第10話

しゅっ。しゅっ。しゅっ。


「うーん……」


 外で繰り返し鳴っている風を切る音に目を覚まされてしまいました。どうやら、昨晩は窓を開け放したまま眠りについたみたいです。

 他の二人はまだ寝息を立てて熟睡しているので、わたしは静かに布団から起き上がり、そっと窓を閉めてから下の階へ降りて行きました。

 キッチン側の窓から差し込む心地よい朝日に照らされているリビングに入り、辛うじて保管庫として機能している名だけのクーラーから天然水のペットボトルを取り出します。わたしは水をコップに注ぎ、キュッと蓋を閉めてクーラーにボトルを戻してから、コップを持ってソファの上に腰をかけました。


 なまぬるい水を、ちびちびといかにも不味そうに飲みながら、玄関側の窓の外を眺めます。そこには木刀を持って素振りをしている聖堂さんの姿がありました。

 すらりと伸びた背筋、無駄がない体の動き、ループ映像のように見える緻密な振り。まるで素振りをするために作られたからくり人形のように、彼女は完璧なフォームを保ちながら延々と練習を続けています。


「剣道がお好きなのですか?」


 聖堂さんの美しい素振りに見惚れてしまったのか、いつのまにか外に出てきていたわたしは、思わず彼女に話しかけていました。


「……」


 彼女は素振りを止め、無言のままわたしの方へ振り向きました。

 律子が昨晩告げた言葉がわたしの脳をよぎります。


『無実がはっきりするまでは、彼女たちと二人きりになるのは極力避けてくれ』


 ですが、わたしの中に恐怖の感情はまったくありませんでした。魅惑の呪いにとりつかれてしまったかのように、そろりそろりと聖堂さんの近くへと歩み寄ってしまうのです。


「君は僕を疑っていないのかい?」


 わたしの行動を不思議がっているのか、彼女は興味深そうにこちらを見つめています。どうやら聖堂さんは、自分が怪しまれていることに気づいていたみたいです。

 まあ、無理もありません。新宮さんの死体が見つかった時もそうでしたが、昨晩あたりから彼女は他の子たちに露骨に避けられていますからね。

 第一被害者の彼氏が聖堂さんの幼馴染だというのは校内で有名な噂らしいので、わたしと同様に、他の子達も聖堂さんを動機がありそうな人として最初に思い浮かべたのでしょう。度を超えた嫉妬は殺意を生み出すことがありますからね。


 ですが、それだけならまだ疑惑程度で済ますことができました。ほかには何も証拠がありませんでしたからね。しかし、第二被害者である美々さんの事件。これはみんなの疑惑を確信へと変化させた、決定的なきっかけだったのです。美々さんは失踪する直前まで聖堂さんと一緒に行動していました。名探偵でなくとも、この事実がこれ以上ないくらいの状況証拠であると気づきます。


「聖堂さん、わたしの質問が先ですよ」


 ここでわたしの考えを正直に伝えたら、場が気まずくなってしまいそうなので、答えずに話題をすり替えます。


「……はは」


 聖堂さんは薄い微笑み浮かべます。

 イケメン美少女と名高いだけあって、割と爽やかな笑顔でしたが、わたしにそれは彼女の本心ではない形だけの笑顔に見えました。押花のように死んだものの形状を整えて美化したもの。綺麗ですがどことなく無機質なもの。そう感じさせる、どことなく枯れた表情でした。

