第2章 『運だけの猫』

第2話 無からはじまる、いつもの感じ



(さ、寒い……)


 温かいところから押し出されたその場所は、今まで居た場所と違い、どんどん体温が奪われていく。なにやら温かいもので撫でられ、体の表面の暖かかったものがどんどん削ぎ落とされていく。必死に呼吸をして泣きわめき、真っ暗闇な中を動き回ると、体が持ち上げられ、あごに温かいものが触れた。そのまま本能のおもむくままに、必死に温かい突起物を吸った。


 何度も寝て、何度も突起物を吸い、何度も用を足した。


 そんなことを幾度となく繰り返していたら、薄っすらと目の前が明るくなった。


(な……なんだこれ……)

 目の前には自分の二倍はあろうかという、大きな顔がこちらを見ていた。大きな目、大きな耳、顔の中央には小さなピンク色の鼻。だが、不思議と怖さは感じない。

「ニャァ(どうしたの?)」

 大きな耳は俺を見ながら優しく言った。


「あ、目があきましたよ! ほら!」

「おーっ! ピンクちゃん、やっと開いたねぇ……こんにちは。初めましてー」

 どこからともなく大きな音がして、見ると自分の顔の五倍はあろうかという「更に大きな顔」が、ケージの向こうから覗いていた。怖かった。大きな顔は両手で俺を抱き上げた。

「ミャー! ミャー!(やめろ! どうするつもりだ!)」

「おー、ピンクちゃんは元気だねー!」

「やっと元気そうな声を聞けましたね。このまま元気に育ってくれると良いんですけど……」

「ミギャーッ!(痛ってーっ!)」

 腰に激痛が走った。

「あっ……! ご、ごめんね、大丈夫?」

 俺を抱き上げていた大きな顔のその二本足の動物は、俺を下ろした。

「この子、ちゃんと治るんでしょうか……」

「だよね、この子はこのまま生きられるのかな……」

 大きな顔の二本足の動物は心配そうに、俺を見つめた。

 俺はそのままうずくまり、痛みに耐えていた。大きな耳が俺を舐めてくれていた。


 その後、その生活の中で、どうやらこの大きな耳が俺の母親で、俺と同じ大きさの体の奴らは俺の兄弟なんだと分かってきた。ただ、あの大きな顔の二本足で歩く動物がよくわからないのだが、どうやら母親にご飯をくれる動物らしかった。そしてその後、二本足の動物が俺たちに新しいご飯をくれるようになり、俺達と母親は同じご飯を食べるようになった。


「じゃ、君たちはこっちねー」

 二本足の動物はそう言いながら、俺達を母親とは別の箱に移動させた。

「よし、デビューだぞー!」

 二本足の動物はそのまま俺達の入った箱を持ち上げて別の部屋へ運ぶと、檻の中へ入れた。その部屋はいろいろなにおいがした。俺たち兄弟に似た、でも別の匂い。それに嗅いだことのない不思議な匂いが複数混ざっていた。俺達は不安になり、体を寄せ合った。

「ありゃ、猫団子になっちゃった」

「まぁ、これはこれで可愛いから良いんじゃない?」

「そうですね」


 暫くすると、二本足の動物が沢山やってきて、俺達を眺めた。


「あ、お母さん、この子! この子かわいい!」

 俺たちを眺めては去っていく二本足の動物の中で、俺を指差し何かを言っている、ひときわ小さな二本足の動物が立っていた。

「どれどれ、どの子?」

 その声を聞きつけて大きな二本足の動物がやってくると、俺達を見下ろした。

「この子、ピンクの首輪の子!」

「おぉ、可愛いわね! んーと……この子は……あ」

「……どうしたの?」

「この子、背骨に障害があるって」

「え、そうなの?」

 大小の二本足の動物は、何やら心配そうな顔をして、俺達の檻の前に張り出された紙を眺めていた。

「すみませーん」

「はい」

「この子、障害があるんですか?」

「あ、ピンク君は腰痛持ちです」

「……こんなに小さいのに」

「ええ。生まれたときからなんです」

「これって治せるものなんですか?」

「先生が言うには、難しいかも知れないけど、運動とリハビリ次第では治るだろうって言ってました。抱っこしてみます?」

「うん!」

 よく見る二本足の動物は俺を抱き上げ、小さな二本足の動物の手に乗せた。

 なんだこれ……すごく落ち着く……。

「ちっちゃーい」

「ニャァ(お前もちっちゃいだろ)」

「あ、私にご挨拶した!」

「可愛いわねぇ……」

「なんだか相性も良さそうですね」

「ええ、でも……」

「……お母さん、この子じゃダメなの?」

 小さい二本足の動物は、一緒に来ていた大きい二本足の動物を見た。

「ねぇ、お嬢ちゃん。こっちのアオちゃんじゃダメなの?」

 よく見る二本足の動物は、俺の兄弟を指差した。

「ううん……この子がいい……」

「……ねぇ、かえで。あなたはちゃんと、ピンク君の病気を直してあげる、育ててあげるだけの覚悟があるの?」

「覚悟……?」

「そう、この子は体に悪いところがある。病気を持ってるの。それは他の子達と比べてお金もかかるし、楽じゃないって意味なのよ。あなたにはそれを乗り越えて、この子を幸せにしてあげるだけの、覚悟があるのかしら?」

