あかさたなはま やわら!

荒城 醍醐

あかさたなはま やわら!


「『え~、母の仕事の都合で・・・・・・』いや、いきなり母子家庭宣言はまずいわね。『親の仕事の都合で』かしらね。うそじゃないし。『東京から越してきました、谷和原天吏です。谷に和む原っぱと書いて【やわら】と読みます。【あまり】は【天使】のにんべんを取った字です。小学校の割り算の授業以来、からかわれているので、できたら名前でからかうのは勘弁してください』って高一の入学時の使いまわしだな~」

 高二の秋にして、初めての通学路。転校生として、たぶん求められるであろう自己紹介を無難にこなすために、ひとりで予行演習をするには十分な道のりだった。

「前の学校では部活はやっていませんでした。こんな中途半端な時期でも楽しく参加できそうなところがあったら紹介してください。趣味は・・・・・・」

『趣味』という単語に反応して脳裏に浮かんだのはドラムスティックだった。首を振って、その絵を振り払う。

「特技は・・・・・・」

今度はドラムセットが現れた。これも振り払う。

「だめだめ、もうやめたの。今度の高校では、おしとやかな文学少女路線よ。趣味は読書。特技なんて言わなくていいわ。なんにもできませ~んってくらいがちょうどいいのよ」

 ドラムを叩かなくなって約一ヶ月。手の平のまめがやっと消えはじめてきて、ネコの肉球みたいにフニャフニャな手も女の子らしくていいわよね、と今朝自分に言い聞かせたばかりだった。

 地方都市とはいえ、学校は市の繁華街に隣接した地域にあり、通学路はにぎやかだった。

 校舎らしい四階建ての建物が目に入る。垂れ幕が何本も垂れ下がっていて「祝 全国大会出場 バレーボール部」というふうに、運動部の活躍がたたえられている・・・・・・が、よく見ると校名が違う。天吏がこれから通う県立高校ではなく、隣にあるミッション系の私立女子高だ。この女子高はスポーツ関係が全国レベルらしい。そういえば東京に住んでいたころにも聞いたことがあるような校名だった。

 その女子高を通り過ぎると、めざす高校の正門が見えてきた。転入手続きで先日母と訪れたときはタクシーで玄関前まで入ったので、正門を歩いて通るのは初めてだ。

 正門のレールの上で立ち止まり、これから一年半通うことになる学校を見渡す。街中にあるためかグラウンドは狭く、高いネットに囲われている。グリーンのネットに囲われたテニスコートは二面しかない。古いが鉄筋二階建ての体育館が銀杏並木の奥に見える。プールは無いのだそうだ。

 創立当初は公立女子学校で、お嬢様学校だったとのこと。その名残で、今でも女の子をこの高校に入れようという親や祖父母が多く、女子のほうが人数が多い共学の進学校、という位置づけらしい。スポーツは市大会どまりがほとんどで、隣の女子高のような派手な活躍はない。

 天吏が校内を見渡していると、正門から見て一番手前にある校舎の屋上から、突然白い布が下りてきた。シーツを継ぎ接ぎにしたような垂れ幕だ。文字は、さきほどの女子高のようなプロの手による活字ではなくあきらかな手書きである。

「祝、全国詩吟大会準優勝 二年五組 河野由香里さん・・・・・・?」

 へぇ、がんばってる人いるんじゃん。でも、なんでちゃんとした垂れ幕じゃないのかな? と天吏が不思議がっていると、後ろで小さな悲鳴があがった。

「きゃぁっ!」

「ちょっと、あれ何? 由香里のことじゃない? 由香里、だいじょうぶ?」

小柄な女の子が顔を真っ赤にしてかがみこんでいる。彼女が河野由香里さんらしい。通りかかった友人らしい女子生徒が心配げに声をかけている。詩吟の準優勝者にしてはかわいらしい悲鳴だな、と天吏は思った。

 屋上から大きな声がした。

「河野由香里さん! おめでと~!」

「おめでとう!」

「みなさんはくしゅ~!」

「拍手!」

 声の主は二人の男子生徒だ。ワイルド系と王子様系の二人の男子生徒が屋上の枠から身を乗り出し、紙ふぶきを撒きながら交互に叫んでいた。二人はしきりに河野由香里の方に手を振っている。

 由香里は両手で顔を覆ったまま、立ち上がれないほど恥ずかしがっている。まわりには、登校してきた生徒たちが、二十人、三十人と集まっていて、垂れ幕とバカ騒ぎするふたりを見て喜んでいるようだ。

 状況があまりわかっていない天吏は、半分不思議顔で河野由香里のところに歩み寄って手を差し出した。

「あれ、あなたをお祝いしてくれてるんじゃないの? 手ぐらい振ってあげたら?」

 河野由香里は声の主を見上げた。彼女にとって天吏は見知らぬ女生徒だ。制服も違っている。天吏の肩越しに、屋上で手を振る二人の男子生徒が見えた。

「やだ! 恥ずかしい!」

そう叫んで立ち上がると、彼女は走って校舎の玄関の奥へ消えてしまった。

 わけがわからず天吏は屋上を振り返った。二人の男子生徒のうち、ワイルド系の方が天吏を見ていた。天吏の顔をじっと見下ろしている。王子様系のほうも、それに気がついて天吏を見た。

 そのとき、校舎から出てきたジャージ姿の教師が屋上へ向かって叫んだ。

「こらぁ! たなはま! あかさ! また、きさまらか! それをかたづけてすぐに職員室へ来い!」

 我に返ったふうのワイルド系が教師に向かって答える。

「先生! みんなが登校してくるまでくらい、出させておいてくれよ!」

「力作でしょ!? 作るのに一晩かかったんですよ~!」

王子様系も続いた。どうやら、ワイルド系が先にしゃべって、それに王子様系が付け足すのが、このペアのスタイルらしい。

「よ~し! そのかわり覚悟しとけ! 屋上は生徒立ち入り禁止なんだからな! こってり絞ってやる!」

「は~い!」

「了解で~す」

その後も二人のアピールは続いた。

「二年五組の河野由香里さんが、快挙で~す!」

「やりました~!」

「大人に混じって全国詩吟大会に選抜出場、ランク別で、みごと準優勝!」

「みんなで彼女の活躍を称えましょう!」

 この学校の朝って、いつもこんなものなのかしら、と思いながら玄関に向かう天吏が、もう一度屋上を見あげると、目が合ったワイルド系が、にこやかに彼女に手を振っていた。

「軽~」

 初対面の女の子に、笑顔で手を振るようななれなれしい軽い男は嫌いだ、と、自分の嗜好を確認するように呆れ顔を作って、天吏は校舎に入った。


 まず職員室へ行った転校生の天吏が、教師に連れられて行った教室は二年五組で、クラスを見回してもあの二人組の男子の姿は無く、それらしい空席もない。いきなり同級生、とかいうおかしな縁はなかったらしい。

 このクラスで知った顔と言えば、詩吟少女の河野由香里さんだけだった。こちらは縁があったらしい。

「親の仕事の都合で東京から越してきました、谷和原天吏です。谷に和む原っぱと書いて『やわら』と読みます」

 自己紹介は、途中だったが、続けられなくなった。彼女が苗字を名乗ったとたん、クラスがざわつき出したからだ。

「静かに! し・ず・か・に!」

 まだ二十代らしい担任の女教師が、キツめに注意してなんとか収まったが、とても名前についてのネタを続ける雰囲気ではなくなっていた。

「部活はやっていませんでした。仲良くしてください!」

とだけ言ってペコリと頭を下げて切り上げることになった。座席は、河野由香里の隣だった。やはり縁があるらしい。

 ホームルームのあとの休み時間になり、まわりの女子が転校生を質問攻めにした。主に東京の話で、ファッションスポットの様子を聞かれたが、天吏はそういうところに縁がないので、雑誌で情報を得たクラスメイトたちのほうが詳しいくらいだった。

 天吏としては、さっきの自己紹介でのざわつきについて聞きたかったのだが、放っておいたのではその話にならないらしい。まずは、さきほどから質問に参加せずに天吏の方をじっと見ている河野由香里に話しかけてみることにした。

「河野さん、今朝の垂れ幕、あなたのことなんでしょう? 準優勝おめでとう」

「ぁ、ありがとう」

河野の話声はやはり、小さかった。

「ありがたくないわよ、ねぇ。あのふたりの騒ぐネタにされただけで、迷惑よねぇ」

「詩吟で垂れ幕って、悪乗りよね」

 まわりの女子の話に、思わず、ドン! と机を叩いて天吏が反論していた。

「詩吟だって何だって、全国大会よ?! 並大抵のことじゃないわ! 甲子園や花園と同じよ! 垂れ幕くらい、当たり前じゃない!」

まわりの女子は引いてしまっていた。

「ゆ、由香里の快挙をどうこう言ってるわけじゃないのよ」

「そ、そうよ。由香里は立派よ」

彼女たちは席を立って行ってしまった。

 しまった、転校初日の初っ端から素を出してしまった、と天吏はちょっとだけ後悔した。

「ありがとう。わたし、ほんと言うと、垂れ幕とってもうれしかったの」

しばらくすると河野由香里が蚊の鳴くような声で言った。

「詩吟は部活とかじゃないから、学校にも言わないで大会参加して、昨日の夕刊で小さな記事になっただけだったのに、学校であんなにしてもらって。うれしかった」

 天吏は椅子を横に向けて、河野由香里の方を向いた。去っていったクラスメイトたちのことはしょうがない。由香里の方が、天吏と話が合いそうだった。

「わかる、わかる」

「谷和原さんも、経験あるの?」

「ええ。わたしも部活じゃないけど全国大会に出られて、垂れ幕じゃなかったけど学校でも生徒会から表彰してもらえたの。自分の努力が仲間に認められるのってうれしいよね」

「谷和原さんは、何?」

「あ・・・・・・ええと、わたし、もうやめちゃったんだ。だから言いたくない。ごめんね。あ、それと、わたしのこと天吏って呼んで」

「じゃあわたしは由香里ね」

ふたりは微笑み合った。

「あのね、天吏・・・・・・さん」

「呼び捨てにしましょうよ」

「ええ、そうね。あの、さっきの自己紹介のとき、みんなが騒いでたの訳がわかんなかったでしょ?」

「ええ」

「あれ、あなたの苗字のことなの」

「ああ。谷和原ってめずらしいでしょ? でも珍名だからって反応じゃなかったわね。同姓の変人でもいた?」

「いいえ、いないの。他にいないからよ。ほら、今朝の二人組。三年生の阿笠さんと店浜さん」

 教師もそう呼んでいた。あかさ・・・・・・たなはま・・・・・・?

