2月5日『Trouble』
俺は基本的に外出することがない。
病院には今でも定期的に通わなければならないので、その時は仕方なく出掛けるが、病院には妹が必ず付き添うので一人きりということはまずない。
つまりこの身体になってから、俺は一人で出歩いたことがない。
いや、出歩く為の足が俺にはないのだから、やはり外出したことがない、が正しいか。
この身体になって、生活に支障が出たこと、これまで通りいかなくなったことは数えきれないほどあるーー性欲の処理も褥創の予防もそれに含まれるーーが、その最たるものが排泄にまつわること全般だ。
転落し下半身の機能を失い、病院で処置を受けていた時は直接食事をすることがなく、点滴のみで生きていたので気が付かなかったが、上半身の機能が回復し、流動食を食べ始めるようになってから、尿と便の処理を看護士の人が毎日欠かさず処理をしてくれていることに気が付いた。
それまでの俺にはとても信じられないことだったが、今の俺には人工肛門というものが付いている。
これは本来、腸や肛門に病気を患い自身で排泄ができなくなってしまった人が手術によって取り付けるものなのだが、俺の場合は自らの意志で手術を希望した。
その方が、社会復帰の可能性が増すと判断したからだ。
人工肛門とは簡単に言うと、身体に取り付けた専用の袋に便を誘導して処理するというもので、トイレなどで自力で排泄するのではなく、人工肛門から出てくる便を処理することで便の排泄を行うというものだ。
この一見手間のかかる方法には、障害者にとってメリットとデメリットを兼ね備えていて、俺はメリットの方が大きいと判断した。
実際、楽と言えば楽である。
メリットは、便の処理を一人で行えること。
自然排便によって身体に取り付けたパウチ(専用の袋)に便が溜まると、それを交換し処理すればいい。
だいたいの半身不随の者が行う指で肛門を刺激し便を掻き出したりなどの手間のかかる手順や介護者を必要としないことが大きなメリットだと俺は思った。
デメリットは、排便のタイミングをコントロールできないことと、臭い、そして衛生面だ。
身体に取り付けた人工肛門は、俺の意思とは関係なく排泄を行う。
つまり、溜まったら出る。
もちろん、食べる物、食べた時間によってある程度排泄の時間を図ることはできるが、最終的には勝手に排泄されてしまうため、何をしていようと否応なく排便されてしまう。
そして二つ目のデメリットとして、どこにいようと、何をしていようと排便されてしまうのだから、大衆の中で臭いを発してしまう可能性がある。
三つ目のデメリットの衛生面だが、これに関しては他者に迷惑をかけるものではなく、俺自身への影響、被害が最もな理由である。
一言で言うと、合併症を引き起こすリスクだ。
とりわけ人工肛門を取り付けている皮膚にその被害が出やすく、便中の細菌や、取り付けている器具そのものの刺激で皮膚が炎症を起こしてしまったり、便に含まれる消化酵素によって皮膚が#爛__ただ__#れてしまう可能性がある。
皮膚に関する合併症だけではないのだが、可能性が高いものとして皮膚が一番のリスクであり、一度起きてしまうと治りにくいという点も大きな問題点である。
その為、肌のケア、予防には注力しなければならない。
一度、バリアフリーになっているレストランで妹と食事をしたことがある。
その日は妹の成人の祝いで、妹はわざわざ休みを取って「お兄ちゃんにお祝いしてほしいんだ」と、店選びをし、ドレスコードを手配し、俺をエスコートしてくれた。
自分の祝いの日なのに俺を持成す意味が俺には分からなかったが、「お兄ちゃんにをエスコートできるなんて、妹冥利に尽きると思わない? 私が働いたお金で、お兄ちゃんに楽しんでもらえるなんて、こんなに幸せなことはないよ」とまで言われてしまっては持成されない訳にはいかない。
正装に身を包み、ドレスアップした妹と食事に舌鼓を打ち、初めて訪れた高級なレストランで妹と会話を楽しんだ。
妹の幸せそうな顔を見ることができて、俺も事故以来久し振りに幸せだったと思えた。
しかし俺の幸せなんてそう長く続かないもので、妹と向かい合ってテーブルにつき食事を続けていると、ウェイターの一人が俺に近付き耳打ちをしてきた。
「大変失礼で申し訳ございません。後ろの席のお客様からクレームがありまして、お客様から異臭がする、と。恐れ入りますが、お心当たりはありませんか?」
俺に心当たりが無い訳がない。
後ろの客もウェイターも、臭いの原因は俺にあると判断してのことだった。
当然、臭いの原因である俺はその場を離れるしかない。
次の食事なんて言っている場合ではない。
このままここに居ては折角の日に俺を連れ立ってくれた妹にまで赤っ恥をかかせてしまうことになる。
そう思った俺は、妹に正直に伝えた。
「ごうぇん、気がつかなかった。どうやあ、たいょうあよくなかったみたいなんだ。このまましょくぃをつづけぅのはむぅかしいみたいだから、かえろう」
ウェイターには先に会計と帰る準備をしてもらうこと、その前にトイレを借りることを説明していて、ウェイターは快く頷いてくれていた。
