第67話 噛む犬の思い




 その後、俺や楓や空さんを含め、ボラさんたちも、時間が出来ると五階へ行き、動物たちに話しかけるようになった。


 これは俺からみんなに頼んだものだ。五階の子たちは人に慣れていないため、良く鳴く。だが、くり返しいろいろな人が出入りすると、少しずつそれに慣れていく。さらに俺が動物たちの話を聞き、話をする。これで少しずつ、それぞれの動物の考えや置かれた状況を理解し、それをメモしながら周囲の人に伝え、人に慣らしていくのだ。


 そうして会話を続けていく中で、ゲンちゃんがどうして噛むようになったのかが分かり始めた。


「じゃ、お前は寂しかった……嫉妬したって、ことなのか?」

 俺は三階のしつけ教室の部屋で、ゲンちゃんのケージを床に置き、その前に座り込んでいた。

「(そうだと思う……今となってはよくわからない……。ただ、威嚇して、暴れて、それで自分の居場所を……お家に残りたい……そう思っていただけなのかも)」

「今はどうなんだ?」

「(今はそうじゃない。私は人に飼われ、お母さんやあなた達が居なければ生きてはいけない存在だと知った……。私はボスじゃなかった……)」

「どうしてそう思った?」

「(あなたが一度、私にだけご飯をくれないことがあった……。私がどんなに吠えても、威嚇しても、暴れても、あなたは私にご飯をくれなかった……。私は苛立ち、もっと暴れた。暴れれば暴れるほどお腹が空いて、最後には動けなくなった。その時、あなたは私に伏せることを指示し続けていた。ご飯が近づき私が立ち上がると、あなたは私のご飯を遠ざけ、何度も伏せることを命じていた。私はあなたに負けた……。あなたがボスだと認識した)」

「ふむ……少し違うな……」

「(違う?)」

「ああ。俺がボスなんじゃない。お前を飼い、育ててくれる人がボスだ。だから、お前にとってはお前を飼ってくれるお母さんとその家族全員がボスだ。そして、お前が家の人と幸せに暮らすためには、お前が気持ちを改めないといけない。家の人が最優先。そしてその他の人も怖がらず、噛み付いて傷つけてはいけない。それを守れなければ、お前の飼い主さんは悲しがる」

「(悲しがる……お母さんが?)」

「ああ。お母さんも、その他の人もだ」

「(……でも、お母さん、もう私のことが好きじゃない……)」

「ん、なぜだ? どうしてそう思う?」

「(お母さんは、あの子ばかりを可愛がる……)」


 俺が楓から聞いた話では、ゲンちゃんの飼い主さんはとても優しい人。それは会ってみて直ぐにわかった。

 始め、ゲンちゃんは家族に迎え入れられた時、全く問題なく暮らしていた。その後、飼い主さんはゲンちゃんが寂しくないようにと、別の子を引き取ってくれた。だが、そこからゲンちゃんの態度が豹変した。つまり、ゲンちゃんは妬いたのだ。しかも極度に妬いた。

 柴犬は良く「ツンデレ」だと言われる。これは俺の考えだが、他の犬よりも愛情が強い故なんじゃないか? と、そう思う。こいつらは元々頭がいい。新しい犬が来た時、その新しい犬、トイプーはまだ六ヶ月の子供だった。飼い主さんはそれは甲斐甲斐しく世話を焼いたことだろう。しかしそれは、ゲンちゃんにとって、脅威でしか無かった。


 「また、捨てられる……」そう思ったに違いない。


「なぁ、ゲンちゃん。お前、お母さんが新しい子犬を引き取った理由、分かるか?」

「(え……? 私を嫌いになったから……)」

「違う。お前のお母さんは、お前が寂しくないようにあのトイプーを引き取ったんだ」

「(私の……為?)」

「ああ、お前のためだ。お前が一人で留守番をしていても、一緒に遊べるように、寂しくないようにあの子を引き取った。全てはお前のためだ。わかるか?」

「(でも……お母さんはあの子とばっかり遊んで……)」

「それは違う。あのトイプーは引き取られた時、まだ子供だった。お前よりもずっと子供で、お前よりも守ってあげなくては生きていけない存在だった。だから、お母さんはトイプーの世話をした。お前よりも大切なんじゃない。そうしなければ、あの子は生きられず、お前の友だちになれなかったからだ」