「あかさたなはま?! 五十音ね!」

「そう!」

由香里はやっと詩吟少女らしい大きな声を出した。が、まわりの注目を浴びて、また背を丸めた。

「わたしは『やわら』よ、『やらわ』じゃないわ」

由香里と頭を寄せて話す天吏もなぜか小声になっていた。

「ええ、でもその三文字ってだけでも貴重じゃない?」

「で、『やらわ』だったからって何だっていうの?」

「あのふたりは、何かのサークルっていうんじゃないんだけど、ふたりで組んで校内でいろいろやってるの。この学校が大人しすぎるから、盛り上げたいんだって。で、ついたあだ名が『五十音ペア』。足りない『やらわ』が仲間に欲しいって、前から言ってたそうなのよ」

「ふ~ん。でも、サークルでも何でもないんだったら、勧誘もなにもないじゃない。それともナンパみたいにお友達になりましょう、って?」

 そのとき、教室の後方の扉を開けて、二人組が顔をのぞかせた。『五十音ペア』だ。

「谷和原天吏さん、谷和原さん」

ワイルド系は丸めた垂れ幕を肩に乗せている。かなり重そうだ。王子様系は、透明ゴミ袋に紙ふぶきを入れてサンタのように背負い、二本のほうきとちりとりを持っている。ばら撒いた紙ふぶきをふたりで集めたらしい。

「いらっしゃいましたら、教室後方出入り口までおいでください」

 教室のあちこちで『ほら来た』というような反応が起こる。谷和原にクラスの注目が集まる。

 転校初日の天吏としては、ここでネコを被って逃げ出したり泣き出したりの演技をする手も考えられたが、自分に非が無いのなら堂々とするっていうのが谷和原の流儀だった。

 彼女は堂々と歩いて二人の前に出て行って腕組みをした。

「わたしが谷和原よ。何か御用かしら?」

垂れ幕を肩に担いだワイルド系は、彼女が目の前に来ると黙ってしまった。横の王子様系が言った。

「今度の学園祭、ぼくらといっしょに演奏をしませんか?」

「演奏?」

天吏が王子様系に訊き返すと、ここでやっとワイルド系も口を開いた。

「ああ! ドラムを担当してほしいんだ」

二人組はニコニコだったが、天吏の表情は固まってしまっていた。

「・・・・・・なんで、ドラムなのよ」

小さな声で天吏が吐き捨てるように言った。

「え?」

ワイルド系が聞き返す。

「出てって!」

「へ?」

「わたしの前から消えなさいって言ってるのよ!」

 天吏はビシッ! と二人組の後方を指差し、右足を力強く踏み出した。有無を言わせぬ迫力があった。

「き、機嫌悪そうだな」

「し、失礼。出直します」

 二人組が怯んで去っていったのを確認して、天吏が席に戻る。新しいクラスメイトたちの好奇の視線が集中しているのが痛いほどわかる。転校初日から、完全に正体がばれてしまった。もう、ネコは被れない。

 視線やひそひそうわさする声は次第に収まり、周囲の雰囲気が普通に戻ってきた。

「天吏って彼氏さんいるの?」

まだ呼び捨てがぎこちない口調で、隣の席から身を乗り出して由香里が尋ねてきた。

「え? いないわよ。なんで?」

やや荒い口調が残っているのは、怒りが完全に収まっていないからだ。怒りの矛先は、あのふたりではなく、どうして転校初日からドラムの話が出るのか、という運命に対してのものだった。

「さっきの二人って、かなりイケメンでしょ。校内にファンが多いのよ」

 天吏は数秒間二人の顔を思い出してみた。たしかに、いわゆるイケメン二人組だ。しかし、自分と結びつけて考えることは思いもよらない。

「ひょっとして由香里もファン?」

天吏に笑顔が戻った。

「え、わたしは・・・・・・遠くから見てるだけで」

「じゃあ、垂れ幕は二重にハッピーだったわね」

由香里をひやかしていると、怒りはどこかへ行ってしまった。

「うん」

「ね、ね、どっちなの?」

「そういう具体的なのじゃないの」

「へぇ、どっちでもいいんだぁ」

頷きながら納得したように言う天吏。

「露骨な言い方ねぇ」

由香里は苦笑いした。

 天吏が頼みもしないのに由香里が二人組の解説を始めた。

「ワイルドなほうが阿笠くんで、王子様みたいなのが店浜さん。ふたりとも三年二組よ。阿笠くんはスポーツ万能で、店浜さんは学力トップなの。わたしたちの入学式のときなんか、ふたりが花火を上げたのよ。真昼間に花火ってとこがおもしろかったわ。消防の人とか来て、あとでこってり絞られてたみたいだけど」

「くだらないこともやってるのね」

「くだらなくないよ。おかげでわたしたちの学年で入学式のことをおぼえていない人なんていないわよ。天吏も学園祭の演奏っていうの、やってみれば?でも、いきなり演奏って無茶か~。練習して覚えるにしてもあと二週間だし」

「・・・・・・演奏はできるけど・・・・・・ドラムはだめよ」

うつむく天吏の顔を由香里が覗き込む。

「ひょっとして、天吏の全国大会ってドラム?」

返事はない。

「ゴメン、言いたくないんだったね」

由梨香はそこでおだやかに話を切った。


 勧誘は一度で終わらなかった。

 昼休みにも『五十音ペア』はやってきた。ワイルド系の阿笠はエレキギターを持ってきている。

「谷和原さん、谷和原天吏さん」

ポロンと弦をはじくが、アンプに繋いでいないエレキギターは情けない音だ。店浜が校内放送ふうに続ける。

「旧軽音部室へおいでください」

「学園祭で演奏しようぜ!」

阿笠がエレキギターを弾きまくるが、やはり音がなさけない。

 天吏は教室の後ろ出口までクラスメイトたちの視線に晒されながら歩いていって、仁王立ちになった。

「あんたたち、そんなとこ突っ立ってたら邪魔になるでしょ! どいてよ! わたし、お弁当じゃないから購買部へパン買いにいかなきゃなんないの」

「おやおや、もう、昼休み始まって3分も経っちゃってますよ」

心配顔の王子様系の店浜が言う。

「もう、やきそばパンと三角サンドは売り切れだな。ハムキャベツパンかあんドーナッツかな、残ってるの」

阿笠はエレキを鳴らしながら歌ってるようなしゃべり方だ。

 横をすり抜けて、天吏が廊下を進んでいくと、二人がついてくる。

「この学校の軽音部、部員不足で一昨年解散しちゃってさぁ。でも、部室と楽器だけは残ってるんだぜ」

「去年の学園祭のステージはお堅い系ばかりでしてね、観客が座って聴くようなのしかなかったんですよね。やっぱり、立ち上がっていっしょに騒ぐようなのも必要だって、思いませんか?」

「出場登録するグループ名は『五十音ペア』じゃサマにならないから、おまえを入れて『あかさたなはまやわら』で行きたいんだよなぁ」

 ほんとに名前だけで選んだのか、しかもいきなり『おまえ』呼ばわりとは、と、あきれるやら頭に来るやらで、なにか言い返しそうになった天吏は、ぐっとこらえた。彼らのペースに引き込まれてはいけない。言い返したら術中にはまってしまう。これは策略だ。無視だ、無視。

「いちおう、オレはギターが弾けて、こいつはキーボードができるから、おまえにはドラムをやってもらいたいんだ」

 阿笠の言葉に対し、無視を心がけて足早に購買部へ向かう天吏の表情に、怒りを読み取った店浜は、このまま彼女を挑発してみる手を思いついた。

「まあ、ドラマーって言っても、いきなりできるもんじゃないし、女の子に無理なのはわかっているんですけどね。座ってダンダン叩いてりゃ、聞いてるほうは納得してくれると思うんですよね」

 阿笠は、店浜の作戦にすぐさま同調した。

「そうだなあ。名前だけでいいっつっても、さすがに聞いてて苦痛になるようなのはまずいから、二週間練習して『女の子だからこんなもんか』くらいに思ってもらえるようにはなってほしいんだが、・・・・・・これも無理かもな~」

 天吏の中でグツグツと沸騰しはじめるモノがあった。こっちが無視し続けているから挑発してきているんだということは、まだ冷静さを残している部分が感じ取っていた。

 話を聞いちゃいけない。

 なにか別のことに集中しよう、と思った天吏は、空腹だったこともあり、昼食のことを考えることにした。

 由香里が場所を教えてくれた購買部はもうすぐだ。この先の渡り廊下を渡った、体育館の一階側面出入り口横が購買部だということだった。

 前の高校には学食があって、好きなセットメニューが売り切れになることもなく、昼休みのどの時間帯に食べに行っても、ゆっくり昼食がとれていた。

 今度の高校では、弁当を用意してなければ購買部でパンを買うしかないと知ったのは、さっき午前中の授業が終わったときに、由香里と昼食をいっしょにとろうと話したときが初めてだった。由香里は自分のお弁当を分けてくれると言ったけれど、そこは甘えられないと、購買部へパンを買いに行くことにしたのだ。

 授業が終わるや否や教室を飛び出していた生徒の数を考えれば、購買部のパンの競争が激しいのは予想できた。由香里と話してから購買部に向かった天吏は、競争から取り残されている。阿笠は何と言っていた? やきそばパンと三角サンドは売り切れ? 残ってるのはハムキャベツパンかあんドーナッツ? ハムキャベツパンって、どういうネーミングなんだろう。あんドーナッツっておやつじゃないの? とか考えていると購買部が見えてきた。