妹はと言うと、少し怒ったような、それを我慢するように、目に涙を薄く溜めて辺りを見回していたが、周りの目と仕度を始めたウェイター、そして俺の申し訳なさそうな態度で渋々受けいてれくれた。
ウェイターを手招きで呼んだ妹が、俺の車椅子を押して広いトイレに一緒に入り、俺の人工肛門とパウチの取り返え、処理を手伝ってくれた。
涙を流しながら、「こんなの酷い。せっかく楽しいしご飯だったのに、お兄ちゃんが悪い訳じゃないのに」
そう言いながら、ついさっきまで高級な料理をナイフとフォークで取り分けていた手で、俺の便を洗い流してくれた。
俺は自分の人工肛門を丁寧に消毒したり、肌を殺菌タオルで拭き取ったりしながら、無言でそれを眺めるしかなかった。
店の計らいで食事代は要らないということになった。
妹は「それでは私の気が済まない」と怒り口調でスタッフに金を払おうとしていたが、オーナーらしき偉そうな人が丁寧に俺と同じ目線でお詫びをしてくれていたこと、「また、いつでもお待ちしておりますので、その際はご予約の際にお申し付けください。お二人の為に席をご用意させて頂きます」と誠意を示してくれたことで、手に固く握り締めていた札を財布に仕舞った。
帰りの福祉タクシーの中で、妹はまた悔し涙を流していた。
俺は妹の頭を撫でて、「じゅうぶぅ楽しかったぉ。あぃあとな。良いおぃせだったいゃないか」と言いながら、同時に、もうあの店に行くことは二度と無いんだろうな、と考えていた。
俺の所為で、妹が迷惑を被る。
俺の所為で、妹が恥をかく。
俺の所為で、しなくて良い不快な思いを誰かがする。
社会復帰の為に手術を受けた人工肛門は、俺の我が儘でしかなくて、誰も俺の社会復帰なんて望んでいない。
施設で介護スタッフの人の手を借りて、排泄の処理を手伝ってもらっていたほうが、よほど世の中の摂理に準じていたんだと気付かされた。
居たたまれなくて、ゆっくりと、徐々に取り戻し始めていた根拠の無い自信はまたも崩れてしまって、社会不適合者の自分は、一生人目に触れず生きていく方が世の中の為になるんだと思った。
福祉タクシーから降り、運転手と乗降時のヘルプスタッフの二人にお礼をして、妹に車椅子を押され安アパートに入る。
ベッドに身体を移して、妹が用意してくれた熱い濡れタオルで身体を拭いて、手の届かない背中を妹に拭き取ってもらいながら、また陰鬱な気持ちに浸った。
「ありがとう」とまともに喋ることすら出来ず、一人で風呂に入ることすら危うく、背一つ拭くことが出来ない。
手に職は無く、一人では会社に出社することすら出来ないだろう。
一人で生きれるようにとしなくても良い手術で取り付けた新しい身体の一部は他者に不快な思いをさせるものでしかなく、新しいパウチを貰いに行くのにも、また福祉タクシーを使わなければならないのだ。
どれだけ。
どれだけ俺は他人の世話にならなくてはいけないのだろう。
迷惑をかけ続けなければいけないのだろう。
いっそ、転落した先が固いコンクリートで、即死していた方が妹の未来を妨げなかったんじゃないのか。
それは今からでも遅くないんじゃないか。
足の指先まで丁寧に拭きあげてくれている妹の柔らかな髪の毛を眺めながら、覚悟をしようとしていた。
が、
「お兄ちゃん」
と妹に呼ばれ、我に返った。
「おう」
短く応える。
「また、いつかあのお店行こうね」
そう言って、俺の顔を見上げた妹は、笑顔だった。
いつもの、朗らかで、可愛くて、誰にでも愛されそうな表情で、屈託なく、優しげで、快活な瞳で、引き上がった口角で、
「良いお店だったよね。ご飯が美味しくて、お店の人は礼儀正しくて、心遣いも上手で。とっても良いお店だったよね? 私、お兄ちゃんと二人で、またあのお店に行きたい」
そう言って笑った。
「行こうね。絶対。約束」
冷たくなった濡れタオルを車椅子の膝掛けにかけ、右手の小指を立てて俺の前に差し出した。
「お兄ちゃん。約束。指切りしよっ?」
ずいっ、と右手を俺の目の前に押し出して、左手で俺の右手を掴み持ち上げる。
無理矢理俺の小指に指を絡ませ、小さく上下に振りながら妹は愉しそうに歌った。
「ゆーびきーりげーんまん嘘吐いたら一生ゆーるさーない、死ーんでやる、指切ったっ」
小指を振りほどいて、妹は顔を伏せた。
「お兄ちゃん。約束だからね。お兄ちゃんが私より先に死んだら、私も死ぬから。事故でも病気でも、どんな理由でもお兄ちゃんが私より先に死んだら、私もお兄ちゃんの後を追って死ぬから。お兄ちゃんが居なくなった世界になんて、私、興味ないから」
顔を上げた妹は泣いていた。
妹の声は震えていた。
「だから、私より先に死なないで。お願い。約束して」
俺の右手を両手でぎゅっと掴む。
温かな熱が、じんわり伝わってくる。
俺は、未来の無い自分を呪いながら、希望ある未来しか見えない妹に答える。
「おう」
こうして俺は、とうとう死に損なったのだ。
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