2月15日『約束』

 お兄ちゃんは寝ていた。

 首にコードなんて巻いて、何をしているのかとびっくりしてしまったけど、ただ寝ているだけだと分かって安心した。


「もぉ……びっくりさせないでよぉ……」


 何か夢でも見てるのか、うっすら笑ったような顔で寝るお兄ちゃんを見て、私も思わず笑顔になる。

 幸せそうな寝顔のお兄ちゃんを見るのは私も幸せだ。

 って、お兄ちゃんの寝顔見てる場合じゃなかった。

 晩ごはん作らなきゃ。

 寝てるなら逆に好都合。

 起きちゃう前に作っちゃおう。

 百円ショップで買ってきた大量の荷物は部屋の隅に一旦置いて私は台所に立った。

 今日は特別変わった料理ではなくご飯とお味噌汁と豚肉のしょうが焼き。

 お米を研いで水に少し浸して水を吸わせる。

 その間にお鍋でお湯を沸かして野菜を切る。

 しょうが焼きの付け合わせの野菜は玉ねぎと人参とキャベツ。

 玉ねぎと人参は火が通りやすいように千切りにする。

 豚肉は筋を切って生姜とニンニクとお酒で下味をつける。

 お米を炊飯器に入れてスイッチを入れて、沸騰したお湯に出汁とお豆腐を入れる。

 フライパンを温め野菜から火を通す。

 下味を付けた豚肉も入れて、中火でフライパンに蓋をして焦げないように気を付けながら焼いて、火が通ったところで醤油、砂糖、酒、生姜を入れて味をつける。

 お味噌汁の鍋の火力を落として最後にお味噌を入れて、お味噌汁も完成。

 炊飯器が鳴って、ご飯もできたようなので少し蒸らしてからお茶碗にご飯をよそう。

 お皿にしょうが焼きを盛り付けてお味噌汁も注いだらテーブルに運ぶ。


「お兄ちゃん、晩ごはん出来たよー。そろそろ起きてー?」


 一向に起きる気配のないお兄ちゃん。

 私はお兄ちゃんの首にきつく絡まっていたフォンデュ鍋のコンセントコードを解いてあげて、お兄ちゃんの肩を揺らす。


「お兄ちゃーん。もお起きてー。ご飯を冷めちゃうよー」


 肩を揺らしても、むにむに頬を引っ張っても、ぺちぺちと頬を叩いても、お兄ちゃんは起きない。

 こんなに深く熟睡するほど疲れてたのかな。

 お兄ちゃんは頑張り屋さんだから、筋トレとか調べものとか、私が買い物行ってる間にしてて疲れきっちゃったんだと思う。

 ご飯冷めちゃうけど、そんなに疲れてるなら起こすの可哀相だよね。

 仕方ない。

 ご飯はお兄ちゃんが起きてから温め直して一緒に食べるとして、先にお風呂入っちゃおう。

 ご飯とお味噌汁を炊飯器と鍋に戻して、しょうが焼きの皿にはラップをかける。

 お兄ちゃんの身体を拭いてあげなくちゃいけないから、私はシャワーをパパッと済ませて、お湯で濡らしたタオルをかたく絞りお兄ちゃんの寝ているベッドに向かう。

 お兄ちゃんの洋服を脱がす。

 何だか今日のお兄ちゃんはだらりと力が抜けていて服が脱がせづらい。

 お兄ちゃんの上半身を起こして、丁寧に身体を拭いてあげて、次は下半身だ。


「お兄ちゃん、起きないと、ゆかが下も拭いちゃうよ? ゆかが拭いちゃって良いの? ……もう。後で恥ずかしがっても知らないからねー」


 起こしていた上半身を寝かせ、ズボンとパンツを下ろす。

 お尻、前も拭いて足を拭いて、新しいパンツとズボンを履かせてあげる。

 タオルを新しい清潔なものに替えて、お湯に浸してかたく絞ったら、最後に兄ちゃんの腰に付いている人工肛門の周りも丁寧に拭いてあげる。

