第89話 訪問 その3
俺はエレナさんもう少し話を聞きたいと頼み、俺達は休憩室に行った。
職員用の休憩室に三人プラス一人が腰掛けた。
「お聞きになりたいこととは?」
エレナさんは俺達に紅茶を差し出して座った。
「ありがとうございます。少し込み入った話を伺いたいのですが、良いですか?」
「はいどうぞ」
「こちらでは、動物を安楽死させたりはしないと聞きましたが、そうなんですか?」
「いいえ。ゼロではありません」
「ゼロではない?」
「はい。この施設の譲渡率は九十九%です」
「九十九%!?」
「はい、ですが残りの一%には飼い主がつきません」
「……じゃ、その一%は……安楽死ですか?」
「いいえ。多くはこの施設内で一生を終えた子たちです。その中の極小数……年間十匹くらいを安楽死させています」
「それでも年間十匹……あの。トータルの、年間での動物の取扱数は?」
「年間ではおよそ、一万二千匹を扱っています」
「一万二千匹の中の十匹!?」
とても少ない……。それこそ一%以下どころの話ではない。
「はい。それらは凶暴化してしまい、訓練をしてもどうにもならない子や、重い病気や怪我で苦しんでいる子達です……。そういう子たちは第三者を交えた協議会での審議を経て、安楽死させています」
エレナさんはまっすぐに俺を見て、真剣な表情でそう言った。
「な、なるほど……」
俺はエレナさんのその眼差しに、その強い思いに少し押された。
「それに、安楽死ゼロを目的とした場合、それが動物たちにとって本当に良い事なのかが分からないのです……。なので、あくまでも自分たちがそういう状況になった場合……ということを考えた結果でしかありません」
エレナさんは窓の外を見た。窓の外には芝生の広がる庭に、小さな赤い石があった。
「……無理をして、共倒れにならない為にも……ですか?」
俺はエレナさんを見た。
「それもあります。ですが、現在この施設にはその懸念はありません。本当に分からないのです。会話が出来ない限りは……。いえ、動物に限った話ではありません。人間でもそうですよね。脳死状態の家族をそのまま延命させるのか、安楽死させるのか……そこに明確な答えはありません」
「確かに……」
危篤状態で生き長らえている、喋れない、意思疎通が出来ない家族をどうするのか? という状態に正しい答えなんて無い。意思疎通が出来ないという意味では動物も同じ。誰も殺したいなんて思っていない。でも、それは当人の為になるのか? という疑問には、明確な答えなんてある筈がない。
「自分だったら……か……」
「はい。そこに答えを求める以外、方法がないのです」
エレナさんは俺を見た。
「良くわかりました。もう一つ良いですか?」
「はい」
「あの……ドイツにはペットショップって、無いんですか?」
「ペットショップですか……。今は殆どありませんね……」
「今は?」
「はい。少し前までは大型のペットショップもありました」
「それって、世論の圧力によってなくなった……と言うことですか?」
「結果的にはそうです。元々、動物を飼育するための細かい規則がありまして。それを満たすような店舗を作ろうとするとペットショップは割に合わないのです」
「規則?」
「はい。特に犬は厳しくて、例えば……子犬は二ヶ月にならないと母犬から離してはいけないとか、ケージの床面積は体高が五十センチまでの子には六平方メートル、それ以上の子には十平方メートル与えなくてはならないとか……。他にも採光や通気、暖房などに関しても規則があって、それをすべて満たさないとならないんです」
「そんなに細かく!?」
「はい。まぁ、正確にはペットショップを無くすための基準です」
エレナさんは笑った。
「なるほど……」
「なので、それに代わるものという意味でもここは重要なんです。ペットを飼うならティアハイムから。どうしても飼えなくなったらティアハイムへ。そういう一連の流れを一箇所で管理することで、動物飼育のあり方を指導し、税金を課すことでそういう施設や動物を、飼う人全員で守ろうという流れになりました」
「税金……?」
「はい。街角で……白くて背の高いポストをご覧になりませんでしたか? 白地に赤で文字や絵が書いてあって、上半分にはエチケット袋が、下半分にはゴミ箱が付いています」
「あ……見たかも……」
「なになに?」
楓が俺を見た。
「ほら、バス停の横に、背の高い、上と下に白い箱がついたやつ。見なかったか?」
「うーん……見たような、見ていないような……」
「あ、あれが税金で作られているんですか?」
俺はエレナさんを見た。
「はい。それは犬を散歩する際に糞を回収するために使うエチケット袋の配布箱と、それを捨てるゴミ箱です」
「自分で持ち歩かなくていいと?」
「もちろん、自分で持ち歩く方もいらっしゃいます。ただ、処理の問題で決められた袋を使う必要があるんです」
「あぁ……分別ゴミ……的な……」
「はい。それにこの施設の運用資金の一部も税金です」
「運用資金も!? ……ペット税……良いですね……」
「いいね……」
俺と楓は遠い目をした。
「あ、でもこの施設の資金の多くは寄付によるもので、税金はほんの一部に過ぎません」
「どのくらいの割合ですか?」
「八%です」
「低っ! あの……因みにこの施設の運用に必要な資金は……?」
「あ、金額ですか?」
「はい、宜しければお教えいただけませんでしょうか?」
「八百万ユーロです」
「八百万……ユーロ?」
「蒼汰、いくらだって?」
「ちょっと待て、今日本円に計算する……」
俺はスマホを取り出した。
「日本円だと、十億五千万円ですよ」
アリシアが言った。
「じゅ……十億五千万円!?」
俺はアリシアを見た。
「……多いね……。でもその位じゃないと、ここは回らないのかも……」
楓は考え込んだ。
「そうなのか……うちは?」
「一千万ない……」
とんでもない差だ……。だが面積比で考えると同じくらいなのかも……。
「ボラさんって……ありがたいよな……」
俺は宙を見た。
「うん、ボラさん無しでは何も出来ないよ……ありがとうございます」
「ありがとうございます」
俺達は両手を合わせた。
「ボラさん?」
エレナさんは俺を見た。
「あ、ボランティアさんのことです。俺達はボラさんって呼ぶんです」
「あぁ、そうですね。ここもボランティアさんの協力なしには成り立ちません……本当にありがたい話です……」
エレナさんは俺達を真似て両手を合わせた。
そしてその後、俺がトレーナーをやっていると言ったら、トレーニングの様子も見ますかと言われ、見せてもらった。
ただ、それは特殊ではなく、むしろ日本とは大きく変わらないものだった。「やっぱり蒼汰が一番だよ」という楓の言葉は通訳しなかった。
「本日は本当に色々と有難うございました」
俺と楓は頭を下げた。
「いいえ。お役に立てると嬉しいのですが……。あ、今度日本へ行ったら伺ってもいいでしょうか?」
「ええ、もちろんです! その際にはご連絡ください。でも……何の役にも立たないかも知れませんよ?」
「ありがとうございます。予定が作れたらそうさせていただきます。いえいえ、日本の現状が知りたいだけなのです」
俺達は何度も頭を下げ、ホテルに戻った。
次の日。
朝一番の飛行機に乗り、日本に戻ると、俺達の長い三日間は終わった。
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