 阿笠と店浜は、天吏が完全に無視しはじめたことを感じ取って、話しかけるのをやめて、天吏の様子を観察しながら横をついて歩くだけになっていた。話を聞いてもらうチャンスをうかがっているようだ。

 購買部の前は、天吏の予想に反して、パンを買い求める生徒の姿はなかった。押し合いながらパンを奪い合う、バーゲンセールの戦場のようなシーンを想像していたのに、そこにあるのは静かな売店風景だった。

 理由は明白だった。戦争はもう終わっていたのだ。

 パンがぎっしり並んでいたと思われるケースには、もうパンが五個しか残っていなかった。そのうち四個は、小さなコッペパンにキャベツの千切りが挟まったもので、申し訳程度にハムの細切れが混ざっているらしいのが見えた。これがハムキャベツパンらしい。

 あいにく、天吏はキャベツが苦手だった。このハムキャベツパンのキャベツが主張する存在感は、彼女の許容範囲をじゅうぶんに超えていた。

 残る一個があんドーナッツだった。揚げられて砂糖がたっぷり付いたそのパンは、見るからに甘そうで、お菓子としてしか認識できそうになく、しかも想定されるカロリーに抵抗してスタイルを維持するには、四、五キロのランニングが必要になりそうだった。ドラムをやめてからの天吏はカロリー消費が極端に減ったためか、太りやすくなっているようだった。

 本当に好きなお菓子を食べたときなら、その代償としての運動は納得できたが、ほかに選択肢がないからという理由で選んだカロリーの塊のために、つらい運動をしなければならないものだろうか。

 天吏が両拳を握り締めてこの状況に憤慨している間に、さらに状況が変わった。あとから来た大柄な男子生徒が「おばちゃん、これ全部」と言ってパンを五つとも買って行ってしまったのだ。

 阿笠が天吏の右後ろでポロン、とエレキギターを爪弾いた。

「あ~あ、売り切れちまってやんの」

 店浜が追い討ちをかける。

「おしかったですねぇ。あそこは迷う場面じゃなかったんじゃないですかねぇ」

「軽音部室には、俺たちが買っっておいたやきそばパンと三角サンドが三個づつあるんだけどな」

「今なら、ドラム演奏体験をお試しの方に、もれなく一個づつ定価でお譲りします、ですよ」

 天吏は後ろのふたりを、きっ! とにらみつけた。

「この購買部は、ちゃんとリサーチでもして適正な仕入れをすべきだという根本的な問題は置いておくとして、あんたたちみたいな買占め野郎のせいで、好みのパンを買えなかったひとたちは、毎日どうしているのか教えてもらいたいものね!」

「この学校、休み時間も門は開きっぱなしだし、見張りもいねぇし」

「まわりはお店も食べるところもたくさんありますからね。まあ、校則違反ではあるんですけどね」

 天吏はさげすむような目でふたりを見て反論する。

「転校初日のわたしに校則違反しろって言うの?」

「いや、おれたちが勧めてるのは、校則違反のほうじゃなくて軽音部室で待ってるやきそばパンと三角サンドのほう」

「あわせて280円ですよ。ドラム体験つきでね」

「あ、飲み物は、そこの自販機しかないぞ。校内にはな」

阿笠は購買部の横の自販機を指差した。

「そうなんですよ。前にその状況を憂いて、臨時のジュース店を開いたら、こっぴどく叱られましたっけね」

「ああ、喫茶店の申請が必要なんだってな。あれは完敗だった。世の中面倒だよな」

 ふたりは、なつかしい思い出話に遠い目をしている・・・・・・演技をしてみせていた。天吏をからかっているのだ。これには、ついに天吏の中で何かが切れた。

「……案内しなさいよ、軽音部室。女にはドラムは叩けないとかバカにしてたわね」

 天吏はむかし父に言われたことを思い出していた。

『ドラムは怒りにまかせて叩くものじゃない。しかし、感情のこもったドラムは感動を生むことができる。機嫌が悪いときに叩いたらスッキリするのもたしかだし、父さんは、天吏が怒ったときにドラムを叩くのに反対はしないぞ』

 まさに今がその状態だった。

 音楽準備室の奥の間仕切りの中の八畳間ほどの旧軽音部室には、真ん中にドラムセットが叩ける状態で置かれていた。一昨年の廃部以降、主が居なかったというわりには、手入れがされているようだった。『五十音ペア』の仕業だろうか。

 天吏にとってドラムスティックを持つのはおよそひと月ぶりだった。持ちなれた自分のスティックではないが、それは懐かしい感触だった。

 天吏は「見てなさい!」というふうに『五十音』ペアの顔を順ににらみ、ドラムに向き直った。

 まず、軽くひととおり叩いて音を確かめる。そして、大きく息を吸い込んでから一番気に入る音を聞かせてくれた太鼓に向かって、勢いよくスティックを振り下ろした。

 叩き始めると、まず『五十音ペア』の存在が天吏の脳裏から消えた。そして、ここが新しい高校のはじめて入った軽音部室だという事実が消え、購買部のパンの品薄に対する怒りが音に昇華されていくのが自分でもわかった。

 嵐のような演奏は、時間にすれば一分ほどだった。

 最後にシンバルを思いっきり叩いて、溜めていた息を「ふぅ~」と吐いた天吏は、東京のいつものスタジオで練習していた日常にトリップしていた。

 拍手する五十音ペアを目の当たりにしても、自分が転校先で一ヶ月ぶりにドラムを叩いていたのだということを思い出すには、数秒を要した。

「すげぇじゃん。これなら学園祭も即オッケーだ」

「いやー、失敬失敬。バカにしてたことは謝りますよ」

 ひさびさとはいえ、かなりの演奏をしたつもりだった天吏にとっては、ふたりのおどろきぶりがおとなしいものだったのは意外だった。

 怒りが収まって冷静さを取り戻していた天吏は、スティックを置いてサイフを取り出した。

「はい、280円。どっちに渡せばいいの?」

「あ、オレオレ」

阿笠が手を出した。

 店浜がロッカーからパンを取り出して、渡しながら言う。

「放課後、ここで練習ね。演目はそのときに」

 パンをひったくるように受け取った天吏は、また機嫌を悪くしていた。

「ただのお試し演奏でしょ。仲間になるなんて言ってないわ」

「それだけやれるのに、もったいないじゃん。やろうぜ。学園祭」

「学園祭でほかの生徒たちにも聴かせてやってくださいよ。それとも、学校じゃ嫌なんですか?」

「学校がどうとかじゃなくて・・・・・・止めたの、もう。それだけよ。・・・・・・パン、ありがとうね。おまけも、悪くなかったわ。仏頂面でごめんなさいね」


 二年五組の、午後の最初の授業は体育だった。

 運動場で、ハードル走の順番を待ちながら、並んで体育座りする天吏と由香里。天吏はまだ、前の高校の体操着なので、ひとり目立っている。

「じゃあ、バンドには参加しないの?」

由香里はあまり深刻にならないように努めて平静に天吏にたずねた。

「う~ん、なんかね、ちょっと迷ってるかも」

「それって、いい男ふたりで両手に花だから?」

「ち、ちがうわよ~。・・・・・・ひさしぶりにね、ドラム叩いたら、なんだか、やってたころのいい思い出ばかり思い出しちゃってね」

「・・・・・・なんで、やめちゃったか訊いていい?」

由香里が遠慮がちに言った。

「う~ん。・・・・・・由香里はさあ、詩吟やるのって、家族はみんな賛成?」

「パパはおじいちゃんの影響で賛成かな。おじいちゃんが始めさせたことだから、自分もやってたし。ママは、わたしが着物着てるときの姿勢が良くなるって理由だけで賛成かな。詩吟そのものには理解がないかも。見合いのとき有利だ、とか、玉の輿ゲットだ、とか言ってる」

 ふたりは顔を見合わせて笑った。

「わたしはね、お父さんがプロのドラマーやってて、赤ん坊のころにわたしに叩かせて喜んでたらしいのよ。物心ついたときはドラム叩いてる自分があたりまえだった」

「あ、それわたしも同じ」

「やっぱりそうなんだ。でね、母さんもわたしがやってるの好きなんだと思ってたんだけど・・・・・・」

「やめなさいって言われたの?」

「そうじゃないけど・・・・・・。協力的なのよ、わざわざ防音のマンション借りて、専用の部屋つきにしてくれたり。でも、以前から練習や大会も忙しいって聴きに来たりはしてくれてないし・・・・・・協力的なんだけど、それはわたしがドラムに夢中だからで、母さんは実は辛いんじゃないかと思うの。お父さん、わたしが中学に上がる前に亡くなって、わたしがドラムをやってると、母さんはお父さんのことどうしても思い出さないわけにいかなくって、泣いちゃってるところを見たのよ。多分わたしが、ドラムじゃないなにかに打ち込んでいるんなら、普通に応援してくれるんだと思うの」

「ふ~ん。だけど、想像できないなぁ。物心ついたころからやってたことやめちゃうのって。わたし、詩吟やめた自分って思い浮かばないわ」

「わたしもそうだった。それに、今日叩いてみたら、ぜんぜん忘れてないのよね。ちょっとお休みしてた、ってくらいにしか感じなかった。実際、やめてからまだひと月にもなってないけど」

 天吏たちだけじゃなくて、まわりの女子たちも待ってる間おしゃべりをしていて、授業はだらけてきていた。体育教師が笛を吹いて注意する。

「待ってる間私語はしない! ほら、前屈して足を前に出す感じを思い浮かべて。全部のハードルを颯爽と飛び越える自分をイメージトレーニングしてなさい」

 天吏と由香里の番になる。ふたり並んでスタートラインに立つ。「位置について、よーい!」と言われて顔を上げると、前にはずらりとハードルが続いているのが見えた。その光景に士気が萎えかける寸前に、号砲が鳴った。

 天吏は軽快に走り出し、教師が言っていたイメージトレーニングのとおり、リズム良くハードルを越えていった。由香里は、ハードル走と言うよりは、高飛びの連続という感じだったが、ひとつひとつを着実に越えていた。