 人工肛門に取り付けているパウチも新しい物と取り換えて、お兄ちゃんにTシャツと上着を着せてあげて身体を拭くのは完了。

 よほど疲れてるのか、やはりお兄ちゃんは起きそうにない。

 ……仕方ない、ちょっと早いけど、明日に備えて寝ようかな。

 ベッドに潜り込んで、ひんやりと気持ちいいお兄ちゃんの肌に触れる。

 シャワーを浴びて、お兄ちゃんの身体も拭いてあげたことで私の身体は少し火照っていて、少し冷たいお兄ちゃんの体温が気持ちいい。

 目を瞑って、明日のことを考える。

 明日は遂にバレンタインデー。

 お兄ちゃんと結ばれる日。

 明日の為に色々と用意を進めてきた。

 準備にも抜かりはない。

 私はゆっくりと眠りに落ちた。



 朝、今日もお兄ちゃんの隣で目を覚ました。


「お兄ちゃん、おはよー」


 お兄ちゃんの返事はない。

 寝坊助さんめ。

 ベッドから下りて、朝ごはんを作りに台所へ向かう。

 ご飯とお味噌汁は夜作ったものがあるから、ベーコンと目玉焼きとサラダにしようかな。

 お兄ちゃんは目玉焼きは半熟が好きだから、焼き加減にはこだわって慎重に焼く。

 朝ごはんをテーブルに運んで、いい加減寝たままのお兄ちゃんを起こしてあげる。


「お兄ちゃん、朝ごはんだよ。朝ごはんは一緒に食べるんだよ。私とお兄ちゃんの決まりごとだよー。だから起きてー」


 起きてくれないお兄ちゃんの上半身を抱えるように起こして、ご飯を食べさせてあげる。


「お兄ちゃんの好きな焼き加減の目玉焼きだよー。半熟だよー。ほら、とろとろで美味しそうでしょー?」


 箸で目玉焼きを切り分けて、一口、お兄ちゃんの口に運ぶ。

 だらりと開いた口に黄身を入れると、ぼとりと目玉焼きが口から零れ落ち、服を黄色く汚した。

 黄身と一緒にお兄ちゃんの口から血のような赤いものが混じった透明な液体がでろりと垂れて零れてくる。


「お兄ちゃん、何か零れたよー、拭いてキレイにしようね」


 ティッシュで口の周りを拭いて、服に零れた目玉焼きや液体を拭き取る。


「お兄ちゃん、お腹空いてない? ゆかのご飯食べたくない? 美味しくない?」


 お兄ちゃんの返事はない。


「お兄ちゃん、起きてー。何か怒ってる? ゆか、何かしたかなぁ?」


 お兄ちゃんの返事はない。


「お兄ちゃん、起きてよぉ。返事して?」


 お兄ちゃんの返事はない。


「お兄ちゃん、返事してよぉ。何で起きてくれないのぉ? 何でぇ? 何で目を覚まさないのぉ?」


 私はお兄ちゃんの身体を左腕で支え起こしたまま、右手でお兄ちゃんの手を握る。冷たい。


「どうして冷たいのぉ。お兄ちゃん、何で起きないのぉ」


 お兄ちゃんの口から、また、でろりと何かが漏れ落ちる。


「お兄ちゃん、何なのそれぇ? 血が混ざってるじゃん、何でお兄ちゃん血なんか。お兄ちゃん、返事してよぉ」


 お兄ちゃんはまるで糸の切れた人形のようで。

 私がお兄ちゃんの身体を小さく揺すると、お兄ちゃんの頭がぐでっと前に倒れた。

 ありえない動きで、首から上が、まるで萎れた花のように折れた。


「……お兄ちゃん、お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん」


 生きている人間ではありえない。

 まるで、糸の切れた人形のような。

 それは、まるで死体のような。


