第10話

深夜の暗く静まり返った寝室。



ぐっすりと眠っている貴妃の寝台へ、ゆっくりと近づく者がいた。



起こさないように気配を消し、寝台横の台の上にある茶器を目にした。



夜間に飲むかわからないが口の中を潤すためにと、夕餉後に用意した白湯の入った茶壺がある。



その表面は少し湿っていて、注ぎ口に持ってきた袋の中にある粉を塗りつけた。



茶壺と同じ色のないその粉は見た目ではわからない。



「うん…もう、食べれないよ…」



そのとき、寝台から貴妃の声が聞こえて、ドキッ!とした。



起きたのか、と慌てて振り返るが彼女は規則正しい寝息を立てて眠っている。



どうやらただの寝言のようだ。



ホッと息をして、入って来た同様に静かにその場を離れた。



だが、ふとそこで足を止め、壁際にある棚に目を止めた。



あの棚裏の奥に、アレをしまっていた事を思い出す。



微かな期待と裏切り。


見つからなければそれはそれでいつも通りだし、逆に見つけていれば、それは全て終わる事を意味する。



扉に戻ろうとしていた足をその棚の方に向けてゆっくりと進んだ。



目の前に来ると、寝台に眠っている貴妃に視線を向けて、彼女がまだ寝ている事を確かめると、ゆっくりとその場でかがみ込み、棚と壁の隙間に手を入れた。



手探りでその棚裏を探るが、置いていたはずの場所にお目当てのはなかった。



一瞬、危機を感じてひやりとした。



ないということは、すでに見つかったということ。



「そこに香炉はありませんよ」



刹那、背後から低く冷たい男の声がした。



ギクッ!として素早く立ち上がり振り向くと、そこには貴妃専属の護衛がいた。



「あ、あなたは…っ」



彼女が驚いたように声を上げると同時に、パッと周りに明かりが灯った。



「なっ…!?」



突然の眩しさに咄嗟に目を庇い後ろに下がると、トンっと棚にぶつかる。



暗闇から光を持った白服の男が現れた。



「棚裏を探していたようですが、この時間に何用ですか?」



若い護衛は彼女に一歩近づき、尋ねた。



「あ、あなたたちこそ!この時間に貴妃様の部屋になんの用事ですか?」



「おい、今更それを言うのか?お前こそこんな深夜に来て、何をしたんだ?」



すると、護衛の後ろにいた白服の男が声を上げた。



確か、貴妃専属の若い侍医。



話を逸らそうとする彼女を睨み付け、鋭く質問を返してきた。



「なっ…!それは、私は…」



そこで声を荒げた彼女はハッとしたように息を飲み、すぐに深呼吸をして冷静さを取り戻すと、二人に向けてにこやかな笑みを浮かべた。



「部外者がこの場にいるという事は、もう既にこの棚裏にある物を見つけ、それがなんなのか知っているのですね?」



開き直ったのか、彼女の方から尋ねる。



一瞬驚いた二人だが、侍医は面白そうにニヤリと笑った。



「お前さん。それは肯定という意味か?今回の毒事件。貴妃の使う茶壺に細工したのも、お前か?」



「…さぁ?私と言う証拠はありますか?」



わざとはぐらかすように、余裕のある態度をする彼女に、微かに舌を鳴らす。



「侑鈴殿。この期に及んで違うと言いますか。あなたが今した事を一部始終見させて頂きました。この茶壺に、何かを塗っていましたよね?それも今回の暗殺未遂事件に関係がないと?」