 ゴールすると、走り終えた者が待機している場所へ行って、ふたりはまた並んで座った。

 由香里が息を整えながら言った。

「わたしも、やってみようかな」

「なにを?」

天吏が訊き返す。

「学園祭よ。舞台の出場申し込みって締め切り明日だから。阿笠さんと店浜さんも、天吏がオッケーならこれから申し込むんでしょ。部やクラス以外のエントリーって、ほかにはいないかもしれないけど、わたしだけじゃないなら」

「それって、わたしにも出ろっていうことなのね?」

「そう、そう」

由香里はまだ肩で息をしながらだったが、笑って言った。

 天吏には、今日出合ったばかりの由香里が、ずっと前からの親友のように思えていた。性格は違うけれど、自分を理解してくれる相手をみつけたと思える。

「由香里が出るなら、わたしも出るかな。家やスタジオ通いでやるんでなきゃ、母さんにはわたしがドラムやってるかどうかなんてわかんないし。どうせ学園祭も仕事で来られないだろうしね」

天吏はひねた笑いを浮かべて答えた。

 学園祭は日曜日。天吏の母の仕事は、日曜日が休みではない。日曜の行事には、仕事で母は来られないのだ。

「う~ん、あんまり前向きじゃないわね。でも、いいかも。ほら、クラスとか部とか、学校が決めた枠だけの参加だと、学園祭が『学園祭授業』になっちゃうじゃない。おまつりなんだから、そういう枠じゃない参加があったほうが盛り上がるんだと思うの。いっしょにがんばりましょ」


 放課後、天吏が音楽準備室を覗くと、そこには楽器を準備する管弦楽部の部員たちが集まっていた。ほとんどが女生徒だ。

「失礼します」

その視線を浴びながら、天吏は楽器や管弦楽部員の間を縫うようにして奥の軽音部室へ進んだ。阿笠と店浜は居ないようだ。

 と、廊下から、バタバタバタバタ! と走ってくる足音が近づいてくる。阿笠と店浜が最後は廊下を滑ってブレーキをかけ、音楽準備室の前で止まり、中に駆け込んできた。

「お~! 矢和原ちゃん、ほんとにいるじゃん!」

「ようこそ! ささ、中へ中へ」

 ふたりは、天吏を押し込むように軽音部室へ入れ、自分たちも続けて入って行った。

「来るって思ってたぜ」

「え? そうじゃないから、また誘いに行ったんじゃ?」

「話を合わせろよ」

「二年五組に行ったら河野由香里さんが、こっちだって教えてくれましてね」

「で。曲は決まってるって?」

 天吏はふたりの掛け合い漫才をスルーして、意図的に入団の挨拶も省いた。

「あ、ああ! これだ」

 阿笠はMPプレーヤーを取り出して部室にあったスピーカーにつないだ。作業の間に選曲について説明する。

「少人数の出し物は、舞台の持ち時間は十五分。しかし、楽器を運ぶ時間を考えなきゃいけない。そうすると、二曲分程度の時間しかない。最初にかっこいい『つかみ』があって、それなりに聴かせる部分があって、飽きさせないようにおれたちの年代じゃ知らない曲。歌詞は日本語でストレートに伝わる内容に限る」

「あらら、まったくの受け売りですね、阿笠。去年やり損ねた曲だって言えばいいじゃないですか」

 誰からの受け売りなのか、天吏には意味不明だった。しかし、阿笠が格好をつけようとしたのはわかった。

「いや、ま、そうなんだけど」

 素直に認める阿笠が子供のようでかわいいと思い、ちょっと吹き出した天吏だった。

 曲が始まる。気持ちを切り替えて真剣に耳を傾ける天吏と、天吏の反応を見つめる阿笠。店浜はやや離れてふたりの様子を見守っていた。

 前奏はオーケストラだった。印象的なドラムが曲を盛り上げたところで、歌が始まる。

「オーケストラ入ってるじゃないの」

「そこんとこはキーボードで、さ」

 歌詞の内容は、愛を求めてなら宇宙の果てまでも行くとか、かなり浮世離れしているが、へんに飾らないところがいい、と天吏は思った。

「何の曲?これ、聴いたことないわ」

「ロボットアニメの主題歌。三十年近く昔のやつ」

 間奏は、リードギターの聴かせどころがあり、阿笠がエアギターで弾いている気分に浸っていた。ライブでやれば、盛り上がりそうだ。

「アニメねぇ。ファンなの?」

「見たことないんだ。知ってるのは曲だけ。でもいいだろ、これ」

 二曲目は同じバンドのバラード曲だった。さっきのがアニメのオープニング曲で、こっちはエンディング曲だと阿笠が教えてくれた。

 この曲はドラムはあまり前面に出ない。愛する人に、自分が守るから安心して眠ってくれと歌いかける子守唄的歌詞になっているが、切なく歌い上げるボーカルとギターの泣きが聴く者の心を揺さぶり、とても眠れそうにはない。

「ギターは誰ですって?」

「おれ」

と阿笠。

「ボーカルは?」

「おれ」

と、阿笠が笑顔で自分の顔を指差す。

「あなたが目立ちたいわけね」

天吏はやや、あきれ顔だった。阿笠が照れ笑いしていた。

「まあ、いい曲なのは認めるわ。つかみのドラムが重要なのもね。三人でやるのはどうかしらね。もう一人、ベースギターが必要なんじゃない?」

「今の所、しわ寄せはキーボードに来ることになってましてね。助っ人のベースギターもさがさなきゃいけないと思ってますよ、少なくともぼくはね。まあ、ドラマーがいなきゃ始まらなかった話なので、そのへんはこれからです。とにかくきみが参加してくれてよかった」

店浜はにこにこしている。


 その日から天吏は、昼休みと放課後、軽音部室で五十音ペアと練習を行なうようになった。

 軽音部員でもない阿笠と店浜だったが、ギターとキーボードの腕はそれなりのものだった。阿笠のボーカルは、だみ声に近かったが、ロックっぽいノリに合っていると言えなくもなかった。音感や声の伸びもいい感じだ。自分からボーカルをやると言うだけのことはあった。

 しかし、練習のときは、阿笠はあまり感情を込めて歌っていないようだった。

 特に二曲目のバラードはそうだ。

 愛がどうだのと、恋人に語りかける内容の詩だから、恥ずかしいのかもしれない、と天吏は思ったが、選曲しておいて、それも無いものだ。

 感情がこもってないんじゃないの? と意見したとき、阿笠は顔を赤くして、本番に取っておくんだ、と言っていたから、学園祭のステージでは感情を込めて歌うつもりなのだろうと納得した。


 天吏の母が、天吏の帰宅時間を気にしたのは、天吏が練習で残り始めて一週間目だった。

 幾度か、天吏が母よりも後に帰宅したためだ。

 東京から引っ越したことで通勤時間が短くなった母は帰宅時間が以前より早くなっていた。以前なら天吏が先に家に付いていたような時間でも、母が先に帰っていることがあった。

「毎日遅いのね」

「学園祭の準備で」

「何か出るの? 天吏ちゃん、ひょっとして、またドラムはじめたの?」

「ち、ちがうわよ。クラスや委員の手伝い」

うそをつくと、胸がちくちくした。

「ふーん。実は、日曜日おやすみが取れそうなの。いってみようかなぁ、と思って。プログラムないの? ちょうだいよ」

 これには天吏は驚いた。

 学園祭は日曜日だから、母は絶対に来られないと思っていたのに。以前ならあり得ない話だった。

「い、いいよ。いい!」

 自室に逃げ込んだ天吏は、大きなため息をついた。

 不自然に逃げてきて、ドラムをやってることを隠してるって気付いただろうか、と母のことを考えた。

 引越ししてから、自分も職場が変わってたいへんだろうけれど、東京に住んでいたころよりも、なにかと天吏のことを気に掛けてくれるようになった。

 地方転勤により、通勤時間が短くなったことで毎日の朝食と夕食がいっしょに取れるようになった。顔をつき合わす時間が増えて、食事のときはいろいろ尋ねてくる。

 日曜日に休みが取れるということは、通勤時間の短縮だけではなく、仕事にも余裕が生まれているようだった。住み慣れた東京を離れて、娘を転校させてまで引っ越しただけのことはあるのかもしれなかった。

 食事のときの「新しい学校はどう? 友達はできた?」という問いには、由香里の存在のおかげで笑顔で答えることができた。クラスのことも楽しく話すことができる。

 放課後のことは、うそを言いたくなければ、ぼかして話すしかなかったのだが。こうして話す時間自体、天吏にとっても大事なものに思えた。。

 阿笠と店浜のことは、「おもしろいことをやってる三年生がいるのよ」ということで話せている。

 実は天吏も、この一週間あまりの間に、バンドの練習だけでなく、ふたりの『学園生活を楽しく盛り上げる』活動の片棒を担がされていた。

 まずは、天吏がふたりに言った言葉が発端になった、購買部のパン買い競争に関する改善の取り組み。

 それは、全校のパン食の生徒に、本当は何パンが何個買いたいかをアンケートしてまわり、レポートにまとめて購買部に仕入れ数の改善を申し入れる、という地味で手間な作業だった。

 昨日から新しい品揃えでパンが並び、初日は、売り手も買い手も満足する結果となった。苦労の甲斐はあったらしい。昼休みに校外へ出てしまう生徒が減るのでは、ということで、教師にも好評だったらしい。今後は、学校購買部がリサーチを引継いでくれることになった。

 今日、その話を職員室でされたとき、『五十音ペア』といっしょに天吏も呼び出された。教師の間では、すでに天吏が彼らの仲間になったという認識らしい。

 そして、今も取り組んでいるのが学園祭の校外PR活動。

 学園祭は、部外者にもオープンな催しになっているが、毎年、結果的には生徒と父兄だけの行事になっているという。その状況を打破するのだ、と無理やり生徒会室前でのシュプレヒコールに天吏も参加させられ、学園祭実行委員を兼ねる生徒会役員を説き伏せて、実行委員会の名前でのポスターを作って町じゅうの飲食店に掲示依頼してまわっているのだ。

