第68話 生徒の卒業と、新たな問題児



「ゲンちゃーん!」


 飼い主さんがそう呼ぶと、ゲンちゃんはもう待ちきれないという様子になり、俺がリードを離すと一目散に飼い主さんに駆け寄り、飛びついた。

「あ、コラ。最初から飛びつくな」

「(お母さん、お母さん、お母さん!)」

 ゲンちゃんは聞く耳を持っていなかった。嬉しさのあまり、何も聞こえていなかった。

「ゲンちゃーん! いい子になったねー。うん、うん」

 飼い主さんはしゃがんだ自分に飛びつこうとするゲンちゃんに返事をしていた。とても嬉しそうだった。


 その日、ゲンちゃんの飼い主さんがゲンちゃんを引き取りに来ていた。俺と楓は三階に招き入れ、ゲンちゃんと飼い主さんを対面させた。


「すみません。大丈夫そうなので、トイプーのケージをここに置いてもらえますか?」

「あ、はい……大丈夫でしょうか?」

「最初はケージから出さずに対面させましょう」

「はい」

 飼い主さんは机の上においていたトイプーのケージを床の中央に置いた。

 ゲンちゃんはケージの中を覗き、匂いを嗅ぐと「遊ぼう」の動作をした。

「あ、大丈夫ですね。離していいですよ」

「……はい」

 飼い主さんは心配そうに俺を見てそう言うと、トイプーのケージを開いた。

「ゲンちゃん、少し離れて待ってやれ」

「(わかったわ)」

 俺がそう言うと、ゲンちゃんはケージから少し離れて伏せ、中の様子をうかがった。

「言葉が……通じた?」

 飼い主さんは俺を見た。

「まさか……。でも、ゲンちゃんはかなり理解しますよ」

「そう……なんですか」

 飼い主さんはゲンちゃんを見た。

 ケージの中からトイプーが恐る恐る顔を出し、ゲンちゃんは離れた場所から遊ぼうの動作を繰り返し、トイプーを誘っていた。やがてトイプーはそのゲンちゃんの誘いにのり始め、一緒に遊ぼうの動作をし始めるとゲンちゃんが逃げ、トイプーが追いかけた。

「おぉ、ちゃんと逃げ役になっている……頭のいい子だ」

「だね」

 楓が笑った。



「本当にありがとうございました」

 飼い主さんは駐車場で俺に深々と頭を下げた。

「原因はあなたにあったのではなく、ゲンちゃんの勘違いでした。これまで通りにかわいがってやってください」

「はい。それを聞いて安心しました。私が何か間違っていたのかと……ずっと気に病んでいました……」

 飼い主さんはゲンちゃんのケージを見た。

 ゲンちゃんは落ち着き、ケージの中で寝ていた。

「ゲンちゃん、またな」

「(……ありがとう)」

 ゲンちゃんは半目を開き、そう言った。


「では、お気をつけて」

 楓が頭を下げた。

「はい、ありがとうございました。失礼します」


 ゲンちゃんを乗せた車は、ゆっくりと地下駐車場を出て左に曲がり、やがて大通りを曲がると見えなくなった。


「寂しい?」

「いや、嬉しい」

「だよね」

「ああ」



 俺は自分の手で、一匹を救った実感を噛み締めていた。





 ──


 その後、俺のしつけ教室は「喋れる先生の学校」として、大繁盛し始めた。


 その切っ掛けとなったのは、楓がアップしていた俺とゲンちゃんの奮闘記だ。もちろん飼い主さんに許可を得た。飼い主さんは「他の子も救って欲しい」と快諾してくれた。そしてそれを読んだ人たちから「うちの子もしつけて欲しい」と問い合わせが殺到し、あっという間に俺のしつけ教室は、週一日で一回だけの三匹だけの状態から、週六日で一日に六回、木曜定休の人気施設となっていった。


 木曜日を定休にしたのには意味がある。サロンの定休日に合わせたのだ。俺達には基本的に休みなんてない。動物の世話をしているのだから、そんな物がある筈がない。と、そう思っていたのだが、正確には休みではなかったのだ。