「…………お金、かかるの?」

「あ、ごめん! そういう意味で言ったんじゃないの! お金のことは心配しなくていいわ。あなたには、ピンク君をちゃんと幸せにしてあげる、それだけの決意、覚悟がある?」

「……うん」

「本当に?」

「うん……なんかこの子、置いていけない……」

 楓は俺をギュッと抱きしめた。

「ニギャッ(痛い)」

「あ! ごめん、大丈夫!? ね、これ、どうしたら……」

 楓は両手で俺を手のひらに乗せたままどうしたら良いかわからず、その場でタンタンと足踏みをすると、良く見る二本足の動物を見た。

「もう痛がってないから、大丈夫だよ」

「本当に?」

「うん。そのまま抱っこしてて大丈夫。やさしくね」

「うん、良かった……」

 楓は俺を優しく胸にあてた。俺は目を閉じた。何故か安心できる暖かさだった。

「……うん。この子にしましょう」

「え、いいの!?」

「ええ。その代わり、あなたがちゃんと最後まで面倒を見てあげるのよ?」

「うん!」


 その後数日が過ぎ、俺だけが小さなかごに入れられると、母親や兄弟たちと別れ、そのままゆらゆらと揺れる地面の中で一時間ほど揺られ続けた。やがて揺れが収まり、よく見る二本足の動物は、俺が入ったかごを持ち上げ、外に連れ出した。


「来た! 小鉄こてつ!」

 楓が玄関を開け、勢い良く飛び出すと、俺の入ったかごをぶんどり、中の俺を覗いた。

「ニャニャッ!(ちょ、揺らすな!)」

「あはは、喜んでるー! おかーさーん、小鉄来たよー!」

 俺はそのまま楓に抱えられ、家の中に入った。


 家の中には大きなケージが用意されていた。よく見る二本足の動物は俺をかごから出すと、そのケージの中に入れた。俺は嗅いだことがない匂いの見知らぬ場所に置かれ、ケージの隅で丸くなった。


「まだ怖いみたいだから、暫くはこのままにしておいてあげてね」

「うん」


 暫くすると落ち着いてきた。俺は匂いを確かめながら辺りを見渡した。

「あ、少し落ち着いたみたいだね。じゃ、これはどうかなー?」

 あ、あれは! ちょーる!?

「お、食欲出てきたかなー。じゃ、これ、あげてみて。ゆっくりね」

「うん」

 楓はちょーるを受け取ると、ケージの扉をゆっくりと開き、その中の俺の顔の前にちょーるを差し出した。俺は目の前のちょーるの匂いをかぎ、一口舐めた。

 うぅぅぅぅぅぅまいっ!

 一口舐めたら止まらない。俺まっしぐら!

「食べてる食べてる!」

「うん、大丈夫そうだね。じゃ、片桐かたぎりさん。私はこれで失礼しますけど、私に構わないでください。この子に気づかれないように帰りますので」

「わかりました。ありがとうございました」

「じゃ、大切にしてあげてね」

「うん!」


 その後、俺が母親や兄弟のところへ戻ることはなく。どうやらこの家に住み続けることになったらしい……とさとった。


 この家で生活を続ける中、何度も何度も「小鉄こてつ」という音が聞こえた。どうやらそれが俺の名前らしい。俺はいつの間にか「片桐かたぎり小鉄こてつ」という名前で、この家の一人として迎え入れられていた。

 そして俺は、特に楓と一緒に過ごすことが多くなった。家には楓と母親、美月みつきというらしいのだが、この二人だけが居た。楓と美月は日が昇って暫くすると起きてきて、一緒に食事をすると居なくなる。その後暫くして楓が先に帰って来ると、俺と一緒に遊んだり、俺の体をグニグニと動かしたりしていた。

 これがまた、結構辛い……。

「ウニャニャニャ!(いだだだだ!)」

「小鉄、我慢して! ちゃんと伸ばさないと、良くならないよ!」

 楓は俺の両手を左手で、両足を右手で持つと、床の上でうーんと背伸びをさせていた。楓はそのまま俺を持ち上げると膝の上に乗せ、俺を少しだけエビ反りにさせるとそのまま左右にゴロゴロと俺の体を伸ばし続ける。

「ウニャニャニャ! ニャー!(いだだだだ! 痛いぞ楓!)」

「ほら、お願いだから我慢して……」

 楓のその優しい声にほだされ、俺はそのまま我慢をし続けた……。

 これ、痛いから、良い子は決して真似しないように!


 そんな生活を続けて、月日は流れ。

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