石の虹(3)

《聖剣党》。

 やつらの支部は、新宿の外れにある。

 粗末な雑居ビルの六階から八階を借り切っているそうだ。

『いまからでも引き返せるぞ、山岡』

「帰るなら、お前が一人で帰れ」


『せめて作戦を考えるべきだ』

 シヴロはなおも粘った。

『この距離から建物ごと破壊する、というのが最も迅速な解決手段だと思う』

「無茶言うな」

 さっきからうるさいので、俺はコートの内側に吊ったペットボトルをつついた。

「お前にはわからないだろうが、こっちの世界じゃ民間人の被害ってのが重要視されるんだ。始末書じゃ済まねえよ」


『理解に苦しむ』

 シヴロはペットボトルの内側でごぼごぼと呟いた。

『悪を裁くために健康と財を費やすのは、市民の誉れではないのか?』

「こっちの世界には、そんなバカはいねえ」

『そうか』


 シヴロのその物言いに、俺はちょっとした侮蔑のニュアンスを感じ取った。そういうところ、俺はかなり鋭い。

「シヴロ。何か言いたいなら言えよ」

『地球の知的生命は、ずいぶん惨めな人生を送っていると思う。救ってやりたくなるが、これは傲慢というものかもしれない』

「わかってんじゃねえか」

 もう、シヴロに一般常識を説くのは諦めている。俺は足を速めて、非常階段を昇っていく。


『《邪眼》スキルについて、やや詳細な説明をしておこう』

「手短にな」

『このスキルは、対象を視認することで発症する。石化はほとんど瞬時だ。対象の抵抗力にもよるが、平均して二秒ほどで視認部位を石化できる』

 思っていたより、即効性がある。

 だが、対抗手段も多いはずだ。そうでなければ、シヴロの住む異世界は石化系スキルを持つ生物の天下になっているだろう。


『《邪眼》は視線を反射するもので防げる。自分自身を石化してしまう恐れがあるからだ』

「古典的だな」

 俺はポケットの内側から、一枚の手鏡を引っ張り出す。さっき百円均一の店で買ったものだが、目的は果たすだろう。

「これ、絶対に防げるんだよな?」

『なぜ疑う』

「お前の知恵袋って、いつもなんか間が抜けてるから」

『失礼な物言いだ。煙幕の類が用意できればよかったのだが――不安ならばやめておけ、危険は承知しているはずだろう』

「黙ってろ」


『きみは危険をエンターテイメントのように考えている節がある。極端に言えば、リスクを伴う行為を愛好している。精神的な破綻傾向があるのではないか』

「黙ってろって言ったぞ」


 俺は少し考えて、顔の高さに手鏡を掲げることにした。

「行くか」

 目の前には、もう六階のドアがある。さび付いた非常口。

『山岡、魔剣はいつでも抜けるようにしておくがいい』


 シヴロの小言には沈黙で答え、俺は腰のベルトに右手を伸ばす。

 そこには一振りの、西洋風の片手剣が吊ってある。装飾のまるでない両刃の直剣。


 コスプレ衣装の一部か、それとも骨董品に見えるかもしれないが、これが「魔剣」だ。

 異世界の存在を斬るための武器。

 俺が携行を許された、こいつの銘は『カラヴ・ユラエク』。異界のエルフの言語で、『致死の枝』を意味する言葉だという。

 日本政府が所有する八振りのうち、もっとも鋭利な一振りであるらしい。


『ノックはしないのか』

 俺がドアを開けようとしたとき、シヴロはまた余計なことを言った。気にしてはいられない。

 廊下を進み、人の気配を探る。


 静まり返ったフロア。もとは飲食店でも入っていたのかもしれない、いくつかのドアが並ぶ。たいていは開け放たれていたが、一つだけ、閉じているドアがあった。

『痕跡がある』

 ごぼごぼとしたシヴロの声。これでも声をひそめているつもりらしい。

『いるとしたら、ここだろう。罠かもしれない』

「どうかな」


『山岡。もっと慎重に――』

 シヴロに小言を言われる筋合いはない。俺には気配でわかる。部屋の中に、人間が複数。ドアノブを強く掴むと、乱暴に捻った。

 思い切って押し開ける――そして足を止めた。そうするしかなかった。


「動くな」

 こめかみに、銃口を押し当てられる感触。


 ほとんど反射的に体が動いた。動くな、の、『な』の部分を言い終わる前に、手の平で銃口を跳ね上げている。

 そのまま相手の手首を捻り上げて、足を引っかけ、床に叩きつけた。

 ここまで一挙動。


 わざわざ警告までしている以上、発砲に踏み切るまでに一秒程度の隙があると判断した。

 俺はこの手の「相手の虚をつく」という戦術について、かなり専門的に勉強した。というより、させられた。


「あ」

 そうして倒れた相手を踏みつけて、気づいたことがある。

 俺に対して、いくつもの銃口が向けられているということに。


 段ボールやごみ袋で散らかった室内。

 そこには、ざっと八人の武装した男たちがいた。いま踏んづけているやつを含めると、九人。いずれも防弾ベストを着込み、拳銃を所持。

 八つの銃口の先は、ぜんぶ俺。


「……なんだ?」

 そいつらのうち一人が、不愉快そうな声をあげた。

「《聖剣党》の連中ではないな」

 やたらと神経質そうな、初老の男だった。その顔を見た瞬間、頭痛とともに《鑑定》スキルが発症する。


 名称:井伊 直弼。

 種族:ホモ・サピエンス。