 まあ、わたしの悲観的な性格がそう錯覚させているだけなのかもしれませんけど。


「そうだね。じゃあ、僕が先に答えるよ。剣道は好きだった……かな」


 彼女は遠くを見るような目をしながら、物憂げに言いました。


「どうして過去形なんですか?」

「それに答えるのは、君が僕の質問に答えてからだよ」


 おっと、自分が押しつけたルールにうっかり嵌ってしまいました。


「正直に言うと、疑っています」


 わたしがそう答えると、聖堂さんは小さく笑いました。彼女にとって、今の言葉に面白い要素は皆無なはずなのに。


「直球だね」 


 ですが、聖堂さんはなぜかさっき微笑んだ時よりもっと自然な 笑顔を浮かべていました。


「でも、僕を疑っているのならどうして……あ、ごめん。僕が答える番だったね。えっと、質問は確か――」

「どうして今のあなたは剣道が好きではないんですか?」


 聖堂さんは木刀をその場の地面に置き、とても綺麗な黒に染まったまっすぐな髪をヘアゴムの束縛から解き放つと、わたしのすぐ傍まで歩いてきて草の上に座り込みました。

 なんとなくわたしもそうするべきだと思ったので、隣に腰を下ろします。

 すると、聖堂さんは口を再び開きました。


「嫌いになったわけじゃないんだ。でも、前ほどはのめり込めなくなりそうだよ」


 彼女は顔を膝の間に埋め込み、くぐもった声で話し続けます。


「僕は剣道への信頼を失いつつあるんだ」

「毎日、こんなに朝早くから練習しているのにですか?」


 そこまで努力できるのですから、彼女の剣道に対する思いがあせているとはとても思えません。


「さすがに毎朝こんなに早くからは練習しないよ」


 苦笑混じりに聖堂さんはそう言いましした。


「僕が朝早くから練習していたのは……逃げ出したかったからだよ。誇れる行為なんかじゃない。剣道は僕にとっては単なる現実逃避の一環でしかないんだ」


 悔しそうに両手を強く握りしめ、彼女は声のトーンを一段階落としました。


「昨日の夜遅く、奈々が僕たちの部屋に戻ってきたんだ。彼女は絶望の表情を浮かべていた。人の支えを必要としている人間の表情だよ。でもね、僕には彼女にかけるべき言葉がわからなかったんだ。だから、逃げだした。素振りの練習をしなければならないから、という言い訳でしかない理由を使ってね」


 彼女が言っていることを少し理解できたような気がしました。

 わたしも学校での人間関係がうまくいかなかった時や、嫌なことを忘れたくなった時には、決まってピアノの練習に励みました。一つのことに集中すると自然に他のことが頭の中から押し出されていき、キーを一つ叩くごとに悩みが一つずつ叩き潰されていくような錯覚を感じ、一時的ですが全ての悩みは解消されるのでした。

 まあ、要するに、ピアノの練習はわたしにとって麻薬やアルコールのようなものだったのです。世界自体を変えることはできませんが、自分の視点から見える世界を望む通りに歪めてくれるもの。それは根本的には何も解決できていないのに、妙な安心感をもたらします。


「本当は言葉をかけたかったんだ。余計なお世話だと思われても、拒絶されても良かったんだ。あの時の僕は彼女の支えになりたかった。でも不器用な僕には何も思いつかなかった。情けないよ」


 一滴の涙が聖堂さんの目から溢れ落ち、下の雑草をわずかに湿らせました。


「きっと僕がこんなのだから彼は真央を選んだのかな」


 独り言のようなぼっそりとした呟き。ですがわたしの耳はそれを聞き逃しませんでした。真央は確か新宮さんの下の名前です。


「なんか、ごめんね。こんな痛々しい話を聞かせちゃって。どうやら僕も支えが欲しかったみたいだよ」

「わたしは構いませんよ。それにそう答えさせるような質問をしたのはわたしなんですから、わたしにも責任はあります」

「……ありがとう。氷花くんって優しい人なんだね。学校ではいつも一人で本を読んでいるから、もっとクールで 冷酷な人だと思っていたよ」


 意外です。格好いいなと思っていた人が、わたしのことをクールだと思っていたとは考えもしませんでした。


「聖堂さんも結構意外でした。 もっと強靭なメンタルを持っている怖い人だと思っていましたよ」

「やっぱり、直球だね」


 彼女は再び苦笑を浮かべると勢いよく立ち上がり、大きく背伸びをしました。そして走って地面に落ちている木刀を拾いにいくと、素振りを再開しました。


「それって楽しいんですか?」


 ふと心に抱いた疑問を、特に考えずに口にしてしまいました。それがかなり失礼だったかもしれないと気づいたのは、言い切ってからでした。


「じゃあ、氷花くんもやってみるかい? そうすれば答えがわかるんじゃないかな」


 聖堂さんは特に傷ついたような素振りは見せず、にこやかな微笑みをにわたしに送りました。


「そうですね。疲れない程度になら」

「こっちへおいで」


 聖堂さんはわたしに木刀を手渡しました。彼女の汗が湿り混んでいて、ちょっと滑っています。


「左手でそこを握って、右手はこうやって添える。 あとはここをこうやって――」


 色々と触られて手取り足取り教えてもらっていますが、不思議と嫌な感じはしません。イケメン補正でしょうか。


「よし。じゃあ、やってみるよ」


 後ろに立っている聖堂さんは抱きつくような形でわたしの腕を優しく掴み、 木刀を正しい方角へと振り上げるように導きます。


「右足を前に出して、振り下ろすタイミングで左足を前に出す。わかったかい?」

「なんとなくは」


  聖堂さんに手を握られながら、一緒に素振りを繰り返します。

 木刀が空気を切る清々しい音。わたしの腕からこぼれ落ちた 一滴の汗は、しゅるしゅると木刀を伝っていき、次に木刀が振り下ろされると同時に大空へと吹き飛んで消えてしまいました。