今度は慧影が鋭い視線で、畳み掛けるように告げた。



それでもまだ、彼女は余裕な笑みを崩さない。



「塗ったのを見ただけでは、証拠になりませんよね。今のが毒だと、専門に調べてもらわないと結果はわかりませんよね?」



「なんだと?お前さん、今、俺たちの前でやっておいて、証拠を出せと!?ハッ!そこまで言うならいいだろう。俺が今から、これが毒なのか、確かめてやる!」



カチンと頭に血が上ったらしい侍医が、大股で寝台に向かいそこの棚の上にある茶壺を掴んだ。



「あ、おい、待て天狼!それは、ちゃんと鑑定しないと証拠に…!」



慌てて慧影が止めに入るが、既に遅かった。



侍医の天狼は、茶壺の口に己の口をつけて、一気に流し込んだ。



ゴクゴクと飲み干して、ぷは!と茶壺から口を離す。



口元から流れた白湯を袖で拭うと、天狼が不敵に笑った。



「ふっ…。これで、俺の体に毒が入った。時期、症状が出るだろうよ」



「なっ…!!馬鹿か、お前!なんて無謀な事を…!」



慧影が顔色を変えて、彼に詰め寄る。それを唖然としたように、彼女、侑鈴は見つめていた。



「何を、何をしているのよ天狼!」



そこに、悲鳴のような叫び声が響いた。



ハッ!として天狼の背後を見ると、青ざめた顔をした貴妃が立っていた。




「珠華、様…っ」



そのとき、ようやく、侑鈴が動揺した。



貴妃のフリをしているそっくりの珠華。



眠っていたはずの彼女が起きて、白湯を飲んだ天狼を本当に案じているようだ。



それは、彼女もその茶器に毒が仕込まれていると思っているということ。



「天狼!今すぐ吐くのよ!あなたまでそれを飲んでは意味がない!」



必死な様子で叫ぶ珠華に、青ざめていた侑鈴が微かに嗤う。



「ははっ…それを飲んだら助からない。その男は死ぬよ」



その言葉にハッとしたように侑鈴に顔を向けた珠華は、泣きそうな顔をしていた。



「珠華様。あなたがその男を巻き込んだのですよ。大人しくしていれば、こんな事にはならなかったのに…」



「侑鈴…本当に、あなたが毒を盛っていたの?誰かに、脅されていたのでしょ?」



青ざめた顔で、否定してほしい様子で珠華が必死に尋ねる。



しかし、侑鈴は表情を崩さず、今まで見たことのない残忍な笑みを浮かべた。



「誰にも脅されていない。これは私が仕掛けた事ですよ。私はあなたたちのような人が嫌いです。貧国の賤しい身でありながら、皇帝陛下に見初められ、この大国の貴妃の地位についた珠麗様が、憎かったのよ…!」



最後、吐き出すように冷たく叫んだ彼女に、珠華は愕然とした。



手から力が抜け、離れた珠華に気づき、天狼は彼女に顔を向けて目を見開いた。



「侑鈴殿!あなたのような方が、嫉妬からこのような愚かなことをするとは思えません!本当は違うのでしょ!この一連の黒幕がいるのでしょ!」



二人のやり取りを見兼ねた慧影が珠華に駆け寄り、庇うようにして立つと、彼女に向かって叫ぶように問いただした。


それを冷たく鼻先で笑い、別人のような顔で慧影を冷たく睨みつけた。



「そういうのが、癇に障るんですよ。珠麗もそうだが、珠華、あなたも…男に囲まれ、守られながら生きていくしか能のないバカ女のくせに。見ていてホント、吐き気がするわ」



嘲笑を含み、トゲあるその答えに、慧影は息を飲んだ。



これは本当に、侑鈴が犯人ではないか?



彼女の言葉の一つ一つに重みがあり、本気で思っているように感じる。



「うっ…ぐぁっ!?」



刹那、茶壺の白湯を飲んだ天狼が苦しみ出す。



喉に手を当て、体を丸め、がくんと膝をつく。



「天狼!?」



ハッと我に返った珠華が慌ててその場に屈んで、彼の体に触れる。



「熱っ…!嘘!?まさか本当に毒が…!」



熱い体に大量な汗。



ブルブルと震えて、力なく床に倒れ込んだ。



「天狼!」



取り乱したように叫び、痙攣し始めた天狼を支え、侑鈴に顔を向けた。



「侑鈴!今はいいから早く解毒剤を!あなたの思いは、関係ない人まで巻き込むほどではないはずよ!」



それは的確な言葉だった。



驚いたようにハッとして、侑鈴は息を飲んだ。



だが、そのあとはジッとその場で耐えるように動かない。



「侑鈴!彼は関係ない!やるなら私をやりなさい!」



焦れた珠華が必死な形相でもう一度叫ぶ。


「駄目…無理よ。こうなったら解毒剤なんて効かない」



彼女は首を振って答えた。



「効かなくてもあるんでしょ!?なら、早く渡して!本当に彼が死んでしまう…」



これは望んでいないはずだ。



侑鈴は追い詰められたように、珠華の方に近づき、懐にある小袋を取り出した。



「これを…。効くかどうかわかりませんが」



差し出された珠華はそれをひったくるように取り、中のものを取り出す。



「天狼!口を開けなさい!」



痙攣が止まらずにいる天狼を抱え、無理やり口を開き押し込んだ。



「無理よ…。残念だけど、この男は時期に死ぬわ。それは今までと違う猛毒よ。口にしたら最期、助かりは…」




そこまで言って、ハッと口をつぐむ。




予想外の展開に動揺し、思わず本当の事を言ってしまった。



だが、目の前の珠華にはそれが聞こえていなかったのか、反応がない。



天狼の方に意識が向いているため、侑鈴の言葉が耳に入らないようだ。



それに対しホッと一息した、その次の瞬間。



ポン、と肩に手を置かれた。



弾かれたようにそちらを振り向く。



後ろには誰もいないはずだ。



だが、そこにはいつの間にか皇帝陛下の側近である、張洸縁がいた。


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