 天吏は認めたくないが、生徒会役員を説得するときにいちばん熱くしゃべっていたのは天吏だったらしい。あとで廊下ですれ違った役員のひとりから、そう言われたときには、耳まで熱くなった。

 あの取り組みも、学園祭当日に外部のお客さんがたくさん訪れるという結果に結びついたら、パンのときのように達成感があるのかしら、と考えると、無理やり手伝わされていることもあまり気にならないから不思議だった。

「わたしはバンドに参加するとは言ったけど、あなたたち『五十音ペア』の仲間になって、おかしなことばかりするのに加担するとは言ってないんだけど」

と、ポスターの色付けを手伝わされたとき天吏が愚痴ったとき、阿笠が底抜けにさわやかな笑顔で言ったことを思い出した。

「おまえさあ、中学の行事、どれくらい覚えてる? 修学旅行や卒業式なんていうビッグイベントじゃなくて、遠足とか、終業式とか、球技大会とか、細かいやつ。そういうのって、主役は生徒なんだよなぁ。でも中学のときは、なんもかんもお膳立ては教師がしてくれて、言われるまんまにこなしてただけじゃなかったか?」

 あのとき天吏は自分の中学時代を思い出して、ほとんどドラム漬けで学校行事の思い出が薄かったことに気がついて、こう答えた。

「う~ん、そういえば、あんまり印象に残ってないのもあるわねぇ」

 すると阿笠は言った。

「高校生になったら、生徒会の活動とかもそれなりになって、生徒側もいろいろ案を出して、自分たちの手作りのイベントっていうのもありそうなもんじゃないか? おまえ、転校してきたから、前の学校と比べて、ここはどうだ? おれたち、店浜とおれは、この学校は大人しすぎるって思ったんだ。あちこち首を突っ込んで、おれたちで盛り上げなきゃ、この高校でのイベントって、記憶の中で埋もれちゃうって。ばかなことやってたやつが居たなあ、っていう思い出でもいいから、記憶に残るようにしたいんだよ」

 阿笠の話に、そんなものかなあ、としか思えなかった天吏だったが、阿笠たちが作った垂れ幕の件がもとで由香里と友達になれたこととか、くだらない名前のしゃれで、ドラムを再開したこととかは、確かにいくつになっても忘れられそうにない高校時代の思い出になりそうだ。

 自室の壁にもたれて、天吏は引っ越してきてからのことを思い浮かべていた。

 そして、また始めてみてわかった自分とドラムのつながりのことを考え直した。今、天吏がもたれている壁の向こうは、母が引越しのときに用意してくれたドラム練習用の部屋だった。完全防音の八畳サイズのフローリングの部屋で、そこには、白いシーツを被ったドラムセットが置かれている。父の形見でもあるそのドラムセットは、引越し前から、もう、ひと月ほど叩かれていない。

 天吏は壁越しに、真っ暗な部屋に置き晒しになったままのドラムセットの存在を感じていた。

「・・・・・・お父さん・・・・・・」


 次の日の放課後、練習の合い間に阿笠が天吏に訊いてきた。

「おまえ、なんでドラムやってたの? っていうかやめてた理由の方が知りたいけど」

 天吏は質問といっしょに差し出されたジュースが入った紙コップを受取りながら、なんとなく素直に答えられそうな雰囲気を感じていた。

 この部室での飲み物はたいてい阿笠と店浜が用意してくれる。ふたりはペットボトルを回し飲みするのだが、天吏のためにわざわざ紙コップを用意してくれていて、先に天吏のぶんをキープしてくれるのだ。

「お父さん、プロのドラマーで。お父さんが喜ぶから、小さいころからドラムやってたの。中学入る前にお父さんが死んじゃったあとは、お母さん、いそがしいからってわたしのドラム聴きに来なくなったし。高一のとき、大会に出場したときも来てくれなかった。引越しが決まったころ、ちょうど今年のドラムの大会の前日だったわ。母さんがわたしの優勝盾持ってドラムの前で泣いていたとこ見ちゃったのよ。てっきり、わたしがドラムやってるの賛成してくれてるって思ってたのに、それがわたしの勝手な思い込みだったんだってわかって」

「おまえがドラムやってるのが嫌だって言われたのか?」

「違うけど、お父さんのこと思い出させて泣かせちゃうのってやだよ」

 三人は黙り込んでしまった。

 沈黙を破ったのは、天吏だった。シンバルを叩いてふたりに言った。

「お母さん、学園祭に来ちゃうかもしれないの」

 ふたりが天吏の顔を見た。さきほどの話からすれば、天吏の出演に問題が生じることになる。ふたりの心配顔を吹き飛ばすように、天吏がドラムを叩く。

「なんとかごまかして、演奏のとき体育館へ来ないようにしてもらうわ。さ、練習しましょ。もうすぐなんだから」


 事件は、学園祭を三日後に控えた木曜の朝に突然やってきた。

 いつものとおり、天吏が登校してくると、正門のレールの上で、先週のはじめに天吏がしていたように、立ち止まって校内を眺めている男子生徒がいた。細身だがテニスでもやっていそうなスポーツマンっぽい体格で髪型は至ってまじめな七三分け、縁なしメガネを掛けている。校舎や銀杏並木を眺めて、なんとなく微笑んでいるようだった。

 天吏は転入初日の自分と同じことをしている点が気になって見ていただけだったが、見られていることに気付いた男子生徒は、振り向いて天吏をまっすぐ見てにっこり笑った。

「おはようございます。職員室はどこだか教えてもらえます? 転入生なんです」

「あ、ええ。こっちよ」

天吏は先に立って歩き出した。ついてくる男子生徒が話しかけてくる。

「この学校って、なにかかわった面白いことあります?」

 そう訊かれて天吏は『五十音ペア』の顔を思い浮かべた。

「さぁ、わたしも先週転入してきたばかりだから、まだ全部はよく知らないわ。でも、面白いこと見つけたっていえば、見つけたわね。あなたにとっても、面白いこと探せばみつかるかもね、何か」

「それは楽しみですね」

男子生徒はメガネの位置を右手の中指で直しながらにこやかに言った。


「たいへんよ! 天吏!」

 自席に着いた天吏が、カバンから教科書を取り出していると、由香里が真剣な顔で教室に飛び込んできた。

「どうしたのよ由香里」

「今日から三組に来た転校生、『ヤラワ』君なんですって!」

「えっ?」

あの男子生徒だ。

 『ヤラワ』? じゃあ、『五十音ペア』の名前は並べ替えてこじつけなくても完成するわけだ。あのふたりが知ったら、どう思うだろう。こうなってしまったら、天吏の『ヤワラ』姓は間に合わせにしか見えない。

 あのふたりのことだから、天吏を追い出して『ヤラワ』に鞍替えするような薄情なことは考えないだろうけれど、天吏が先に現れなければ完成していたはずの『五十音トリオ』について、残念に思うかもしれない。

 天吏は、自分の居場所を支えていた足元の柱が崩れるような感覚を味わった。


 昼休みの練習。演奏の途中で天吏は手を止め、席を離れた。

「どうしたよ、天吏」

訊かれて、天吏は尋ねた阿笠をにらみつけた。

「あなたたちも知ってるんでしょう? 二年三組の転入生。『やらわ』って苗字の」

 阿笠は言葉を失っていた。なだめるように店浜が答える。

「天吏さん、もう、学園祭は三日後ですよ。ぼくらだって、しゃればかりで出演するわけじゃないんですから・・・・・・」

「でも! わたしは名前で選んだんでしょう?」

そのとき、部室の入り口から、めがねを掛けた細身の男子生徒が顔をのぞかせた。

「こんちは」

『ヤラワ』君だ。天吏は思わず顔を背けた。

「何?」

阿笠が天吏の様子を気にしながら尋ねた。

「転校生です。新しいクラスの人たちに、軽音部室行って名乗ったら面白いって言われて。からかわれてるのかもしれないですけどね。矢良和英才って言います。弓矢の矢に良い和みと書いて『やらわ』、英才教育の英才で『ひでとし』」

 阿笠と店浜は「えっ?」と二人同じ驚きの表情で、固まってしまった。

 矢良和と名乗った転校生は、天吏をみつけて、今朝の礼を言った。

「やあ、あなたは今朝の。案内してくれてありがとう。あなたもバンドのメンバー? 面白いことみつけたって言ってたのは、このバンドのことなんですね? あなたは、ボーカルかな?」

『面白いことみつけた』という話を阿笠と店浜の前でバラされて、天吏は恥ずかしくなった。

「わたしは・・・・・・このバンドのマスコットガールよ!」

と答えたのは、その恥ずかしさをごまかすためだったかもしれない。

「な!」

阿笠はほとんど声も出せないほど驚いて、天吏を見た。

 そんな阿笠の様子を無視して、天吏が矢良和の前に行き、ドラムスティックを無言で差し出した。天吏の脈拍が早くなり、手にしたスティックは震えていた。

「あなたがもしも、ドラムが叩けるんだったら、話が早いんだけど」

 それは、いつもの天吏の声よりも低く、悪魔に操られてしゃべったかのように陰鬱な言葉だった。

「な、何言ってんだ天吏!」

阿笠が叱るように叫んだ。

 矢良和は、縁なしめがねの位置を右手の中指で直しながら、スティックを左手で受け取った。

「ドラムでも、ギターでも、キーボードでも、ひととおりこなせますよ」

「えっ?」と三人が三様の戸惑いを見せたときには、すでに席に着いた矢良和の演奏が始まっていた。

 怒涛のような連打。

「・・・・・・すごい」

 天吏は矢良和の顔と演奏を、記憶と付き合わせていた。どこかのドラム大会で競い合ったことがあるんじゃないだろうか、と。矢良和のドラムの腕は、それほどのレベルのものだった。

