初夜編 深い眠りから覚めたなら27
目が覚めると、見知った天井が広がっていた。モコモコとつま先から包まれるような心地の良い温かさを感じる。瞬きをするだけで、後頭部から意識が吸い込まれそうだ。
ここは、リーゼロッテの寝室。真っ昼間だというのに、彼女は、ベッドの中にいた。
「な……ぜ?」
リーゼロッテは弱弱しく言葉を漏らす。呆然と。いや、愕然とした顔つきである。青白い顔を更に青くさせ、周囲を見渡す。窓から差し込む日の光。燦々と降り注ぐ光が頬に触れるだけで、ジクジクと罪悪感が生まれる。
(わ、私は真っ昼間から何をしているの)
昼間。トリトン村で働ける年齢の者は、病人以外全員働いている。人々が、汗水流して働いている中、聖女は、ベッドの中でヌクヌクと身体を横たわらせている。まるで、堕落した生活の象徴だ。
「人を欺き掠め取った金で生活している売女」
この言葉は、行きつけであった商店の主人から投げつけられた言葉である。
(うそつき聖女が昼間から寝ている姿を見たら、村の人たちから、またどんなことを言われるのだろう)
トリトン村を歩けば、無視か罵声が浴びせられる。リーゼロッテは、間違った情報を元に罵声を浴びせている人には言葉を尽くし、説明した。けれども、結局のところは「売女の言葉」として、切り伏せられていく。
切り刻まれていく胸の痛みに奥歯を噛み締め、失われた信頼を取り戻すべく、彼女は講話会と村の美化を中心とした奉仕活動に力を入れた。
無論、売女の奉仕活動など、誰の心にも響かず、感謝の言葉が投げかけられることはない。それどころか、汚水のようなおどろおどろしい言葉ばかりを浴びせられる。
人に石を投げられようが、罵声を浴びせられ、脅迫されようが、彼女の奉仕活動を辞める事をしなかった。
(辞めれば、また私の信頼が失われていく)
しかし、一方で彼女の身体は不調に喘いでいた。
自然と眉間に皺を寄せるほど、ズンズンとした腰部の内側から肉を削ぐ痛み。痛みは、寄せては引く波ように繰り返す。それだけではない。思考をボーッと鈍らせる帯熱感を覚える微熱。視界のピントが合わず、物を取りこぼすこともしばしばあった。
「うぅっ」
痛みは、身体を休めれば引くのだが、今日のように痛みが続くのは初めてである。
(お願い。痛みよ、引いて。私は行かなくちゃ行けないの。今日は講話会の日。私の話を待っている人がいるのだ。だから、お願い)
彼女は、喉を震わせ声を漏らす。2度3度と痛みに混じり漏れる。そして、4度目。ドアの蝶番が軋む音と一緒に声が漏れた。
「リーゼロッテさん」
バタンとドアが閉まる音と共に、若い男の声がした。声を聞くだけで、身体の中に溜まっていた痛みがスーッと引いていく。彼女は、一縷の期待を込め、声のする方向を振り向く。
そこにいたのは、両手でボウルを持ち、右手の肘に黒いカバンを提げたエイドがいた。
「気がついたのですね」
痛みがぶりかえす。リーゼロッテの落胆の表情に、彼は気づいただろうか。エイドは、2,3の言葉をかけながら、ベットサイドのテーブルに水の入ったボウルを置く。中に入っているタオルを片手で掬い上げ、反対の手で足元にバッグを置く。両手でタオルをねじり水分を出す。ボウルの中では、水が弾け、跳びはね、とても騒がしかった。
「冷たいですよ」
エイドは優しい声色と共に、リーゼロッテの額にタオルを置く。額から後頭部にかけ、ピシャッとした冷たさが走る。そして、暫くすると、タオルの冷たさにほっとするのであった。
「エイドさん……」
聖女はかすれた声で医者に声をかける。
「何故、貴方がここに?」
「貴女が倒れたから、治療に来たのですよ」
エイドは澱みなく答える。
聖女は、片手でタオルを押さえ、顔を動かし、エイドを見つめる。不審、猜疑、疑念。彼女は疑いの目をもって男を見る。これは、半ば八つ当たりでもあった。自由の利かない己の身体に対する不満と、初めて家を訪れた異性がエイドであった事に対する不服である。下唇を噛み締め、半ば恨めしそうに、無言の圧をかける。
「リーゼロッテさん」
彼女の感情に、彼はどこまで気づいているだろう。エイドの表情はまるで変わらない。ように見えた。
「誓っても良いですよ。私の医者の倫理の下、私は貴女に治療行為以外の何もしていません」
エイドは一拍の間を置き、さらに言葉を続ける。
「大いなる意思にも誓いましょう。では、貴女は、聖職者として、大いなる意思の御心に沿い、私を試してみますか?」
「――っ!」
リーゼロッテの顔が一気に赤く染まる。エイドの意趣返しだ。聖剣書の一説にこのような言葉がある。「大いなる意思の名を語り、人を試すべからず」
彼は、両手をあげ、無防備・無抵抗をアピールする。だが、彼の表情、仕草は聖女の負い目にズブズブと矢を立てている。彼は、笑っているも、瞳の奥には、優しさも配慮もない。冷徹な光が見え隠れしていた。
「申し訳ありません。何かと勘違いしていました」
抑揚のないリーゼロッテの謝罪に、エイドは鷹揚と首を縦に振った。
「ところで、リーゼロッテさん。貴女はどこまで覚えていますか?」