「(本当に……私のためなの?)」

「ああ、間違いない。なぁ、お母さんの気持ち、分かるか? お前を大切に思い、新しい子を引き取った思い、分かるか?」

「(……私は、どうしたらいいの?)」

「どうもしなくていい」

「(どういう意味?)」

「お前がその思いを理解できたなら、自然と仲直りできる」

「(でも、お母さんはもう……私を怖がって……)」

「それはお前が態度で示せ」

「(どうやって?)」

「簡単なことだ。お母さんが好きだ。家族のみんなが好きだ。トイプーともちゃんと仲良く出来る。そう、教えてやれ」

「(できるかしら?)」

「出来るさ。今のお前ならな」

 俺はそう言うと、ケージの中からゲンちゃんを出した。ケージの中に手を入れても、ゲンちゃんは恐れること無く俺に抱きかかえられた。

「(まだ痛い?)」

「あ、これか? もう大丈夫だ。でも、その気持を忘れるな?」

「(うん……)」

 ゲンちゃんは俺の顔を舐めた。


「ど……どういう事?」

「え?」

 振り返ると、楓が立っていた。

「あ、楓」

「ね、どういう事なの? どうしてゲンちゃんがおとなしく抱かれて、蒼汰の顔を舐めているの?」

「ゲンちゃんはもう大丈夫だ。呼んでみろ」

 俺はゲンちゃんを床に置いた。

「うん……。ゲンちゃん、おいで」

「(あ、あなたはあの時の!)」

 ゲンちゃんは楓に呼ばれると一目散に走り出し、楓の広げた腕の中に飛び込んだ。

「ひゃぁ!」

 楓はゲンちゃんを抱きとめ、そのまま後ろに倒れた。

「あはははは、ゲンちゃん、わーかった! わかったから……」

 ゲンちゃんは楓の顔を舐めた。楓は喜び、ゲンちゃんの体をさすった。

「な? 大丈夫だろ?」

「う、うん。あ、ゲンちゃんもういい! もういいよ!」


「はぁ……でも、どうして急に?」

 ゲンちゃんが落ち着き、床に足を伸ばして座った楓の膝の上に抱かれていた。

「ゲンちゃんが話してくれた」

「……あ、自分のことを?」

「ああ。それで原因がわかった」

「何だったの?」

「極度の嫉妬。そこからくる恐怖だ」

「嫉妬は分かるけど、恐怖?」

「ああ。また捨てられるという恐怖だ。その後、収集がつかなくなった。自分でもどうしたらいいのかわからなくなったらしい……」

「そうなんだ……」

「ああ。ゲンちゃん、あとは普通のしつけだけやろうな」

「(普通の?)」


 俺はその後、お座り、待て、伏せ、お手を教えた。

 そして、一緒に散歩をする方法を室内で教え、外へ連れ出し、実践を行った。

 その後のゲンちゃんの成長は著しかった。何しろ元々頭のいい子なので、どうしてそうすべきなのかを理解した時点で、全く逆らわなくなった。その後、楓や空さんを始め、ボラさんにも協力してもらい、知らない人から指示を出されても、ちゃんとそれを聞くようになっていった。そして四階の数匹を連れ、しつけ教室の部屋で全員を離すと、ゲンちゃんは他の子達とちゃんと挨拶をし、仲良く出来るようになった。これに伴い、ゲンちゃんはボラさんに他の子たちと一緒に連れ出され、散歩してもらえるようになっていった。


 こうして「いい子のゲンちゃん」は復活した。

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