「お兄ちゃん……? お兄ちゃん? 起きて? お兄ちゃん起きて?」


 返事はない。

 起きる気配もない。

 体温もない。

 脈すらない。


「お兄ちゃん……? お兄ちゃん? お兄ちゃん、死んじゃったの……?」


「私を遺して、死んじゃったの……?」


 そんなこと、あるハズが。


「ゆかとの約束」


 私より先に死なないって。

 約束。


「お兄ちゃん、ゆかとの約束、破ったの?」


 お兄ちゃんは『おう』って言った。

 いつもみたいにぶっきらぼうに、応えてくれたのに。


「お兄ちゃんはゆかと約束したのに」


 お兄ちゃんはゆかと約束してくれたのに。


「嘘だよ」

「お兄ちゃんがゆかとの約束破るワケが」

「起きてお兄ちゃん」

「死んだ振りなんてしないで」

「起きてお兄ちゃん」

「嫌だよ」

「置いてかないでよ」

「ゆかを独りにしないで」

「一緒に居てよ」

「一人でいかないで」

「お兄ちゃん」

「お兄ちゃん」

「ゆかと一緒に居てくれるって言ったのに」

「お兄ちゃん」

「お兄ちゃん起きて」

「目を覚まして」

「ゆかを一人にしないで」

「ゆか、お兄ちゃんが居てくれなくちゃ」

「お兄ちゃん」

「お兄ちゃん、お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん」



「……嫌だぁ……何でぇ? 何で死んじゃうのぉ? 死なないって、ゆかを一人にしないって約束したのに何でぇ? 何で約束破るのぉ? 何でお兄ちゃんだけ。何でゆかを置いてくのぉ……? 私のこと好きって言ったくせに、おうって答えたのに。何でゆかだけ残していっちゃうのぉ。ゆかは何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も愛してるって言ったのにぃ。ゆかは何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、何度もお兄ちゃんのこと好きって言ったのにいぃぃ。何でゆかだけ置いて先に死んじゃうのよぉぉぉ。約束したじゃん死なないって、ゆかより先に死なないってぇぇ……。お兄ちゃぁん……」


 頭を元に戻してあげても。

 身体を強く揺すっても。

 頬をつねっても。

 強く抱き締めても。

 お兄ちゃんは動かない。

 動かない。

 お兄ちゃんは、二度と動かない。

 お兄ちゃんは二度と目を覚まさない。


「ゆかこれからどうしたら良いの」

「お兄ちゃんが居なくて」

「どうしたらいいの」

「どうしたら」

「……一人で生きる?」

「何のために」

「何のために?」

「お兄ちゃんが居ないのに?」

「何のために生きるの?」

「何のために生きるの」

「お兄ちゃんが居たから生きてこれた」

「お兄ちゃんが生きてたから生きてこれたのに?」

「お兄ちゃんが居なくなっても生きてくの?」

「何の為に……?」


 何の為に?

 それにどんな意味があるの?

 お兄ちゃんが私の全てだった。

 お兄ちゃんの為に生きていたのに。

 お兄ちゃんが生きていたから私は生きられたのに。

 お兄ちゃんが生きてたから私は私の為に生きていられたのに。

 お兄ちゃんが居ないと私は私の為にすら生きられないのに。


 一人で生きていく?

 一人で生きる?

 いつか死ぬときまで、一人で?

 その時が来るまで?