 学園祭のプログラムを頂戴と言った母親の顔や、自分をバンドに誘おうとしたときの阿笠と店浜の顔が、ぐるぐると天吏の頭の中をかき混ぜていた。

「・・・・・・こんなにちゃんとした『やらわ』が居るんだったら・・・・・・『やわら』なんていらないじゃん!」

 矢良和の演奏の途中、天吏はその場から逃げ出すように駆け出した。

「え?」

 阿笠が止めようとしたが間に合わない。天吏の目に涙が浮かんでいたのが見えて、追いかけようとした足が固まった。

「どうしたんですか? マスコットガールさん、お気に召さなかったかな?」

「彼女は、俺たちのドラマーだ!」

ドラム越しにつかみかかる阿笠。シンバルのスタンドがひとつ倒れて、大きな音をたてる。

 矢良和は無抵抗で、胸ぐらをつかまれたまま、阿笠に言った。

「よく・・・・・・話が見えないんですけど・・・・・・」

 阿笠は、走り去った天吏の行方が気になっていたが、矢良和から手を離して、彼を見た。別に矢良和は悪くない。彼が言うとおり、知らないだけだ。

「すまなかったな。おまえは悪くないのに」

「いえ。でも、どういう話か教えてもらえます? おせっかいかもしれないけど、何かトラブル解決の御手伝いができるかも」

「きみは、いい人ですね」

店浜が微笑みかけた。

 阿笠は部屋の隅の折りたたみ椅子をふたつひっぱってきて、ひとつを矢良和の前に置き、自分はもうひとつを広げて、それに逆向きに座った。矢良和が倒れたシンバルをなおしてドラムから折りたたみ椅子に移動して座ると、阿笠は背もたれに肘をついて、話し始めた。

「おれたちは、阿笠と店浜。おまえのクラスメイトたちが言ってたのは、おれたちとおまえの苗字のことさ」

「ああ、『あかさたなはまやらわ』ですね。へえ、なるほど、自分の名前を人と組み合わせたらそんなことになるとは思いませんでした」

「さっき出て行っちゃった彼女は『やわら』さんなんですよ。彼女も先週来たばかりの転校生なんです」

入り口のドアの横にもたれて立つ店浜が言った。

「おや。惜しいですね、名前」

「おれたち二人は、ずっとつるんでバカやってきたんで、セットで見られることが多くてな。たまたま、名前が『あかさたなはま』ってことで『五十音ペア』ってあだ名がついちまった。で、当のおれたちはそんなことにはこだわってなかったんだけど、いつの間にか『やらわ』ってやつが入学してきて仲間に加わるのを待ってるってうわさが出来上がってたんだ。彼女の苗字は『やわら』だったんで、この偶然を使わない手はない、ってことで、そのうわさを本当にしちゃうことにしたんだ。苗字で彼女を仲間に誘ったってことにな」

「え? 苗字で誘ったんじゃないんですか?」

「・・・・・・ええ。僕らは彼女が転校してくる前から、彼女のドラムを知っていたんですよ」

店浜は静かに言った。

 それは一年前の学園祭にまつわる思い出の一部だった。

「この部室、軽音部は、一昨年を最後にメンバー不足で解散・休部になっちまったんだ。俺たちは、解散したメンバーの三年生を力づけるつもりで誘って、去年の学園祭に出ようとしたんだ。だが、当時の俺たちはやる気だけで、ろくに楽器もいじったことがない付け焼刃で、人に聞かせられる演奏にならなくてね。結局、学園祭での演奏は無理って先輩の判断でエントリー自体を断念してしまった。でも、その元軽音部の先輩は、高校最後に夢が見れたって喜んでくれて、学園祭前におれたちを高校生のロックの演奏大会に連れてってくれたんだ、お礼にってね」

「あれは、あんまり阿笠が悔し泣きするんで、なぐさめてくださったんですよ。ま、そこでぼくらは、彼女のドラムを聴いたんですよ。彼女は高校一年生にしてドラム部門の優勝者でしてね」

「彼女のドラムは、なんつ~か、魂が震えたね! 血沸き肉踊るっていうか! 体の奥のほうにビンビン来たんだよ、こう、熱いものが・・・・・・」

阿笠はこぶしを振り上げて、そのとき受けた感動に陶酔しかけたところで、ふたりの視線を感じて我に返った。

「・・・・・・ま、なんだ。いい、演奏だったんだ」

店浜は、阿笠の熱弁ぶりに、小さく笑った。

「それで、阿笠が今年も行ってみようって言い出しましてね、聴きに行ったんですよ、大会。ところが彼女の名前がない。前年の優勝者だから予選なしのシード出場のはずなのに。去年東京代表として演奏大会に出てたってこと以外に彼女のことは知らなかったから、これでもうドラムを聴くこともできないかと思っていたら、この学校に母親と転入手続きに来てるのをみつけたわけです」

「学園祭が目前の時期で、彼女を誘って今年こそ演奏しようと言い出したのはおれだ。楽器はふたりとも練習を続けていたから、今度こそできると思ってな。ところが彼女はドラムをやめちまってたんだ」

「お母様が実は彼女のドラムを嫌がってるんじゃないか、って思ってのことらしいんですよ。ドラムを教えてくれたお父様が中学に入る前に亡くなってから、応援してくれてると思っていたのに、彼女の優勝盾とドラムの前で泣いているのを見たって。お父様を思い出させて悲しませるならドラムをやめるって。彼女は、学校だけの活動だからってことで、いったんはやる気出してくれたんですけど、お母様が学園祭に聴きに来るかもしれないってことで悩みだしてましてね。それでも、多分彼女を誘ったぼくたちに対して悪いからって思って残ってくれてたんだと思います。そこへ『やらわ』って転校生がやってきて、ドラムまで叩けちゃったって状況なんです」

 矢良和は腕組みして、二人を交互に見て、納得したように言った。

「なるほど、阿笠さんがドラマー大会で谷和原さんに一目ぼれして、転校してくると知ってバンドグループの件をでっちあげてお近づきになったのに、ぼくが来たせいで逃げられちゃったと」

「どこをどう聞いたらそんな要約になるんだ?!」

阿笠が真っ赤になってパイプ椅子を飛び越えて、矢良和につかみかかる。

「いやいや、きみの理解力はすばらしい」

阿笠と矢良和の間に入って阿笠を押さえながら店浜がニコニコして言った。

「お褒めに預かり、どうも。転校前のぼくのあだ名は『できすぎくん』でしてね」

 転校先での刺激を求めていた矢良和は、たちまち『五十音ペア』と一体になって、検討を始めた。

「彼女が学園祭でドラムをやるためには障害は二つですね。おかあさんがドラムを嫌がっているんじゃないんじゃないかってことと、名前のゴロあわせのためだけにグループに誘われたんだからってこと。ひとつめは、お母様に直接当たってみないことには始まらないでしょう。そして、もうひとつは、誰かさんが本当のことを言って誤解を解くしかないんじゃないですか?」

「・・・・・・おれが、か?」

渋い顔をする阿笠に、店浜と矢良和が当たり前だと言わんばかりに頷いた。

「先にお母様のほうですね。明日天吏さんの家に行ってみましょう。まずは、協力者が必要ですね。お母様と話をする間、天吏さんが帰ってこないように、天吏さんをしばらく連れ回してくれそうな人はいませんか?」

「詩吟の河野さんと仲よさそうでしたよ、同じクラスの」


 翌日、学園祭をあさってに控えた金曜日。放課後、帰宅しようとする天吏を由香里が呼び止めた。

「ねえ天吏、バンドをやめちゃったって本当? 矢良和って転校生と替わっちゃったの?」

「ええ。元々やめてたドラムだし、矢良和くん来ちゃったから。彼、ドラムとてもうまいのよ。・・・・・・わたしの居場所はもうないし。あ、ごめんね。学園祭。いっしょに出演って言ってたのに、わたしだけ降りちゃって」

天吏はバツが悪そうに言った。自分から由香里に報告すべきだった、と後悔していた。

「そんなことは気にしないで。わたしはわたしでがんばっちゃうから」

由香里は明るく言った。実は由香里は、昼休みに阿笠たちから事情を聞いていたので、この話をすると天吏が負い目を感じるだろうと心配していたのだ。

「・・・・・・うん」

やはり天吏は元気がない。

「ねぇ、今日、詩吟の会の練習がある日なの。いっしょに来てみてよ。見学者ってだけでも、師匠たち喜ぶわ。ちょっと遅くなるけど、バンドの練習ほどじゃないからいいでしょ?」

 天吏を連れ回してほしいと頼まれたときは、会の練習を休んで街中での買い物にでも誘おうと思っていたのだが、天吏を元気付けるのは、買い物なんかじゃなくて、自分が詩吟に打ち込んでいる様子を見てもらうことなんじゃないかと、とっさに思い直してのことだった。

「ええ、いいわよ、お邪魔じゃないなら」

 負い目からではなく、天吏に興味を持ってもらえたようだった。


 そのすこし後、矢良和を加えた『五十音ペア』は、制服姿でカバンを持ったまま郊外のマンションの前に立って、マンションの入り口を見ていた。まだ空き部屋があるようで、不動産取引業者の入居募集ポスターが貼られていた。

「このマンション、防音完備ですね。ピアノ練習とかする人向けのとこですよ」

矢良和が言った。

「しかも一階ですからねぇ。その気ならドラムやり放題なんじゃないですかね」

店浜が先に立って、オートロックのマンション入り口へ入っていった。

「わざわざそういうとこに引っ越してきたのに、ドラム嫌ってか?」

阿笠は、エレベータへ通じる自動ドアを見回しながら言った。もちろん、オートロック式なので自動ドアの前に立っても開かない。

「ええと、1、0、8、と」

 矢良和が、調べておいた天吏の家の番号をインターホンのタッチパネルに入力する。三人はじっと呼び出し音に対する反応を待った。

 返事はない。

「どうやら、まだお仕事から帰ってないようですね。ここで待つのはまずそうだから、外で待ちましょうか」

矢良和は、監視カメラを見上げて言った。

 三人はマンションの向かい側で待っていたが、何組かの出入りはあるものの、天吏の母親らしい人物はなかなか帰ってこない。日が沈み、あたりが暗くなりかけ、河野由香里に連れまわすように頼んだ天吏が、そろそろ帰ってきてしまう時間なのではないかと心配を始めたころに、スーツ姿でスーパーの買い物袋を下げた女性が歩いてきた。

