第61話 新たな事業の始まり


 月日は流れ、俺が三年生になって夏を迎え、楓に出会ってから二年が経過した頃。


 俺は受験していた資格に合格した。

 合格したのはCDTと家庭犬のしつけ訓練士とドッグカウンセラー。


「受かったの!?」

 レンコントの休憩室で、俺が楓に試験に合格した事を報告すると、楓は驚いた。驚き、喜んでくれた。

「ああ」

「おめでとう!」

 楓はボフッと、そんな音がしそうな勢いで俺に抱きついた。本当に嬉しそうに笑っていた……それが嬉しかった。

「楓のおかげだ……」

「ん……? 蒼汰の努力の結果だよ?」

 楓は少し体を離すと、俺を見た。

「いや、受験にかかった費用に関しては、楓の世話にならないとできなかった」

「でも……それって自分でお金を出してでも受けるつもりだったんでしょ?」

「んー……受けるかどうかは決めてなかった。勉強はするつもりだったがな……。だから、こうして資格を取れたのはお前のおかげだ」

「そっか……うん」

 楓は俺に抱いたまま、おでこをコツンとぶつけた。

「楓……ありがとう」

「……うん」

 楓はそのまま俺にキスをした。


「お前ら、本当に爆発しろ」


「ひっ!」

「うおっ!」

 楓と俺はパッと離れて声のした方を見た。

 事務所のドアを開け、いつもの呆れ顔で空さんが立っていた。

「そ、空……どうしていつも覗いてるの!?」

「どうしてお前らは、どこでもキスをしてるんだ?」

「え……そんなどこでもなんてしてないよ!」

「じゃ、なんであたしがこんなに多く目撃するんだ?」

「し、知らないよ……あ! 蒼汰、合格したってさ!」

「ん……? ああ、合格したのか! おめでとう」

 空さんは右手を差し出した。

「ありがとうございます」

 俺は空さんの手を両手で握り、頭を下げた。

「でもまぁ、これがスタートだな」

 空さんは笑った。

「ですね」

「うん。でも、これで始められるね」

 楓は笑った。

「ああ。楓の夢がまた一つ叶うんだな」

 空さんは楓を見て、微笑んだ。

「うん……。少しずつ、叶っていく……みんなが叶えてくれる」

 楓は空さんを見てそう言うと、俺を見た。

「叶う……? 何が?」

 俺は楓を見た。

「あれ……? 言ってなかったっけ?」

「何をだ?」

「しつけ教室」

「しつけ……教室?」


「うん。ずっとやりたかったしつけ教室を始めるんだよ」


「は……?」


 その後楓は詳細を、これまで思っていたことを話してくれた。

 楓はずっと前からレンコントで引き取ってもらった動物のアフターケアの一環として、しつけ教室をやりたいと思っていたのだそうだ。そのアフターケアの最初の一歩としての動物病院で、それは譲渡する前の段階から必要。そして譲渡した後のケアとしても必要だったので、何よりも先に空さんに声をかけ、動物病院を始めた。

 そしてその次。譲渡した後、実際に飼い始めてから「再び動物が捨てられないための手段」として、人と動物とが上手に付き合い続ける為のしつけ教室をやりたかったのだ。


「なるほど……」

「ね。必要でしょ?」

「そうかもな……。ん……? 俺がそのしつけ教室をやるって事か!?」

「うん」

「いや、俺にはそういう経験とかないぞ!?」

「でも、出来るよね? これまで沢山の子たちを人に慣らしてきたし、しつけの方法も勉強したし」

「あ、ああ……多分な……」

 これまでも多くの動物、人を極度に怖がる犬や猫を慣らしてきた。その経験はある。さらに今回の試験の一環でしつける方法も勉強した。自信もある……ただ、しつけとなれば話は別。そっちの経験は皆無だ。