 意外と重いんですね、木刀って。すっきりする前に、汗だくになってしまいそうです。わたしがひ弱すぎるだけなのかもしれませんが。

 数十回の素振りを終えると、聖堂さんはフォームが固まってきたと判断したのか、わたしの傍から離れました。


「少し気になっていることがあるんだけど」

「なんでしょうか?」

「氷花くんは他のみんなのように僕のことを怖がっていないのかい?」

「そうですね」


 わたしは彼女のことを疑っているのでしょうか。少なくともそれは事実です。ですが彼女はわたしに恐怖を与えうる存在なのかというと……。


「正直に言って、よくわからないです」

「自分のことなのによくわからないなんて、面白いことを言うね」


 はははと爽やかな笑いを浮かべる聖堂さん。


「なんというか……最近、夢をずっとみているような感じがして、自分の周りへ対する実感が湧かないんですよ。何もかもが霧に包まれてもやもやしているような気分です。現実が創作物みたいなことになってしまっているのが、未だに信じられないのかもしれません。きっと心の奥底のわたしは、身近な殺人が起こるなんてありえないと意地になっていて……今のわたしのもやもやした感情はそれの弊害なのかもしれません。どうも、どう考えて、どう思って、どう行動するべきなのかがまったくわからないんです。わたしは苦しみ、悲しむべきなのでしょうか? 混乱するべきなのでしょうか? 憎むべきなのでしょうか?」


 自分の中にあるわだかまりを、できるかぎり具体的に説明してみました。本来ならこのような内面的なことは、もっとも近しい家族や友達にすら言えないわたしですが、今だけはなぜかすらすらと言葉にできてしまいました。聖堂さんの人徳の影響でしょうか。


「僕にはわからないよ。氷花くんがどうするべきか。それは氷花くんが考えないと」


 わたしらしくもない長文を口にしてしまったのは、聖堂さんに人に心を開かせる人徳のようなものがあるからなのかもしれません。

 その後も引き続き素振りを続けていると、背後からかすれた小声で名前を呼ばれました。


「氷花先輩?」


 木刀を振り下ろすわたしの腕が凍りつきました。

 別荘の入り口には怯えた様子の幸が立っていたのです。


「それと……聖堂さん。どうして……」

「幸さん、違います。彼女は――」


 聖堂さんは右手でわたしの口を覆い、言葉を遮りました。


「いいんだ、氷花くん。……僕は向こうへ行くよ。僕と関わりがあると他のみんなに思われたら、君も疑われてしまうかもしれないからね」


 この時、わたしは聖堂さんを呼び止めるべきでした。そのままにしておいたら後できっと後悔すると本能がわたしに囁いていたのです。ですが状況に頭がまだ追いついていないわたしは、ただ呆然と佇んだまま、森の奥の方へと去っていく聖堂さんの後ろ姿を目で追うことしかできませんでした。


「大丈夫だった、氷花先輩? 何か変なことされた?」


 傍まで歩み寄ってきた幸は不安そうにわたしを見つめます。


「大丈夫ですよ。見ての通り」

「もしかして、聖堂先輩に脅迫されていたとか?」

「いえ、そんなことはないですよ。彼女とはただ普通にお話を交わしていただけで――」

「じゃあ、さっきくっついてた時、なんて言われたの?」

「……い、いつからそこに居たんですか?」


 必要以上に密着していた事実を知っているのであれば、少なくとも素振りを始めた直後からは見られていたらしいです。


「別になにもありませんでしたよ。それに……正直に言うと、わたしは彼女が犯人だとはとても思えなくなってしまいました」


 さきほどの会話を経て、わたしの中にできた聖堂さんのイメージは殺人鬼のものとはかけ離れていました。


「……ねえ、氷花先輩」

「どうかしました?」

「氷花先輩は聖堂先輩のことが好きなの?」

「ふぇっ!?」


 彼女はいったい何を言っているのでしょうか。なにがどうなってそのような話になるのか、まったく理解できません。

 しかし、好きかどうか……ですか。質問の意図はよくわかりませんが、女の子同士なので恋愛的な好きのことではなさそうですし、わたしは別に聖堂さんのことを嫌ってはいませんし、今日の出来事を得て無関心ではなくなってしまいましたし。つまり消去法で――


「……好き?」


 わたしの返事を聞くと、幸は一瞬ショックを受けたような顔を浮かべたと思いきやすぐに笑顔に戻り、踵を返して、ダッシュで別荘の中へと戻っていってしまいました。


 ……嫌われてしまったのでしょうか。また言葉の選別を間違えて人を傷つけてしまったようです。

 わたしみたいな役立たずをわざわざ心配してくれた優しい幸に感謝すら伝えず、自分の浅はかな行動についての反省をまるで見せず、彼女の気持ちを考えずにただ思ったことをそのまま口からたらし流した。

 自分の無神経さに辟易してしまいます。他人の気持ちを理解できない自分が愚かしい。

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