 最初にみつけた店浜が、肘で阿笠を小突いて合図すると、横にいた矢良和もその女性に気がついた。街灯に照らされた女性の顔は、天吏とよく似ていた。

 確信した三人は、女性がマンションの入り口に入る前に駆け寄った。

「天吏さんのお母様ですよね?」

 声を掛けたのは阿笠だった。今度のことに一番必死になっているのは阿笠だった。あとのふたりは、この場を阿笠の熱意にまかせることにした。

「ぼくたちは天吏さんといっしょに学園祭でバンド組んで演奏するメンバーなんです」

「まあ、やっぱり」

それは、自分が嫌がることを娘が隠してしようとしたのを知って咎めるような反応ではなく、喜んでいるように阿笠には見えた。だからこそ、こう質問できた。

「率直にお聞きします。天吏が、ドラム叩くの、嫌ですか?」

「いいえ!・・・・・・天吏がそんなこと言ったんですか?」

即答だった。

「くわしくは、話してくれないんですが、ドラム大会の優勝盾持ってドラムの前で泣いていらっしゃるのを見たとかで、お父様のことを思い出させて悲しませるのがいやだと言ってました」

「そんな! それは、あの子の勘違いですわ。あの子が見たとしたら、嬉し涙です。ドラムはあの子と父親を結ぶ大事なものなのに・・・・・・もう、あの子ったら、わたしに似て、なんてそそっかしいから」

 天吏の母は、困ったような、あきれたような、それでいて、娘がなぜドラムを止めたかという疑問が解けてうれしいような、複雑な表情でもじもじしていた。

「そのことを、彼女に言ってあげてください」

三人は姿勢を正して、同時に深々とおじぎをし、声を合わせて言った。

「おねがいします!」


 数十分後、同じマンションの入り口で、天吏を送ってきた由香里が別れて帰ろうとしていた。

「遅くなっちゃったわね」

由香里が心配そうに言った。由香里は、予定より遅くまで天吏を拘束してしまったことも気になっていたが、阿笠たちが首尾よくいったかどうかも心配だった。

「いいよ。電気が点いていたからお母さん帰ってるみたいだけど、この時間なら普段とたいして変わらないわよ。それにしても、お師匠さん、面白い方だったわね。いつもあんなにやさしいの?」

「あれは絶対天吏が居たからよ。お茶菓子なんて出したの初めてなんだから」

 ふたりは楽しそうに思い出し笑いをした。天吏が明るくなって、由香里も嬉しかった。

「遅い時間だから、気をつけて帰ってね、由香里」

「ええ、大丈夫。明るい道ばかりだし」

ここで、由香里は、今日最後の自分の役目を果たすために言った。

「あさっての学園祭、わたしの出演のとき、必ず体育館に来てよね」

 自分の出番の終わり、つまり、阿笠たちの出番の幕が開くまで、天吏を客席に居させるように念押しすること。それが、阿笠たちから依頼されたことのうち、最後のひとつだった。

「も、もちろんよ。由香里の詩吟、絶対聴くわ」

 由香里の詩吟を最後まで聴いたら、阿笠たちの演奏が始まる前に、すぐに体育館を出よう、と天吏は思っていた。

「じゃあね!」

由香里は手を振って駅への道を駆け出した。

「あさって学校でね!」

天吏も手を振り返した。

 自宅のドアの前まで行くと、母が先に帰っているようだった。バンド出演をやめてしまったので、もうやましいことはない。帰宅するなり、家の中の母に呼びかけた。

「おかあさん、ただいま。ごめんね~、今日は由香里の詩吟の練習に付き合っていたの。あさって学園祭でやるんだよ。いっしょに聴こうね」

「おかえり」

エプロン姿の母が玄関まで向かえに出てきた。

「ご飯まだ準備中なのよ」

「あ、手伝おうか?」

「ええ、おねがい」

 親子の共同作業でできあがったシチューを向かい合って食べながら、母親が話を切り出した。

「ねえ天吏、ドラム、家でやらないの?」

 それまでの天吏の笑顔が急に曇った。

「うん・・・・・・もう、片付けちゃっていいよ」

口籠る天吏。

「お母さんは、聴きたいなぁ、天吏のドラム」

「えっ?」

「天吏のドラムってね、パパのに似てるの。お母さん、ドラムのことよくわかんないけど、親子だなあって感じるのよね」

「でも、辛くない? お父さんのこと思い出しちゃって」

「どうして? パパにまた逢えたみたいでうれしいわ」

「だって、お母さん、泣いて・・・・・・」

「天吏、ひょっとしてお母さんが嬉し泣きしちゃってたとこ見て、誤解しちゃった? 引越しの準備のとき、あなたが去年もらった優勝の盾を見てたら、嬉しくなっちゃって。なのにあなたったら、急にドラムを止めたって、大会までドタキャンでしょ」

 天吏にとっては突然の言葉だった。ぐるぐると考えがめまぐるしく頭の中を巡った。嬉し泣き? じゃあ、ドラムを止めちゃってた自分って、何? 「おまえがドラムやってるのがいやだって言われたのか?」という阿笠の言葉がリフレインする。

 まるっきりピエロじゃん! わたし! 悲劇のヒロイン気取って! と、最後には天吏はこれ以上ないほどの深みに落ち込んでしまった。

「天吏・・・・・・天吏!?」

 母の呼びかける声が、現実へと天吏を引き上げてくれた。

「だいじょうぶ? 天吏。ねぇ、ドラムが嫌いになったんじゃなかったら、母さんは天吏にドラムを続けてほしいわ。そのために練習できる家を選んだんだし。こっちには教えてくれたりするスタジオはないかもしれないけど、学校でもそういう機会があるんなら、サークルとか参加してよ。あなたがドラムを叩くことが、パパが生きた証になるの。母さん忙しくて、日曜の演奏イベントがあってもなかなか聴きにいけないかもしれないけど、続けていてほしいのよ」

 天吏の胸の中に大きな位置を占めていたぐちゃぐちゃした悩み事が、急になくなって、天吏はなんだか重い荷物を下ろして身軽になったときのような「からっぽ」感覚を味わっていた。

 その隙間に浸透し広がっていく新たな感情は、後悔の念だった。今年の大会に出なかったこと、引越しをはさんで、ドラムから離れていたこと。これらは、もう、過ぎたことで取り返せない事実だった。だが、阿笠たちのバンドを抜けたことに対する後悔はどうなのだろう。学園祭は、まだあさってだ。この後悔は払拭できるのだろうか。

 矢良和のドラムや、「おまえを入れて『あかさたなはまやわら』で行きたいんだなぁ」という阿笠の勧誘の言葉が、大きなハードルとなって天吏の前に立ちふさがっていた。

 このハードルを越える術はあるのだろうか。母の涙のように、天吏の前から一瞬で消え去る、なんてことがあるのだろうか。阿笠たちが天吏を誘った本当の理由を知らない天吏にとっては、それは、堅固で動かしがたいハードルに思えた。

 食事の後片付けのあと、天吏はドラムの練習室のドアを開けた。月明かりだけの真っ暗な部屋で、ドラムセットに掛けられたシーツを剥ぎ取り、明かりのスイッチを入れる。なつかしいドラムセットが現れた。もともとは父の練習用のもので、亡くなる前に天吏にくれたのだった。

 使い慣れたドラムスティックを手に取り、ドラムを前にして、父に教わったころのことを思い浮かべる。やがて、天吏の身体が自然に動き出す。この家での初めての演奏だった。

 居間では、仕事の書類に目を通しながら缶ビールを飲んでいた母が、防音扉からかすかにもれてくるドラムの音に気がつき、缶を軽く差し上げて、天国の伴侶と乾杯していた。


 学園祭前日の土曜日、それぞれのクラスや部の、企画や出し物の準備はいよいよ佳境に入っていた。

 体育館では、客席の準備や舞台の進行リハーサルが進められていた。

 リハーサルは、プログラムにしたがって出し物の小道具大道具を舞台に上げ、出演者が開始位置につくことで進んでいた。

 プログラムは、基本的に準備で中断してしまう時間が少なくなるように、緞帳を下ろした状態で緞帳の前で行なう少人数で大道具が少ない出し物と、緞帳を上げて舞台全体を使うような大人数で大道具が多い出し物が交互になるように組まれていた。

 河野由香里の詩吟は、出演者もひとりで、大道具もなかったから、緞帳を下ろして行なう出し物の最たるものだった。一方で、阿笠たちのバンドは、人数は少ないものの、ドラムやキーボードにアンプ、スピーカーと大きな道具をたくさん運び込む必要があったので、舞台全体を使う出し物となっていた。

 由香里が、閉じた緞帳の前に立ち、マイクについて進行係と打ち合わせしている間に、阿笠たちは緞帳の裏にドラムやキーボードを運び込んでいた。本番でも、こういう段取りになる。由香里の詩吟の邪魔にならないように、静かに楽器類を運び込み、音響のよけいな音をたてないように作業手順を確認しながら作業していた。

 緞帳の向こうで「マイクは、要りません」と由香里が言っているのが聞える。

 楽器を運び終わり、コードの接続を確認しているときに、店浜が言った。

「天吏ちゃん、来ますかね」

「河野さんの詩吟があるんだから、それが終わるまでは、聴いてるだろうよ」

ぶっきらぼうに阿笠が答えた。

「今日、呼びにいかないんですか? 電話とか、メールとかでも」

ベースギターを肩から掛けながら、矢良和が阿笠に言った。まだ三日目だというのに、彼はもう、すっかりグループの一員として馴染んでいる。

「なんで、おれに言うんだよ」

阿笠がいらつく。この三人だと、かならず二対一だ。いつも阿笠が一の方だ。

「だって、ねぇ、店浜さん?」

「ですよね。一番来て欲しがってる人間が行かなくちゃね。しかも、苗字で勧誘したとか言った本人ですし」

「おまえも賛成した案じゃないか!」

 そのとき、緞帳の向こうで河野由香里が詩吟のはじめの一節を吟じた。声が体育館の対面の壁に反射して響く。体育館のフロアでは、音量チェックしていた生徒が、両手で大きな丸を作って、マイク不要を肯定していた。

