深い眠りから覚めたなら24

 ガタガタと奥歯がかみ合わない。足は太ももの付け根からガクガクと生まれたての小鹿のように震え上がっている。寒いから震えているのか。そうであるならば、何故彼女の額からは珠のような汗がダラダラと零れ落ちるのだろう。

 唇を噛み締め、リーゼロッテは自分を取り囲む男達を怯えるように見つめていた。


「聖女さぁん。そげな顔せんじょって。俺達、すげぇ悲しいっちゃけん」

「そうばい。俺達は心配しちょるんちゃけんなぁ。こんな夜遅くに出歩いちょったら、こわぁいバケモンに出会うかも……。うわっ! でたぁ!」


 6人の男達。その中の最年長はカタルカである。彼はバケモノとう言葉と一緒に、彼女の近くにいるアヌイを指差す。闇夜でもうっすらと浮かぶアヌイに他の男達は視線を集め、暫くして再びゲラゲラと笑い出した。


「カタルカさん、冗談きちー。こげな小さなバケモノのどこが。うひぉ! オルオル。怖か怖かぁ」


 カタルカは荒々しく背中を叩かれると、ヒヒッとつられて笑う。薄汚いロバに誰が恐怖するだろうか。愚鈍の象徴。人間に使役されるだけウスノロ。ガンコで融通も利かず、馬に劣後し、大した仕事も望めない。昼間はだらしなく舌を出し、夜になればアホヅラで惰眠を貪る。人々は、ロバを家畜とみても、愛玩動物、怪物などと見ることはない。

 普段耳にすることのないに、アヌイは身を低くして、男達を睨む。舌の変わりに白い歯をむき出しにし、うなり声を上げ始めた。

 グルルと腹の底から絞るような声に、皆、アヌイの怒気に気づく。アヌイの怒気は伝染病だ。ある者は、笑顔は苦悶の表情へ変わる。ある者は困惑へ。そして、飼い主は絶望から仄かな期待を持った。そのような中、まともに、アヌイの怒気に罹患したものがいる。10代と思しき青年だ。


「なんなん?」


 怒気に操られるように、彼は、人を掻き分ける。そして、行く手を阻むようにして立つリーゼロッテを力いっぱい押しのけた。小さな悲鳴に目もくれず、彼は腰を落とし、アヌイの目の高さにかがり火を近づける。火が迫っても、アヌイは怖がる素振りは一切見せなかった。むしろ目の前にいる男は、飼い主に乱暴を働いた男である。その手を食いかからんばかりの勢いで、顔をゆがめながらにじり寄っていた。


「なんなん? こいつ。目はえれぇ紅いし、気色悪かぁ」


 それだけを言うと、男は立ち上がり、アヌイの横っ腹に蹴り上げた。アヌイは「ギャン」と甲高い鳴き声を上げ、2、3歩よろめく。だが、今度は反撃といわんばかりに男に体当たりし、転がる身体にのしかかった。


「ち……。くしょう!」


 男は持っていた剣の柄でアヌイの鼻や頭を殴打する。最初の数発は耐え切れたが、徐々に篭っていく力に、アヌイは負けた。後ろ足に力は入らず、腰を落とすような形でよろける。そのような隙を見逃すわけはない。若者は、アヌイの股間目掛けて、蹴りを入れた。

 臓腑が持ち上げられる感触に、アヌイは、今までとは違う鳴き声を上げる。転がるように、地面に倒れこみ、オキーオキーと泣き叫ぶ。前脚に力を入れ、立ち上がろうとするも、よろける。だが、アヌイはまた立ち上がろうと試みる。鳴き声を上げ、緋色の目が男を睨む。トリトン村では経験したことの無い、野獣の眼光に、若者は、ゾクッと魂をなでられる感覚があった。


「なんなんこいつ。まだヤる気か?」


 若者は立ち上がり、鞘を抜き取る。カランカランと乾いた音がアヌイの耳に届く頃、切っ先はすでに向けられていた。かがり火の光に照らされた薄ら寒い赤色の剣。血を啜るような色に、リーゼロッテは、アヌイの血が剣に吸い込まれていく様を連想した。


