだめ。目を合わせるのもだめ』

 母の厳しく言い聞かせる声が脳内再生される。

「あ……おあ、あ……」

 おかあさん、と言いたかった。お母さん、相手から触られ見つめられた場合はどうしたらいいのですか。わたしはその術をまだ教えられていないのです。教えて、お母さん――。

 ホームレス特有のハエのような目つき、ハイエナのような動き。頬に触れられる。奪われる。ショックでたまらなかった。こんな見ず知らずの人にわたしの夢が奪い取られてしまうだなんて!

 乾燥しきった硬い親指の腹で右の頬をこすられた。

「ひっ……いやああああっ!! やめてえ!! さわらないでっ!!」

 ストッパーが外れたかのように悲鳴が爆発した。頬から温もりがなくなっていく。やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて。



 強く抱いた本の背表紙に爪を立てる。

 パキッ、と悲しい音がした。


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色屋 愛川きむら @soraga35

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