 緞帳が低いモーター音とともに上がった。上がりきったときには、河野由香里はすでに舞台から降りていて、舞台の下から阿笠たちを心配そうに見上げていた。リハーサルの前に、昨日の協力に対するお礼を三人から言われたが、天吏は来ていないし、首尾よく行ったのかどうかわからない状態だ。

「音おねがいしまーす」

 進行係に言われて、順に楽器を鳴らす。そのたびに、客席の一番後ろで聞いている生徒が、両手で丸を作る。ドラムは、矢良和がかわりに叩いた。河野由香里の心配顔の影が濃くなった。


 舞台の下では、書道部から準備役で派遣されていた女子生徒が、プログラムの最終案のコピーを片手に、演目とグループ名を白い紙に書いていた。あとで上辺を閉じて台をつけ、舞台の横でめくりながら演目を観客に表示するものを作っているところだ。

 矢良和が見ると、ちょうど自分たちのバンドのことを書いているところだった。矢良和は女子生徒に声を掛けた。

「あれ、それ、グループ名違いますよ。『やらわ』じゃなくて『やわら』」

彼女は『あかさたなはまやらわ』と書いて、行を変えて『軽音楽演奏』と続けて書いていた。

「え? あ、書き直します」

 新しい紙を用意しようとした女子生徒を、矢良和が止めた。

「いや、待って。やっぱりそのまんまでいいです。直す代わりに、明日の本番で訂正用のマジックを側に置いといてもらえます? 出番にメンバーが直すっていう演出でいきますから」

「?・・・・・・はあ」

 良くわかっていない女子生徒を尻目に、『できすぎくん』はひとり悦に入っていた。


 日曜日になった。生徒の登校は自由だったので、天吏は母親と十時ごろ登校することにした。

 舞台の演目に参加登録していた天吏は、クラス企画への参加は免除されていたので、学園祭にまったく不参加な生徒になってしまっていた。由香里の詩吟に準備作業でもあれば手伝いに行くのだが、制服のまま、マイクもなしに吟じる由香里には、心の準備以外の準備は皆無だ。

 楽屋へ行って出番前の由香里に「がんばって」と声を掛けることも考えたが、阿笠たちと顔を合わすかもしれないと思うと行けなかった。

 母を連れて校内を案内しながら教室の企画を見てまわった。となりの女子高の制服の女の子や、街の人らしい来訪者を見かけるたび、ひょっとしたら阿笠や店浜と配ってまわったポスターを見て来てくれたのかもしれないと思えた。

 来訪者が多いと、生徒達のやる気もアップしているようだ。

 喫茶やお化け屋敷企画のクラスの呼び込みをやっている生徒たちは、いずれも笑顔が輝いていた。『五十音ペア』の学園盛り上げってこういうことだろうか、と天吏は思った。単なる学校行事への参加ではなく、思い出に残るようなイベントにしたい、と阿笠は言っていたっけ。そういえば由香里もそんなようなことを言っていた。

 体育館の客席に並んだ折りたたみ椅子は五百人分あったが、大半が埋まっていた。もうすぐ由香里の出番だ。天吏は母親と並んで中ほどの通路近くの席に座り、演目の合い間に由香里のことを母に話していた。

 由香里の出番の前は合唱で、緞帳が降りると由香里の名が放送されて、由香里が緞帳の前を中央へ歩いて出てきた。由香里は中央で前を向くと、ちらりと客席を見回した。天吏の姿を見つけて、ちょっと笑いかけたように見えた。すぐに凛とした表情に切り替わってピンと背筋を伸ばす。

 由香里が選んだ詩は『勧学』という五言絶句だった。難しい言葉で、わかりやすくはなかったが、若い日は二度とないから(勉強を)できるうちにやっておけ、というものらしかった。

 由香里が天吏に呼びかけていることは明白だった。

 由香里の詩吟が終わったら、すぐに体育館を出ようと思っていた天吏の決心が鈍った。阿笠たちの演奏を、目立たない位置から聴いて行こうか、と。

「天吏ちゃん?」

うつむく天吏を気遣う母は、次の出し物が阿笠たちの演奏だとは知らない。

 床を見つめる天吏にも緞帳が上がる気配が伝わった。一部の女生徒が歓声を上げる。ギターのチューニング音がする。

「二年五組の谷和原天吏さん、谷和原さん。出番です。今すぐ舞台にお上がりください」

進行係による放送のかわりに、マイク越しの店浜の声がする。

 天吏が顔を上げると、阿笠と店浜が舞台の上からこっちを見ていた。中央のマイクスタンドのところにギターを持った阿笠が立ち、向かって右にはヘッドセットをつけたキーボードの店浜がいた。左にはだれも座っていないドラムセットが置かれている。そのさらに左に、ベースギターを持った矢良和が立っていて、彼は、天吏のことはあとのふたり(主に阿笠)にまかせ、ギターを爪弾いてライブっぽい雰囲気作りに徹していた。

 天吏は、席を立ち上がった。

「天吏、母さんはあなたのドラム聴きたいわ」

となりの母が呼びかける。

 天吏は舞台に背を向けて、出口の方へ駆け出した。どうしていいかわからず身体が勝手にその場から逃げ出そうとしていたのだ。

「谷和原! おまえはそれでいいのか?!」

 阿笠の声がスピーカーから大音量で体育館に響き、驚いた天吏の足が止まった。

 阿笠は、マイクが入っているのに気がついて、マイクスタンドを横にやった。マイク越しに負けないくらいの大声で叫ぶ。

「こっちへ来いよ!」

 観客のざわめきが止み、体育館がしずまりかえった。

「俺たち、おまえのドラム、全国大会で聞いて前から知ってたんだ! 名前のことはこじつけで、最初からおまえのドラムといっしょにやりたくてバンドの話をしたんだ! ハナっから正直に言わなかったせいで、誤解させてすまない! 矢良和は臨時のお助けベースギターで舞台に上がってくれてるだけだ。このグループの正規メンバーはおまえだ! ドラマーはお前しかいないんだ!」

 舞台に背を向けた天吏は立ち止まったまま背中で聞いていた。

 最初は舞台の控え室から出てきた由香里だった。彼女は、手をたたきながらよく通る声で、谷和原の名を呼んだ。

「ヤワラ! ヤワラ!」

観客の生徒たちがいっしょになってコールをはじめた。

「ヤワラ! ヤワラ!」

 多くの生徒達は、この状況を正しく把握はしていなかったかもしれないが、谷和原を舞台に上げれば面白そうだから、という気持ちでは一致していた。

「ヤワラ! ヤワラ! ヤワラ!」

観客のコールが体育館に響き続ける。

「もおぉぉぉぉ! しょうがないなあ!」

くるりと向きかえり、照れ隠しに大声を出して、ステージへの階段に向かって走っていく天吏。観客が歓声を上げる。天吏は上がりかけて、演目の表示の下にころがっていたマジックをみつける。

「わたしが正規メンバーなら、グループ名が違うじゃない!」

 グループ名『あかさたなはまやらわ』の『やらわ』を二本線で消して『やわら』と書き込む天吏。それを見て、してやったりとほくそ笑むのはステージの隅の『できすぎくん』だった。


 谷和原の登場を演出だと理解したのか、一曲目から、ヤワラコールの興奮を引きずった観客のノリは抜群だった。

 二曲目のバラードでボーカルの阿笠が観客じゃなくてドラマーの方を向いて、愛の言葉を引き絞るように歌い始めると、会場の女生徒たちから嫉妬と羨望の悲鳴が上がり始めた。

 これこそが、阿笠の目的だったのだが、当の天吏は、まるっきり馬耳東風で、なにもかも吹っ切れてニコニコしながらドラムを叩いていた。キーボードとベースのふたりは、その様子を横目で見て、笑いをこらえるのに苦労していたようだった。

 二曲目が終わると、アンコールの声が上がり、ストップウォッチ片手の学園祭実行委員も、それに応じざるをえなくなった。

 アンコール用の曲を用意していなかったので、一曲目の曲を再演奏することになったが、二度目の観客のノリは、一度目を上回っていた。



 天吏が転校してきてから一年が過ぎ、季節はまた秋を迎えていた。

 そろそろ衣替えが待ち遠しい肌寒い日の朝、次々と登校してくる生徒たちの中に、由香里の姿があった。彼女が門を入ろうとした瞬間を待ち構えていた天吏が校舎の屋上から大声で叫んだ。

「由香里~! 優勝おめでとう~!!」

屋上の枠から乗り出した天吏と『できすぎくん』は、真っ白な垂れ幕を、ばっ! と下ろす。そこには書道部が羨むほどの筆遣いで『できすぎくん』が書いた『祝 全国詩吟大会優勝 三年四組 河野由香里さん』の文字が。

 由香里は真っ赤になって恥ずかしがってはいたが、手を振りかえして、「ありがと~!」と、良く通る声で元気に答えていた。

 登校してくる生徒たちが校門付近にどんどん溜まっていく。校舎から飛び出してきたジャージ姿の教師が、屋上に向かって怒鳴る。

「こらあ! 五十音ペア! また、おまえたちか! そこは立ち入り禁止だぞ! 降りてこ~い!」

「センセー! みんなが登校してくる間だけ。いいでしょう~?!」

身を乗り出して真下へ呼びかける天吏に、教師が真っ赤になる。

「こらっ! 谷和原! スカートでそんなことするやつがあるか!」

激怒したのではなくて、照れて真っ赤になったようだ。

 天吏と『できすぎくん』が紙ふぶきを構えると、下では数人の下級生がほうきとちりとりとビニール袋を構えて展開した。新五十音ペアといっしょになって活動している下級生達のようだ。

 二年生は皆知っているが、『あかさ』『たなはま』が卒業してからこの学校に入学した一年生たちのほとんどは、天吏と矢良和がなぜ『五十音ペア』と呼ばれるか知らない。しかし、学園を盛り上げようという元祖五十音ペアの活動精神は、次の世代へも受け継がれていくようだった。


 阿笠の一途な想いが、天吏の胸に届いて報われたかどうかは・・・・・・お気に召すままに。


                了

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あかさたなはま やわら! 荒城 醍醐 @arakidaigo

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