2月14日『sabot』
2月15日。
ゆかちゃんが作戦を決行すると言っていたバレンタインデーの翌日。
出勤時に顛末を
しかし。
ゆかちゃんはその日、職場に現れなかった。
上司に聞くと「分からない。連絡が取れなくて困ってる。電話に出ない」と返された。
どうやら無断欠勤らしい。
結局ゆかちゃんの代わりに夜まで働くことになった。
別にそれは構わないのだけれど(ゆかちゃんの代わりなら)。
この時は、まさか、何かあったのかもしれないと思った。
なぜなら、ゆかちゃんは仕事を無断で休むような常識の無い若者ではない。
それに、ゆかちゃんはやって良いこととやってはいけないこととやらなければいけないことの分別がつけれる子だからだ。
ただ、その一方では倫理観を元から無かったかのように社会のルールから逸脱した思考を発揮する時も確かにある。
だから私は、『何かあったのかもしれない』の後に『ナニかシているのかもしれない』と、下品で下世話なことだけれどついつい想像してしまって、『仕事をサボってまでとは、そんなに良かったか。』などと、きっと明日は現れるだろうゆかちゃんから謝罪と一緒に話されるだろう
2月16日。
ゆかちゃんは仕事に来なかった。
ただし、今日はゆかちゃんから連絡があったらしい。
「仕事辞めます。急な申し出ですみません。今月分のお給料も無しでいいですから。すみません」
そう一方的に言って電話を切ったそうだ。
『何かあったのかもしれない』の方だった。
私は仕事終わりにゆかちゃんの家を訪ねた。
上司に「心配だから様子を見てくる」と無理を言ってゆかちゃんの住所を聞き出して、手土産を片手に彼女がお兄さんと二人暮らしをしている家を訪れた。
最初に思ったのは、そんな失礼なこと。
失礼以外何でもないのだけれど、そう表現するしかない有り様だった。
アパートの壁には植物が這っていて、アパートの半分ほどが既に覆われていた。
二階へと伸びる階段は階段も手摺も赤茶けた錆で崩れているような状態で、階段は用心しないと踏み抜いてしまうんじゃないかと思うくらい脆そうだ。
ゆかちゃんが入居しているのは一階だったので、階段を昇らずに済んだのは十分私がホッと胸を撫で下ろさせる要因になった。
103号室。
ゆかちゃんが暮らしている部屋。
アパート全体と比べると少しだけマシな扉を前に、チャイムを鳴らした。
音が聞こえない。
室内でだけ聞こえるようになっているのかもしれないと思ったけれど、この襤褸いアパートがそんな配慮された設計やシステムを持ち合わせているとは考えにくい。
ということは単純にチャイムが故障している可能性が高い。
念の為にチャイムを2回、3回と続けて鳴らしてみるが、やはりチャイムが中で鳴っていることはなさそうだ。
であればと、扉をノックして、ゆかちゃんの名前を呼んだ。
返事は返ってこなかった。
中から物音もしない。
人の気配だとかそういうのが分からない私は、留守なのだろうと思った。
『辞めます』なんて電話のあった日だ。
何かしていない方がおかしい気もするし、もしかしたら引っ越してしまった可能性がある。
ゆかちゃんはお兄さんにもスマホを持たせていると話していたことがあったから、固定電話はきっと無いのだろう。
ということは今日会社に連絡した時には既に家に居なかったという可能性も考えられる。
あくまで可能性の話だけれど。
一応、気は咎めたのだけれど、扉の鍵が開いたりしていないかと思い、ドアノブを捻ってみたけれど、さすがに鍵がかかっていた。
中の様子だけでも分からないかと、家の裏側に回って窓から部屋の様子を覗いてみた。
が、分厚いカーテンがぴったりと窓の隙間を埋めていて、中の様子も見れなかった。
しかし、少し安心もした。
中にカーテンがかかっているということは、まだ中に人が暮らしているということだ。
であれば、ゆかちゃんが不在だったとして、お兄さんはどうだろう。
以前、ゆかちゃんが「お兄ちゃんは仕事中の不慮の事故で下半身不随なんです。もう、二度と歩けない、下半身が動かない身体なんです」と、少しだけ嬉しそうに話していたのを思い出す。
その時私は顔には出さす、少しだけぎょっとしたけれど、お兄さんを独占したいと心から願っているゆかちゃんの気持ちを知っている今となっては、あの時は他人である私に『身内自慢』をしたのだと理解できる。
しかしだ、全く歩くことが出来ないお兄さんと、仕事を突然辞めるほどのことがあったゆかちゃんが、どんな用事で二人で外出しているというのだろう。
それこそ引っ越しの為に手続きをしに不動産屋に行っているのかもしれないけれど、それならば身体が不自由なお兄さんをわざわざ連れ歩く必要はないし……。
室内から物音一つしないことを考えると、二人とも出掛けていると考えるのが妥当だとは思うのだけれど、何となく私は釈然としなかった。
何だか、色々とちぐはぐのような、突発的に混乱した状況のような、そんな息苦しさにも似た違和感がある。
私はポケットからスマホを取り出し、ゆかちゃんのケータイにかけてみる。
繋がらない。
電源はオフにされているようだ。
既に私からは何度もゆかちゃんのケータイに電話をしていて、ずっと電源がオフになっていることを確認している。
アパートに着いてからも念の為に電話をかけたけれど、やはり電源はオフのままだった。
一体何がどうなっているというのだろう。
心配で来てみたものの、連絡がつかず、家にも居ないのであれば、今のところ私には打つ手がない。
私はゆかちゃんのことが職場の後輩としてではなく一人の友人として好きだけれど、私とゆかちゃんはお互いに一線を越えるような付き合いはしてこなかった。
お互いに、あまり人には話せないようなことも話し合っているにも関わらず、お互いのパーソナルスペースに踏み込むまではしてこなかった。
それは、特に私があまり踏み込んでほしくない気持ちが強かったからで、基本的に質問すれば何でも答えてくれていたゆかちゃんは、踏み込んだ関係になるよう接していれば、きっとそういう関係になれていたんだと思う。
そして、何かあった今になって、私はゆかちゃんとそんな関係になっていなかったことを後悔したのだった。
既に、私の中では彼女は失いたくない友人、世間一般で言うところの『親友』というものになっていたのだ。
身内や味方すら信用せず、利用できるものをなるだけ利用してきた私は、手離したくない程の人間関係という形に、ひどく疎い性格になっていたらしい。
大事なものは、失ってから気付くと言うけれど、そして他でもない私がゆかちゃんに『お兄さんを失っちゃうかもよ』なんて糾弾するようなことを言ったくせに、私自身が大事なものを繋ぎ止めておくことができなかったなんて。
ほんと、可笑しくて笑ってしまう。
2月17日。
職場にゆかちゃんは現れない。
当然だ。
彼女の中では、この職場との関係は既に終わってしまっているのだから。
2月18日。
朝、昼、夜とゆかちゃんのケータイに電話をしてみた。
メッセージも送って、後からでも、気付いてからでも読めるようにした。
『いつでも話聞くし、相談にも乗るから、連絡ちょうだいね』と。
2月19日。
仕事が終わって、帰宅した時には時計は23時を回っていた。
上着をハンガーにかけ、部屋着に着替える。
何となく、スマホを手に取り、ゆかちゃんに電話をかける。
きっと繋がらない。
今日も電源はオフになっているだろう。
そう思った。
『はい、もしもし。……ミホさんですか?』
ゆかちゃんの声だった。
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