大学生陰陽師と天狗の爪
川波ウタ
ルーフガーデンにて
桐陽大学東館の屋上はルーフガーデンになっている。遮るもののないさわやかな日を浴びながら、柴藤美那子は友人の清原愛梨と歩いていた。
するとこつんと何かが美那子の靴先に当たった。うつむいて見るとそこには黒いもの。
落ちかかってくる黒髪を耳によけながら何気なく拾ってみると、ちょうど手のひらに収まるサイズで滑らかな手触り、ひやりとした感触が手の温度でぬくまることも無い。
「ミナなにしてるの?先行っちゃうわよ!」
「あ、待ってアイ!今行く!」
つい足を止めそれをためつすがめつしていた美那子だが、愛梨の声に我に帰るとついそれを鞄に押し込み後を追う。そんな美那子の脳裏には、今朝起こったある出来事が去来していた。
朝の満員電車の中、美那子は珍しく席に着くことができた。あと二駅で最寄りだという頃にそれが視界に入った。老婦人のスカートから零れ落ちる花柄のハンカチーフ。一輪の花から花弁が音もなく落ちるような一瞬に、美那子は固まった。声をかけようにも人の壁に阻まれてしまいどうにもできない。やきもきしているうちに駅に着き婦人はさっさと降りてしまった。足元に落ちたハンカチーフは入ってきた大量の靴にもまれて見えなくなる。
居心地の悪さを感じながら次の駅で降りたとき、一瞬振り返った電車内の床に落ちたままのハンカチーフがひどく寂しげだった。
午後からの講義にはめずらしく教室はすでに八割ほど埋まっていた。
「あちゃあ、少し遅かったみたいね。後ろの方もう満杯よ」
「前の方はまだ少し空いてるね」
「あそこに入れてもらえないかしら」
愛梨が指さしたのは最前列、四人掛けのところすでに二人の男子学生が座っている。そこしか二人で並べるところが見当たらなかった。
「すみません。こっち側って空いてますか?」
「大丈夫っすよ。どーぞ!」
美那子の問いに端に座ってる方の彼が快活に答えた。その首にはトランプケースが
紐で下げられている。変わったファッションだと美那子は思った。空いてる席の横に座る彼はつっぷして動かないためそっと席に着く。こちらはうなじでまとめられた黒髪が背を流れている。一瞬女子かと思ったがしっかりとした肩幅から男子だとわかった。
すぐに教授が到着しざわついていた教室は静まり返る。だが隣の彼は一向に起きる気配がしない。
それからしばらくは教授の声のみが教室に響いていたが、いつからか教授の首元にあるマイクのスピーカーから妙なノイズのような音が混じり始めた。
「えーと、スピーカーの調子が良くないようですが、気にしないでください。続けますからお静かに」
ざわめき始めた学生たちに注意をするその声の間にも、音はひどくなっていく。ガラスをこすり合わせたような顔をしかめたくなる嫌な音だ。
「うちの大学って外見より中身をどうにかした方がいいと思わない?」
「そうだね、この前もプロジェクターで…」
突如美那子の声をかき消す笑い声が響き渡り教室中が凍り付き、嘲笑とも哄笑ともとれる耳障りな音にパニックが起こった。
「なにこれ!」
「気持ちわりいっ…」
「先生、やめてよ!」
教授も呆然と中空を見たまま固まっている。
「ノイズが笑い声みたく聞こえてるのかしら。気味が悪いわ」
「アイ、すごく冷静だね…私は心臓が止まるかと思ったのに…」
「どうせ機械の故障でしょ?大騒ぎしなくてもすぐ収まるわよ」
すました顔の愛梨に美那子は心の内で拍手した。
笑い声は一向に止まず、耐えきれなくなった学生が何名か教室を出る。
げらげらと続く不快な音に美那子は耳を塞ぐ。だが音は振動だ。いくら塞いでも空気の揺れを完全に遮断することはできない。
どれほどたっただろうか。美那子は耳障りな音の中に別の声を聴いた。始めは笑い声にかき消されていたが、次第にそれを超える大音量となっていく。
―ドコダ、ドコダ、ドコダ…!
今まで聞いたことの無い地を這うような唸り声だ。それが痛いほどの感情を乗せて美那子の耳に襲いかかってきた。
「な、にこれ…っ!」
今や笑い声など気にならない。鼓膜から直接脳を揺さぶるような声の嵐に美那子はたまらず頭を抱えた。
「ミナ?どうしたの急に、ちょっと大丈夫?」
隣にいるはずの愛梨の声がやけに遠く聞こえる。正体不明の声の嵐が美那子を揺さぶる。
困惑と恐怖で叫びだしたくなったそのとき、嵐の隙間から柔らかい声が届いた。
「おまえは今こっちにいるんだ。そっちじゃない、帰ってこい」
背中に暖かいなにかが触れた。そこからじんわりと熱が伝わるのと同時に自分の鼓動が聞こえ、うずまいていた声が波のようにさあっと引いていった。
おそるおそる顔を上げると急に無理やり左を向かされ、彼と目があった。
「よし、帰って来たな」
彼は人懐っこい笑みを浮かべると美那子の背を軽く叩いた。かすかにしていた目眩がそれで消えたように感じる。
「もう大丈夫?急につっぷしちゃうし声かけても反応しないからびっくりしたわよ」
心なしか青ざめた愛梨が美那子の頬を挟み覗き込んでくる。
「もうなんともないよ。心配させちゃってごめんね」
愛梨の手に自分のものを添えて安心させるように笑った。いつの間にか騒ぎも落ち着いたようで、スピーカーは先ほどの狂乱が嘘のように静まり返っている。
「さっきの声はなんだったんだろう?」
「笑い声っていうかほとんどただの音だったわよ。ああ耳が痛い」
「ただの音…?」
確かにあの声は耳が痛くなるほど強烈なものだったが、音というにしてははっきりと言葉が聞こえていた。
首をかしげる美那子の横で急に彼が立ち上がった。
「悪い、蛍。荷物ちょっと見ててくれ」
「別にいいけど、どうかしたのか?志貴」
「いやちょっと、探し物をな」
そそくさと扉へ向かう彼をつい見送っていると、彼の顔の左側でなにかが光った。それが何かを確認する間もなく、彼は長い黒髪を揺らしてするりと廊下へと出て行ってしまう。
「えースピーカーも直ったようなので講義を続けます。スライドに注目して…」
誰も彼が出ていくのも気にとめず講義が再開した。美那子の耳にはまだあの低い慟哭が残っている。
一体、あの声も出ていった彼も、何を探しているのか。
大学生陰陽師と天狗の爪 川波ウタ @arana0511
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