「でも、それって……経験がなくても良いのか?」

「ふむ……経験か……」

「それに、ドッグトレーナーの資格は持ってないぞ?」

「ああ、それは要らないんだよ」

「……は? 要らないってどういう事だ?」

「免許じゃないってこと」

「……免許じゃない? あれ……? じゃ、俺が取ったCDTも家庭犬のしつけ訓練士もドッグカウンセラーも要らなかったってことか!?」

「うん、お仕事をするための許可って言う意味では要らないの。ただ、そういうお仕事をするなら、お客さんに信用してもらわないといけないし、失礼でしょ?」

「……確かに」

「ねぇ、やってみない? 蒼汰なら出来ると思う」

「うーん……」

 いや、できるとは思う……。出来るできないで言えば、出来る。そう言う意味では自信はある。ただ……不安が残る……。

「不安……かな?」

 楓は心配そうに俺を見た。

「ああ……」


「蒼汰くん」

「はい」

 俺は空さんを見た。

「できると思ってるんだよね?」

「ええ……出来るとは思います」

「じゃ、やらないのはズルくないかい?」

「ズルい……ですか?」

「君がここにいる、私達と一緒に働いてくれている理由は何だい?」

「俺がここに居る、理由……」

 そりゃ、動物たちを少しでも多く救いたい。そう思うからだ。もちろん、楓と一緒にいたい、喜ばれたいというのは少なからずある。

「きっと、楓と一緒にいたい、喜ばれたいっていうのもあるんだろう。でも、同時に君は動物を助けたいという思いで、ここに来ているんじゃないのかい?」

「ええ、もちろん……」

「じゃ、やらないのはズルいだろ」

「……あ、できるのにやらないのはズルい。動物に対して失礼だと……そういう事ですか?」

「ああ。動物に対しても人間に対してもね。もう一つ加えれば、君が楓の夢を叶えなくて良いのかい?」

「楓の……夢……」

 楓を見た。楓は俺と目が合い、ふわっと微笑んだ。

 俺が……楓の夢を……叶える?

「ま。答えは聞かなくてもわかってるけどね。なら、やらなきゃいけないだろ?」

「……はい。叶えたいです」

 俺は空さんを見た。

「……と、自然と答えは出てくる訳だ」

 空さんは楓を見た。

「空……。昔から思ってたけど、誘導尋問上手だよね……」

「誘導尋問って言うな……。当然の事を理論立てて口にしたまででしょ?」

「うーん……そうなんだけどね……。空が言うとこう……言わされた感が……」

「言わされたって言うな……。まぁ、否定はしないけどね……」

 空さんは苦笑いした。

「それに、蒼汰くん」

 空さんは俺を見た。

「はい」

「すぐに始めようって訳じゃないから。まだ時間はあるよ」

「え、そうなんですか?」

「うん」

 楓が答えた。

「それって、どういう……」


「場所がないもん」


「場所……? あぁ、そうか……」

 この建物はすべての階で何かしらを行っており、全ての階が埋まっている。

「じゃ、どこで?」

「やっぱりここかな?」

 楓は空さんを見た。

「まぁ、ここしかないよね」

「ここ? ここって……事務所はどうするんだ?」

「ああ、事務所はそのまま。そうじゃなくてここ。休憩室のこと」

「あ、ここか……」

 俺は部屋を見渡した。

 ここはビルの三階を二つに区切り、入り口を入ると休憩室があり、その先に事務所がある。事務所は六畳ほどの広さで、この休憩室は十畳程の広さがあった。

「あれ? ここって、最初からそのつもりで空けてたのか?」

 俺はどうして事務所よりも休憩室が広いのだろうと思っていた。福利厚生的な観点で、動物を扱うためには広い休憩室できちんと休むことも重要……。と、てっきりそんな意味なのかと思っていた。

「うん。だからテーブルも椅子も折りたためるものにしているの」

「ああ、そういう……。たしかにここなら十分かもな……」

「でしょ? あの壁も防音性の高いものにしているんだよ」

 楓は休憩室と事務所を仕切る、壁を指差した。

「そうなのか?」

「うん。電話とか話し声とか、大きい音がすると困るから」

「へぇー……」

「どうかな?」

「いや、十分な設備だと思う」

「あ、いや、そうじゃなくて……。ちゃんと言ったほうが良いか……」

「ん? なんだ?」


「蒼汰、私の夢のお手伝いをしてくれませんか?」


「…………」

 俺は少し、言葉を失った。楓のその言葉と笑顔に言葉を失っていた。

「蒼汰?」

「蒼汰くん、やられちゃったね……」

「やられた?」

 楓は空さんを見た。

「うん。楓のお願い攻撃に」

「なに、その『お願い攻撃』って……なんか悪く聞こえるよ?」

「あぁ、悪気がないのは分かるんだけど、楓のそのやり方は卑怯だからなぁ……」

「卑怯!? もっと悪くなってるよ!?」

「……良いのか?」

 俺は楓を見た。

「え?」

 楓は俺を見た。

「あ、戻ってきた」

 空さんは笑っていた。

「俺で、良いのか?」

「……蒼汰しか、頼める人が居ないの。ううん、蒼汰に頼みたいの。ね、蒼汰……」

 楓は少し前かがみで困ったようにそう言うと、姿勢を正した。


「お願いできませんか?」

 楓は少し首を傾げて笑った。


「ああ。喜んで」

 俺も笑った。


 でも、楓の笑顔にそう言わされた訳じゃない。俺が楓の役に立つことが出来るというその思いが、俺を後押ししていたのだ。


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