初夜編 深い眠りから覚めたなら26

 ジェフの一件後、村は平穏だった。村の中を歩いても、皆笑顔で「リーゼロッテ様」と声をかける。

 その週の講話会も平和だった。普段と変わらず、多くの者が参加し、彼女に悩み事を持ちかける。そして、感謝の気持ちを形にする。何も変わらない、よく見知った日常の一風景であった。ただし、以前と異なる点が1つある。それは、毎回出席していたジェフが姿を見せなきことであった。

大きな変化を見せず、1週間が過ぎる。

 小さな変化も感じずに1ヶ月が過ぎた。

 気を抜いてはならない。と己に言い聞かせるも、何事もなく3ヶ月の時が過ぎた。季節は乾期から雨期へ回っていく。リーゼロッテも衣を変え、講話の内容も変えようと机に向かい考えていた。以前は「誠実さ」を前面に出していた。しかし、「誠実」という言葉は、抽象的過ぎて、解釈に幅を持たせてしまう。聞き手に不要な混乱を与える恐れがあるからだ。また、講話内容変更にはもう一つ理由がある。ジェフの一件だ。『誠実』という言葉を口にする度、カタルカの言葉、ジェフの表情が閃光のように思い返される。覚えておかなければならない傷なのだが、どういうことだろう。彼女の身体は拒絶反応を見せている。原因不明の微熱に、長期間続いている不性器出血。こうやって、机に向かっていても、身体からぼぉっとする熱と、じゅっくりと湿り気を帯びる股間に意識が引っ張られていく。


(ジェフ……)


 リーゼロッテは、読んでいた聖剣書から目を離し、窓を見た。どんよりとした曇り空。そこに映る骸骨のように痩せこけた自分の顔。実年齢に10歳足した風貌をしている。彼女は、窓から目を背け、もう一度、聖剣書に目を落とす。

 野菜収納箱からツンと突き刺すような腐臭。つなぎ始めていた集中力がブツリ ブツリと途切れていく。彼女の思考にジェフの影がいやらしく蠢く。聖剣書の内容がジェフに塗りつぶされていき、甘いひと時からあの時の出来事に色を変えていく。


(本当に。本当に違うの)


 自然と息が荒くなる。ゼェゼェと息をするだけで、顔色は赤やら青に変化する。


(だって。ジェフは言ったの。私の事が好きって。約束したの。一緒になろうって)


 堪えず、彼女は机の上に頭を置く。


(息苦しい)


 彼女はそう思った。仮に、駆け落ちに成功し、二人で成功していれば、ジェフは彼女を支えただろう。無論、彼女も彼を支えただろう。だが、今の彼女を支える人間は誰もいない。


(好き。私も本当に好きなのよ。ジェフ)


 朦朧とする意識の中、彼女は靄の中から手を差し伸べる男の姿を見た。


(ジェフ……)


 誰と呼びかけることはしない。ただ、その男はジェフであると、彼女は勝手に思いこむのだ。



 そして4ヶ月の時が過ぎた。ジェフや夜警の男達が蒔いた毒はきちんと村人の心に根を張り、生長の早いものでは、見事な大輪の花を咲かせていた。

聖女リーゼロッテは、ジェフに誘われて駆け落ちしようとした。という事実は、いつの間にか、大工のジェフは聖女に誘惑され、一緒に村を出ようとした。その逃走資金は、村人の寄付金である。という風に変化していた。そして、いつの間にか、この話は事実であると村全体に広がっていく。

「まさかぁ」

 と口にしていた村人達であったが、リーゼロッテの講話会にジェフが姿を見せない点。どこか気だるげで不機嫌そうな彼女の姿を見て、その噂は真実ではないかと信じるようになった。それに伴い、村人の対応に変化が出てくる。

 まず、リーゼロッテに積極的に声をかけるものはいなくなった。足しげくリーゼロッテの家に通っていた老婆の姿もとんと見かけることはない。

 そして、講話会の参加者に質と変化が見られるようになった。

 これは、ある週の講話会の出来事である。


「大いなる意志は言いました。義務においては、篤信であれ。まじめでありなさい。敬剣の心を決して忘れてはならない」


リーゼロッテは、聖剣書の言葉を口にする。シーンと静かな御堂。リーゼロッテの声はよく響く。「まじめでありなさい」その一言に、参列者の1人がこう漏らした。


「詐欺師め」


声はリーゼロッテ以上に良く響いた。一石を投じるように放たれた声につられ、

他の参列者はクスクスと鼻で笑いだした。


「静粛に」


 彼女は、厳しい口調で咎めるも、不穏な空気は続いている。仕切りなおしをするように、また聖剣書のを朗読する。


「大いなる意志は、人や仕事を真面目に行いなさい。と言っています。まず最初に、あなた自身が真面目でありなさい。真面目であり、なおかつその事を他の人にも教えてあげなさい。そうする事で、あなたがなすべき事はわかるはずです。とおっしゃられているのです」