「ごめんなさい」


 リーゼロッテは慌てて若者とアヌイの間に入り、両手を広げた。


「私の躾が足りませんでした。貴方に不快な思いをさせてしまい、本当に。本当に申し訳ありません」


 両手を広げ、必死に間を取り持とうとするが、彼女の足は未だに震えている。アヌイへの暴力を目の前にし、彼女の心は怯えきっている。聖女を怯えさせた。聖女に謝罪の言葉を言わせた罪悪感が、年齢を重ねた男達に広がっていく。若者以外の男達は、互いの顔を見合わせる。若者の行動をこのまま放置すれば、どのような結果が訪れるかなど、かがり火よりも明らかな事だろう。

 そして、その果てに待つのは、リーゼロッテと男達という構図ではなく、もっと複雑で手痛い未来が控えていることは間違いない。

 そう思うや否や、男達の行動は早かった。


「動物相手ばい。何しちょるん」

「剣をしまえや。聖女様の前やろ」

「相手さんも謝っちょる。人の下げた頭を踏むような事をしたらイカンっち母ちゃんから言われちょるやろ」


 カタルカ達は、リーゼロッテとアヌイから若者を引き離す。それでも、アヌイにかかろうとする若者。忌々しそうに口汚い言葉をアヌイとリーゼロッテに浴びせる。収まりの効かない彼に、目を瞑るような鈍い音がふりかかるのは致し方のない事だろう。

 リーゼロッテは、顔を背けず、カタルカに視線を向けていた。

 彼女は、彼を知っている。彼の妻は、御堂の講話会に足しげく通っている参列者の一人だ。彼の妻から、カタルカについて話は聞いている。故に、彼女は彼ならば、この中でジェフの次に話が出来ると思った。


「カ、カタルカさん」

「お、おぅ」


 聖女から名前で呼ばれたことに、一瞬カタルカは驚いた。


「私は、用事があってここにきました。貴方達はどうして、こんな夜遅くに集まったのですか?」


 リーゼロッテの問いに、一拍の間を置き、カタルカは答えた。


「どうしてっち、俺らは、今日の夜警の担当やから。としか言いようがないなぁ」


 リーゼロッテの喉がヒュゥと鳴る。返す言葉が見つからなかった。そして、彼女は、確かめるように、ジェフの身なりと男達の身なりを確認する。

 カタルカ達は、世闇にまぎれるような暗色の軽鎧に身を包んでいる。そして、不審者に対応できるよう、腰にはサーベルを帯刀していた。いかにも、夜警担当といった姿だ。

 一方、ジェフの姿は、夜警担当とは思えないものである。

 どちらが、夜警担当で、そうでないかなど、はっきりしている。そして、彼女の気持ちを代弁するように、男から声がかかる。


「言っちょきますが、コイツジェフは違うきんね」


 リーゼロッテの米神から、タラリとつめたいものが落ちた。バクバクと心臓の音が耳元で聞こえている。自分が抱いていた疑問は解決された。回答は、彼女の気持ちを穏やかにさせるのではなく、痛々しい致命傷となって返って来る。答えはあるのに、彼女の頭は次なる「何故」が繰り返される。張本人に問いただせばいいのに、彼女は、ジェフの顔を見ることが出来ない。彼の顔を見てしまえば、すべてが終わってしまうからだ。だから、彼女は、夜警の男達を見つめることしか出来ない。

 呆然とする女に、男達の表情が一変する。ニィと赤い三日月が露になった。


「それにしても、聖女様。用事って、ジェフに抱きつくことなん? 足を絡めて、いやに大胆やったねぇ。ここいらの女は男に抱きつくなんて事はせんけん。すげぇ、心臓がドキドキしたとばい」

「そうばい。本当はじーっくりと聖女様をやりたかったけどな。俺達は夜警やきんなぁ。男が襲われているを呆然と見ていることは出来んのよ。せやけんが、今さっきの事は、コンラッド様にも伝えんといかん。悪く思わないでな」