「休みなんて要らないぞ」

「いや、定休日は必要だよ」

「なんで? 毎日ここに来てるじゃないか」

「定休日はお休みじゃないよ」

「どういう意味だ?」

「定休日は、一週間溜まった事務処理をする日」

「……あ、そう言う……」

「わかった?」

「ああ。分かった。じゃ、どうして木曜日なんだ?」

「え? 私と合わせたほうが良いでしょ?」

「なんで?」

「デートできるかもしれないじゃない」

「……今、休みじゃないって言ったよな?」

「うん。休みじゃない。でも、その可能性もある……って、嫌なの!?」

「嫌なわけあるか!」

「そう、なら良いけど……。それに、サロンと動物病院としつけ教室は三つ巴なの」

「三つ巴?」

「うん。サロンに来てくれたお客さんは、ついでに動物病院に行ってくれたりするし、その逆もある。しつけ教室も同じだよ」

「あ、なるほど……。経済効果が高いと」

「お客さんの利便性が高いと言ってくれるかな?」

「あ、そうですね……」


 こうしてしつけ教室は木曜日が定休となった。


 そして……。


 ──


「猫……ですか?」

『はい。先日から急に私達を威嚇するようになってしまいまして……先生にご相談させていただきたいのですが』

 俺は飼い猫が突然飼い主を襲い始めるようになり、情緒不安定になったという電話を受けていた。そしてその頃、俺はいつの間にか「喋れる先生」に祭り上げられていた。

「その子、連れてこられますか?」

『いえ、全く言うことを聞かず、手を付けられない状態でして……できればお越しいただけないかと……』

「お住いはどちらでしょうか?」

『……品川区です』


 ──


「忙しい所、すまないな……」

「ううん。ぜーんぜん。でも、急に威嚇し始めたって……なんだろうね?」


 俺達はその日の二十時、俺のしつけ教室と楓の仕事が終わると、帰宅前に問題の猫がいる家へ車を走らせていた。


「さぁな……俺にもその経験はないし、まだ状況がよくわからん」

「ああ、小鉄の時の?」

「ああ」

「やっぱり猫が相手だと、自分の経験と照らし合わすの?」

「うーん……俺は猫って言っても、普通の猫じゃなかったしな……。あまり役に立つとは思えないし、意味がなさそうなんだが……自然とそうなっちゃうな」

「やっぱりそうなんだ……」

「ああ」


 車は小一時間ほどして、目的地に到着した。


「ここだね」

「ああ」

 ピンポーン。俺は一軒家のチャイムを鳴らした。

『はい』

 すぐにインターフォンから声がした。

「あ、レンコントのトレーナー、櫻井と申します」

『あ、先生! 少々お待ちください!』

「はい……。なんか先生と呼ばれることにまだ違和感が……」

「そうなの?」

「ああ……そんな大層なことをしているわけでもないし」

「大層なことをしてるよ。飼い主さんにとって、蒼汰がしてくれることは自分にできないこと。それはそれは大層なことだよ」

「そっか?」

 ガチャ。と音がして扉が開いた。

「お待たせしました! どうぞ中へ」

「はい、失礼します」

「失礼します」


 家の中に入ると、三匹の猫が居た。

「フシャーッ!」

 一匹の猫がキャットタワーの中腹で立ち上がり、俺を威嚇していた。

「あ、この子ですか?」

「はい。この子がブチ、四歳です。こっちがシロ、三歳で、この子がクロ、二歳です」

 お、色で名前がついている子か。分かりやすい。

「なるほど……この子達は家族ですか?」

「はい。シロもクロもブチの子供です」

「ふむ……急に威嚇し始めたとのことですが、その前後に何か変化は?」

「いえ、特に何も……本当に三週間くらい前から急になんです……」

「三週間前……じゃ、違うのか……。ブチ、こんばんわ」

「フシャーッ!」

 ブチは威嚇をしたままで俺を睨みつけ、何も言わない。

「あれ? (アリシア、喋る能力、ONのままだよな?)」

「はい。一度も切ってませんよ」

「(そっか……)うーんと……シロ、こんばんわ」

「ニャァ(あんた誰?)」

「あ、聞こえた……なんでだ?」

 俺はブチを見た。

「何も言おうとしていないのでは?」

 アリシアが言った。

「(どういう意味だ?)」

「いえ、ただ威嚇している。でも何も伝えようとはしていない」

「(ああ、そういう事か……。アリシア、お前、感情が読み取れたりするか?)」

「物凄く苛立ってますね」

「(いや、それは見れば分かる……)」

「いえ、そうではなくて、こう……焦っていると言うか……」

「(焦る?)」

「困っているというか……」

「(困ってる?)」

「はい」

「おい、ブチ何か困ってるなら言ってみろ」

「(あなた、喋れるの?)」

「あ……喋った。ああ、どうしてそんなに苛立ってるんだ?」

「(…………)」

「ん? お前、腹タプタプじゃないか……」

 ブチのお腹が伸び切ってたるんでいた。これは……。

「あ、本当だ。あの、この子の子供は?」

 楓が飼い主さんに聞いた。

「いえ、子供は居ません」

「居ない?」

 俺が聞いた。

「産んでませんから」

「は……?」

「(ここから出せ!)」

 ブチがキャットタワーの上から、窓を引っ掻いていた。

「あれ……? この子達、家猫じゃないんですか?」

「ええ。時々外に出してます」


「出してる……? あぁ! そういう事か!」

「蒼汰? 何か分かったの?」

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