「じゃぁ、あんたは真面目なんかい?」


今度は別の方向から声がした。リーゼロッテは、慌てて声の方向を見る。参加者は皆、肩を震わせクツクツと笑いを殺している。チラチラで頭を上げては聖女の表情を伺い、噴出すように笑い出す。リーゼロッテはムキになり、笑っている者を咎めるも、また噴出すように誰かが笑う。

 誰かを咎めれば、誰かが笑う。下品ないたちごっこに、彼女は閉口する。震える手で聖剣書を読み解く。だが、頭に流れ込むのはのっぺらぼうのような情景ばかり。

 引きつった顔で、口を解く。だが、薄っぺらい内容は誰の耳にも心にも響くことはない。

 講話会が終わると、ソソクサと出る人。陰湿な笑い声を残す者と様々いた。これが、今回の講話の成果である。参加者の変化は、ジェフの一件が原因であることはすぐに見当がつく。

 だだっ広い御堂の中、彼女は呆然と立ち尽くす。僅かな時間であっても、とても長く感じた。差し込む西日が頬に触れる。人肌を思いこさせる柔らかな温かさ。ジェフの分厚い大きな手を思い返した。


(ダメよ。ココで思い返したら)


 頬に触れたくなる衝動を殺し、名残を振り払うように壇上から降りる。前屈みになり、机と椅子の間に、忘れ物がないかと確認する。

 御堂の中程から後方にかかった頃だ。椅子の上にクシャクシャと丸められた紙が置かれている。


(なんだろう)


紙を手に取り、何気なく開いてみた。


「――っ」

 

 中に入っていたのは太い縮毛と黄色味がかった液体。


 反射的に、紙を投げ捨てる。ハッハッと短い呼吸を漏らすと、ゲラゲラと御堂の入り口から笑い声が響き渡った。


「聖女さまー。それを見て感動してくださーい。誠実に対応してくださーい」


扉から顔を見せたのは、若い男達である。彼女は、自分の身体を抱き寄せ、ヘナヘナとその場に座り込む。彼らは御堂には入らず、入り口から矢継ぎ早に言葉を投げつける。男達の声は御堂の中に響き渡る。荘厳で、この村で最も清らかであるべき場所は、卑語で塗りつぶされる。一方的に投げつけられる言葉の石。聖女は、彼等の声を己への罰として受け入れる。彼女は歯を食いしばり、必死に堪え続けた。


「リーゼロッテさ……。うわっ! ロバが来た!」

「逃げろ。喰われるぞ」

「赤目だあああああ。赤目のばけもんじゃああああああああああ」


バタバタと足音は騒がしく御堂入り口から遠ざかる。男達と変わるようにアヌイは馬のような足音を響かせた。グルグルと御堂近くを逃げる惑う男達を、ロバはキチンと誘導し、自分の大きな落し物を踏ませるというご褒美を与えてやった。


「くっせえええええええええええ」


 間抜けな男達の叫び声が響く。ロバは勝ち誇ったように鼻息を鳴らす。

 ロバは勝利の足音を響かせ、御堂の入り口に戻った。開け放たれた扉に近づき、「ンエー」と鳴いた。だが、リーゼロッテは返事をしない。体が小刻みに震えている。

 村人に、大いなる意思の言葉を伝える講話会は、聖女に罵声を浴びせる公開処刑の場になってしまった。苦しむ聖女の姿を見て、参列者は嘲笑し、聖女を指差してコケにする。彼女が作りたかったものは、再生不可能なほどボロボロに壊されてしまった。

 夕日の尾が御堂内に影を作る。椅子も机も、背の高いイキモノの影に似ている。勿論、聖女の影も伸びている。しかしながら、伸びた影は、人間の影というより、毛の長い異様なイキモノに見えるのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る