 所属: 警視庁 刑事部特異課。

 症候群クラス:なし。


 なるほど――と、俺は思った。

 俺はちょっと出遅れたらしい。

 特異課は、刑事部が抱える異世界対策を専門にする部署だ。俺たち公安部とは微妙な対立関係にある。共存しているとはいえない。

 お互いがお互いのことを信用していないせいだ。この構造は、公安部発足の大昔からずっと変わっていない。


「わかった。待て。撃つなよ」

 俺は鏡を持ったまま、両手をあげた。周りの顔と銃口を眺めて、告げる。

「これを見てわかってくれ、こっちは公安だ」

 ベルトから吊っている、魔剣のことを言っている。その鍔元に彫られた小さな旭日章が、身分を証明してくれることを願った。


「魔剣使い。公安の、例のイレギュラーの連中か」

 どうやら、この井伊という男が集団のリーダーらしい。

 彼が鼻を鳴らし、片手をあげると、周囲の連中は一斉に銃口を下ろした。ただ一人、井伊本人の拳銃だけが俺を狙っている形になる。

 ひどい歓迎の仕方だ。


「何をしに来た」

 ずいぶんと、挑戦的な口調だった。

「お前たちも獲物を探しているのか? 見ての通り、このビルはもぬけの殻だ」

「そりゃ残念だ。上まで調査したのか?」

「先に、こちらの質問に答えろ。何を探して、ここまで来た? ここは我々の現場だ。お得意の秘密捜査というやつか?」


 井伊の口調は、あからさまに威圧的だった。俺はこいつに舐めた口をききたくなる衝動に、発作的に襲われた――が、それには打ち勝った。

 沈黙を保つことができた。


 ダメだったのは、シヴロの方だ。


『無駄口を叩いている暇があったら、問題解決のために協調行動を取るべきだ』

 コートの内側で、ごぼごぼと濁った音がした。

『きみたちの会話はあまりに非合理的なので、いますぐ私の指示に従った方がいい。同じ組織に属する同士、対立などしている暇があるのか?』


「お前は」

 と、井伊は顔をしかめた。俺は慌ててコートの裾で隠そうとしたが、まるで間に合わなかった。

 シヴロを見られた。

「例の幻獣か。公安部が妙な生き物を飼っていると聞いたが、あれは本当だったか」


『飼われているのではない』

 シヴロの声は、落ち着き払っているように聞こえた。

『差別的な発言は控えてもらいたい。協調的会話の障害となるだけで、何の益もないからだ。諸君には合理的な対応を期待する。もしも生物的知性レベルの問題で、そうした行為が不可能ならば先に言ってくれ』


「やめろ、シヴロ」

 俺には井伊の顔が険悪になるのがわかった。片眉を吊り上げただけだが、とても気分を害したことが伝わってくる。

「悪いな、刑事さん。うちの相棒は口が悪いんだ。同じ警察同士、仲良くしようぜ」

「警察同士だと。我々と、お前たちが?」

 井伊は笑った。挑発的な笑い方だった。

「知っているぞ。異事対など、所詮は非正規の寄せ集めだろう。お前たちの経歴は有名だ、どいつもこいつも――」


『山岡』

 不意に、シヴロが鋭くささやいた。

『来るぞ。攻撃だ。残り、二秒』

「ん」

 もうその頃には、俺にもわかっていた。


 井伊の背後に立っていた男の顔が、白く強張った。というよりも、硬直した。

 石化したのだ、と、その場に伏せながら悟る。


「《邪眼》だ!」

 誰が言ったのかはわからない。刑事どもが一斉にざわついた。窓の外に銃口を向ける者もいた。

「撃つな。散開しろ!」

 と、そう言った井伊は冷静だったのか、どうか。


 俺はといえば、積み重ねられた段ボールの後ろへ、転がるようにして逃げ込んだ。どこから石化攻撃を受けているのかわからなかったが、とにかく視線を遮蔽できるようなポジションへ。

「シヴロ、次からもうちょっと早く警告しろよ」

『私の《危機予測》スキルでは、三秒前が限界だ』

「そうかい」

 言いながら、俺は窓を見る。それなりに薄汚れてはいるが、こちらの顔が映るくらいには透明度を保っている。


「窓の外からじゃねえな、これは」

 自分の姿が映る危険がある。そんなリスクを侵すやつはいない。

 そうしている間に、刑事のうち数人が石化していく。攻撃は静かで、瞬間的で、抵抗の余地もない。

 ――いったいどこから、どうやって見ている?


『なるほど、あれか』

 俺の疑問に答えるように、シヴロが唸った。

『監視カメラ、といったか? 部屋の天井、四隅に設置されている。極めて隠蔽性の高いレンズだな。まずいぞ。この世界の科学技術について、完全に失念していた』

「お前って、そういうところあるよな」


 俺はせめて、できるだけコートで顔を隠そうとする。段ボールの隙間に体を押し込める。

「鏡一枚でどうやって対処しろっていうんだ。それに、もう一つまずいことがある」

『なんだ』

「左腕が石になっちまった」

 左の肘から先の感覚がない。不思議な感触だった――俺の左手は、ただひたすらに重たい石の塊になっていた。

 その手に握っていたはずの手鏡も、とっくに取り落としている。


「シヴロ、ここから何か作戦はないか?」

『だから私は反対した』

 ごぼり、と、シヴロはわざとらしく泡立った。

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