「そ、そんなの……ムリ」

「無理。そんなの、無理に決まってる」

「一人でなんて生きてけない。生きていけるワケない」

「お兄ちゃんなしで生きてけるワケないよ」

「し、死のう」

「私も」

「私もお兄ちゃんと一緒に」

「死んでお兄ちゃんと同じところに行く」

「お兄ちゃんと一緒に」

「お兄ちゃんと一緒なら、怖くない。死んでも、怖くない」

「お兄ちゃんと一緒なら死んでも平気」

「うん、平気。怖くない。ちっとも」

「そうだ、うん、そうだ。死のう」

「お兄ちゃんは私なしじゃダメなんだから」

「お兄ちゃんには私が居ないと」

「死んだお兄ちゃんが困ってる」

「お兄ちゃんの側には私が居ないと、ダメだ」


 お兄ちゃんの身体をベッドに寝かせて、立ち上がる。

 お兄ちゃんが使った、コンセントコード。

 お兄ちゃんはこれで首を縛って死んだ。

 じゃあ、私も、お揃い。

 お兄ちゃんとお揃い。

 窓のカーテンレールにコードを結んで、もう片方を首に巻いて縛る。

 ベッドに足が着くけど問題ない。腰が浮く高さなら吊り下がって死ねるんだから。

 ゆっくりと腰を落とす。

 コードが張って、私の首が絞まる。

 ベッドに横たわるお兄ちゃんを見下ろす。

 昨日見た、生きていた時のお兄ちゃんと殆ど変わらないお兄ちゃんの死顔しにがお

 殆ど変わらないのに、死んでいるお兄ちゃん。

 私も、もうすぐそうなる。

 瞼を閉じる。

 首が締まって、少しずつ苦しくなる。

 固いコードで首が圧迫されて痛い。

 苦しい。

 瞼を開けて、もう一度お兄ちゃんの顔を眺める。

 お兄ちゃん、もうすぐ私もいくから。


「おにぃ………ちゃ……」


 その時。

 横たわるお兄ちゃんの頭上、ベッドの隙間に白い紙が挟まっているのが見えた。


「!?……うぐっ……ぐ……!」


 あれは、お兄ちゃんからの手紙!?

 遠退きかけた意識の中、慌てて足を付き、立ち上がろうとする。


「ぐっ……ぁぐ」


 が足に力が入らない。

 頭に血が足りないのか、ぶるぶると足が震えて、踏ん張ろうとしてもがくがく戦慄わなないて上手く立ち上がることができない。


「ぁ……ぁぁ……ぅ!!」


 首とコードの間に両手の指を捩じ込み、コードを掴む。


「っぁ!!……っあ……っぐ」


 引き込むように息を吸い込んで意識が落ちてしまわないように堪える。

 コードを掴んだ指に必死に力を入れて下に引っ張る。

 ぼーっとするような意識の中、少しずつ頭が熱くなる感覚を味わう。

 血が巡っているのだろうか、少し意識がはっきりしたように感じ、足に力が戻った気がする。

 まだ足は震えているけど、何とか身体を支えるくらいの力が戻った。

 足をつっかえ棒のようにして、身体を支えて窓に寄り掛かった。

 段々、頭がすっきりして、足の震えが治まり、指の感覚もしっかり戻る。

 両足で立ち上り、カーテンレールに結んだコードを解き、べたっ、とベッドにへたり込んだ。


「はぁ……はぁ……すぅ……はぁ……すぅ……はぁ」


 荒くなった呼吸を深呼吸で落ち着けて、万端に戻るのを待つ。

 ほんの、あとほんの数秒で意識を手放していただろう。

 紙を目にするのがあと2秒遅かったら、その中身を見ることなく私は死んでいたに違いない。

 手紙を読んだこの後で、結局同じことをするのかもしれないけど、もしお兄ちゃんからの手紙だとしたら、読まずに死ねない。

 お兄ちゃんからの手紙なんだから。

 お兄ちゃんの身体に覆い被さるようによつん這いで移動して、ベッドの隙間に挟まっている紙を抜き取る。

 白い、ノートのページを千切っただけの普通の紙。

 やはり、お兄ちゃんから私への手紙だった。

 いや、手紙とは少し違う、遺書でもないその内容に私は目を通す。


「お兄ちゃん……こんなこと、こんなこと残してどうすんのさ……ゆかのことそそのかして、どうしたいの……」


 私はお兄ちゃんが残した紙を折り畳んで両手で掴み、その手を祈るように引き寄せた。


「でも、ゆかはお兄ちゃんが遺したもの、ちゃんと受け取るよ。だって、お兄ちゃんの身体なんだから」


「守るよ。お兄ちゃんとゆかの、新しい約束」

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