エイドの問いに、彼女は口を噤む。どこまで覚えているか。それは、気象氏、現在までの事を覚えているのか。という意味であろう。リーゼロッテは首を横に振る。残念ながら、彼女には、起床以降の記憶がない。朝起きて、何をして、今に至るのか。記憶と言う紙は虫食い穴が無数に空いている。そして、一つの大きな丸をつくりおぼろげな記憶すら残していない。
「今日は、御堂で講話会をする日でしたね」
エイドは確かめるように、リーゼロッテに言う。本日が講話会の日であることは、認識している。その点については、首肯した。
「貴女は聖剣書を朗読していました。その最中、絨毯の皺に足を取られ、倒れたそうです」
リーゼロッテは、御堂に敷かれている赤い絨毯を思い返す。あの色と素材はジェフが薦めたものだ。皺ができやすいのは難点であるが、御堂内部を華やかにする。と説明したので、設置したのだ。
「起き上がらないので、様子を見たところ、熱はあるわ。目もあけないわ。みなさん、非常に驚かれたそうです。ある人は、そのような貴女を見て、慌てて私のところまでやってきたのですよ」
「その人はどなたですか?」
リーゼロッテは状態を上げ、食いつくようにエイドに質問する。タオルがパサリと床に落ちた。
「シュンケさんの家にいるおばあさんですよ。年齢を重ねていますが、まぁ凄かったです。あの身体からどのような力が? と言いたくなるぐらいに。私の手を引いてここまで連れてこられました。到着した時には、貴女は椅子に横たわっていましたよ。幸い、外傷はないので、問題はない。という事で皆さんと一緒にご自宅にお運びしました」
「シュンケさん……」
リーゼロッテの脳裏に、老婆の姿が思い返される。日々、彼女の家に野菜を持ってくる老婆だ。
ジェフの一件後、講話会に参加しているが、以前のように残って彼女と話をすることもなくなり、野菜を持ってくることもなくなった。他の参加者と同じよう、老婆も自分から離れてしまったと思い、心苦しい日々であった。しかし、聖女の異変に慌てふためき、離れたエイドの診療所まで駆けつけた。という事実が、聖女に光を与える。悪評立つ自分の為に、老体に鞭打ち、助けてくれた。そのような老婆の行動に彼女の目頭はジィンと熱くなってくる。グググと喉を絞めあげるような痺れ。迸る感情がせり上がる。感情を零さぬよう、彼女は必死に下唇を噛み締めた。
エイドは、クシャクシャに歪むリーゼロッテの表情を見つめ、言葉を投げる。
「リーゼロッテさん。辛かったでしょう」
その言葉は、予想しなかった言葉である。そして、エイドからそのような言葉を耳にするとは思ってもいなかった。
エイドは、コンラッドの右腕というべき存在だ。村を捨てようとした村人聖女に対し、他の村人と同様、冷ややかな視線を送っても何らおかしくはない。ジェフの一件を問いただすべく詰問する事すら出来る。
だが、彼は、冷たい彼女の心に熱い労わりの言葉を注ぎ込んだ。ピシッと心にはヒビが入り、隙間からは水が溶け出した。
「貴女は、今まで自分が悪いと思いこんでいたのでしょう?」
リーゼロッテは首を激しく横に振る。
「自分が我慢すれば。もう一度、やり直せば、村の人たちに理解してもらえる。信頼してもらえる。と思っていたのでしょう?」
「そうですよ。失ったものは取り返さなければならない。この村の人は、私は村の人たちを騙したって思っている。だから。私が我慢してやりなおせば――」
「リーゼロッテさん」
エイドはリーゼロッテの手を握る。水にふれ、冷たく凍えるような指先。清潔感ある白いシャツからは花の香りがした。ジェフからは感じたことのない心地を覚える。
「貴女は、この村の人たちに対して、聖剣書の言葉を嘘ついて教えましたか?」
彼女はもう一度激しく首を横に振った。聖剣書の言葉は、彼女の知識量の下、可能な限り正確に伝えている。目を赤く染め、睨むようにエイドを見つめる様。エイドは安心したように顎を引いた。
「なら良いと思います。聖女は、大いなる意思と聖剣書の言葉を伝えるのが、役目。それを果たしているのならば、貴女は嘘をついていません。騙してもいません。あなたは、貴女の役目を誠実に果たしている。そうであるならば、私たちは貴女をサポートしますよ」
エイドはリーゼロッテの手を再び力強く握り返す。細い身体からは予想だにしない程、強い力だった。
「あなたのことは、私やコンラッド様の耳に届いています。真偽は分かりません。ですが、大いなる意思の声を聞いてこの村に来てくれた。これだけでも、十分感謝しています」
エイドの言葉に、再び心が締め付けられる。彼女は聖女になった日、聖女バルバラにトリトン村に行きたい。と言った日の出来事を思い返す。エイドの言うとおり、彼女は声を聞いたからこの村にやってきたのだ。聖剣書を知らぬ者。大いなる意思の御心を知らぬ者に光を当てるためである。だが、彼女は道を踏み誤った。
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