ラムネの夏
瀬塩屋 螢
第1話 眺めたその姿
後ろ姿が素敵だと思った。
梅雨真っただ中、湿っぽいうえに熱い。
この時期に、私は朝っぱらからの猛ダッシュを強要されている。理由は一つ、遅刻寸前だから。
「うぅ、このペースじゃ、やばいかも」
黒光りするアスファルトの上を跳ねるように進む。
そのうえで、イヤフォンのコードを無造作に巻き付けたスマフォで時刻を確認して絶望的な気分に浸る。
うだる暑さに、いつもより二時間以上早く起きてしまい、部屋を快適にしてぐーたらしていたらこのざま。いつも通りに家をでていればというのは栓のない話なわけで。
結局こうなるしかなかったんだろうな。
よしっ、諦めはついた。だからせめて校門が閉まるまでには校舎につきたい!
あと一分ジャスト、残るは住宅五、六軒分先の校門前までの長いストロークのみ。
自称帰宅部の底力なめるなよ。
校門との距離が近くなっていくに従って、生活指導の
そのとき、視界の端で、校舎の周りをぐるりと囲む塀を越える人影が見えた。
……
「えっ?」
呆気にとられて、スピードを緩めてしまった。それが命取り。無情にも校舎から始業のチャイムが鳴り、校門の柵は完全に閉め切られてしまった。
とりあえず、そろりと校門に近寄り、柵の前に立つ。
笹岡は、柵を閉めた途端。人影が飛び込んだ塀の方に走っていったので、もういない。物音を立てないようにそっと柵を越えて、校舎に向かうために笹岡が行った方向を向く。
そこに立つ姿が綺麗だと思った。
細身のシルエットは、背筋がピンと伸びている。まじめっぽいというより静かな出で立ちの男の人だ。
見惚れるのは見惚れていたけど、笹岡に気づかれたら一貫の終わり。幸い笹岡もその人物の方を向いていることだし今のうちに。
かくれんぼへと変貌を遂げた私の教室までの道のり。無事に生還したのは一限の授業が始まる数秒前だった。
「今日も遅れたでしょー」
授業をかっ飛ばして聞いていたので、あっという間に訪れた昼休み。遠慮ない声に噛りついていた購買のパンを飲み込み反論する。
「今日も。とは何よ、今日も。とは」
「そのままの意味よ、あんた一週間のうちに一回も遅刻せずに学校に来たことあった?」
……
「入学したての頃はなかった!」
「……まさか、たったそれだけ?」
「それだけって、一回以上はあったんだから喜んで」
「し、」
信じられないとつづける親友の声は、教室前方に備え付けられた拡声機によって遮られた。
『二年F組
「ほら、噂をすればってやつだよ」
情の薄い友人に背中を押されるまま、怒られると分かっているととても入りずらい職員室の扉の前につく。
大きく息を吸い、慎重に慎重にその扉を開く。
「っ、……って言ってんだろうが!」
大音量の慟哭がそこには響いていた。
思わず両耳をふさいで、音源を見つめる。声の主は勿論、笹岡だ。
笹岡の怒号が、ある種の生活音と化しているらしく、職員室の同僚の方々は平然と各々の作業を続けてしていらっしゃる。
その前にはあの人が立っていた。
その立ち姿を見たのは、今日の朝ぶりだというのにまたもや見惚れてしまう。凛としていて何にもそれを妨げることはできない立ち姿。
なんて綺麗なんだろう。
「おいっ、日塔! お前もここへ来いっ!」
しまった! 凶暴化した笹岡に見つかった!
が、皮肉なことに逃げるというコマンドがない以上近寄るしかない。目を三角に釣り上げ、火を噴きだしてもおかしくない笹岡は、私を前にしてさらに質量を増す。
「……お前らこれが何回目だと思っている」
笹岡の何百回目の説教を右耳から左耳に流しながら、その人を横眼で眺める。その人も笹岡の話を真剣に反省して聞くつもりはないらしくて、何も見ていない目が笹岡の目線より高いところに向いている。
「ミナセは受験生だろうがこんなつもりでどうするんだ!」
笹岡が個人攻撃を始めた。これは昼休憩が終わっても続けられてしまうパターンの説教だ。まぁ、めんどくさいし黙っていれば時間潰せるかな。
「お言葉ですが、」
遮った声が、笹岡との温度差を感じる。落ち着いていて聞き心地のいい声だな。
「受験生の俺の身を心配するなら、こうやってお説教する前に授業に参加させてくれないですか。もう授業始まるんで」
笹岡の表情が固まる。ミナセさんは整った顔を全く崩さないで笹岡を見すくめる。強い口調ってわけじゃなかったけど、有無を言わさせないって感じ。笹岡も反論しないし、どうしよう。
止まっていた時が動いた。彼がきれいな姿勢のまま腰からの礼をして職員室を出ていこうとしたんだ。
笹岡は硬直したまま。その瞬間を逃すまいと私も慌てて職員室を出る。授業開始のチャイムはたった今鳴り響いた。授業開始直後に教室に入るとか、変に注目集めたくないし、どうしようかな。
教室に戻ろうか、サボろうか。職員室の外壁とにらめっこして考える。
「君、これから教室に帰るの?」
とっくに教室に帰ったと思っていたミナセさんが、話しかけていた。
「いやー、どうしようかと思っていたところです」
「じゃあ、この後暇だよね?」
「そうですけど」
私に視線を合わせるように、少し屈んだミナセさんが人懐っこい笑みを浮かべる。
瞬間、ミナセさんから意外な言葉が放たれた。
その口から提案されるとは思っていなかったまさかの提案。とても魅力的な提案に、私は一も二もなく乗るのだった。
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