 男達はかわるがわる、彼女に息を吹きかけるように声をかける。彼女は嫌がるように、手を払うも、彼らは彼女の仕草をニヤニヤと笑いを浮かべてかわしていく。彼女の頭はグチャグチャになっていた。ジェフに抱きついていた現場を見られていた。羞恥心がカァッと駆け巡る。沸騰する血液が、彼女を覆い尽くす。この場から逃げ出したくなる衝動。逃げるにしても、どこへ逃げればよいのだろう。そもそも、彼女は、ジェフとこの村を逃げ出すつもりで来たのだ。だが、逃げ出せずに、表門で佇んでいる。


「聖女さん、あんたみたいに破廉恥な人、見たことないわ」

「お、大いなる意思はあのような行為は破廉恥だとは捉えていませんよ」


 震える聖女の声に説得力はない。男達は、噴出すようにゲラゲラともう一度笑った。


「知らんって。そげなもん、わからんし信じちょらん。俺のカミさんは、そげなもんに嵌ってなぁ。俺に説教してくる。本当に迷惑してるんばい」


 カタルカの一言は、彼女の心にグサリと突き刺さる。目を輝かせ、主人の事を相談し、大いなる意思の言葉に耳を傾ける妻と対照的な夫。大いなる意思のすばらしさを語れば語るほどに、響く者と嫌悪する者が現われる。頭では理解していた。そして、嫌悪するものは往々にして目の前には現われないと彼女は考えていた。確固たる信仰心を有していると思っていたが、そう言うわけではない。信仰心をブスリと刺されると、とても痛い。彼女は、穿つような痛みに「不敬ですよ」と返すのが精一杯だった。


「なぁ、聖女さん」

「……」

「あんた、そげな大きな荷物を持ってどこに行くつもりやったん?」


 カタルカに問いに、他の男達はブーブーと不平を漏らす。彼女は、顔を落とし、何も返さなかった。


「この村、出るつもりやったんやろう」


 もう一度、男達から不平が漏れる。地面を向いたままの彼女の顔は強張っている。「はい」とはいえない。「はい」と言えば、彼らは、彼女を脱走者として身柄を拘束するだろう。「いいえ」と答えれば、アヌイの背にある荷物を問われる。中身を答えれば、必然的に答えが分かる。だから、どちらとも答えようがないのだ。

 ただ、小刻みに震える身体は、カタルカに答えを示している。


「なぁ、聖女さん」


 沈黙する女に、カタルカは重ねるように言った。


「あんた、ジェフに何を思い、コイツと何をしようとしたん?」


 不平の声は上がらなかった。リーゼロッテの心臓がキィと悲鳴を上げる。彼女は、小さく、愛するものの名前を呼ぶ。彼の名前を囁くだけで、少しばかりの勇気が生まれた。

 彼に何を思ったのか。そのような事は決まっている。彼は、彼女に愛を囁いた。その事実だけで、彼女はここまで動けた。村を抜け出すことは失敗しても、彼と一緒になる未来までは失敗したわけではない。彼女は、カタルカを正面に見据え、はっきりと答えた。


「私は、ジェフの事が好きです。愛しています。初めてお会いした時から、私は、彼の事が頭から離れません。聖女リーゼロッテではなく、一人の女のして、私は、彼に惹かれました。ずっとずっと。彼の言葉に支えられて、彼と共に今日と言う日を迎えられた。ただ、それだけなんです」


 リーゼロッテの声はどこまでも澄んでいた。堂々と胸を張り、自分の気持ちを曝け出す。カタルカをはじめ、夜警の男たちは、リーゼロッテの感情の発露に虚を付かれる。ジェフの事を冷やかし、顔を青白くさせなよなよとしていた女が、突如として自分の事を滔々と語りだす。まっすぐな酷薄に、男達は互いの顔を見合わせ、「はぁ」と返事を返す。

 一方、質問者カタルカは違った。眉間にシワをよせ「うーん」と唸る。眉間に集まった肉を指でつまみながら、呆れるように言った。


「それは、ちょっといただけない答えばい」

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