初夜編 深い眠りから覚めたなら23

 寒空の下、リーゼロッテとロバは走る。真夜中の逃避行。「深夜に女性が出歩くのは良くない」と聖女バルバラ達に言われ続けていた。だが、本日、その約束を破る。掟を破った罪悪感よりも、「悪いことをした」という背徳感が勝る。何か面白そうな事が起こると予感させるワクワクとした浮足立つ思い。

 彼女の道を示すかのように、白い吐息が道しるべとなる。そして、リーゼロッテは、自分の吐息が濃い白色から薄い白色に変色していることに気づいた。


(もしも、この息が白くなくなったならば……)


 ふと、そのようなことを彼女は思った。吐息の白は、聖女に求められる清純の色。そして、今の彼女にとっては清純の白は重石だ。だが、その重石から解放される。白い吐息が見れなくなった時、きっとその時はここではない、どこかへと、ジェフと二人でたどり着いた時であろう。そのような未来を描くだけで、自然と笑みが溢れる。

 リーゼロッテの家から待ち合わせ場所まで距離はある。どの道も平坦な道ではなく起伏の激しい道ばかりだ。歩くのが面倒くさいと思いがちな道を、ジェフと共に旅立つと思えば、足取りは軽くなり、リーゼロッテは飛ぶようにして駆け抜けた。最後の激しい起伏。村の大通りを抜けた。すると目の前には、篝火が掲げられた高い櫓が見える。そして、櫓の下には小さいながらも人影が見えた。


(あれは、ジェフ?)


 リーゼロッテは足を緩め、物陰に隠れる。周囲の様子を確認すると、再び、足音を殺し、息も潜め、闇に隠れるようにして一歩ずつ人影との距離を近づける。眉毛の上に手で庇を作り目を凝らしながら、濃い人影を見つめた。


(本当にジェフなのかしら)


 人影はジェフにとても良く似ていた。だが、確信が持てない。もしもジェフでなければ。そう考えるだけで、身の毛がよだつほど恐ろしくなった。彼女は、人影を確かめるべく、別の物陰に移動し、再び身を潜めて腰を落とす。

 闇夜の中、目を細めて、人影にじっと視線を送る。ジェフか。違うか。花占いのような状況に誰何したい気持ちに駆られる。だが、理性が働き声が実は実にならない。

 できることは、人影がジェフであるように大いなる意思に願うことだけだ。

 短くも、彼女にとっては長い時間だった。人影は、背中に痛いほど突き刺さる視線に気づいた。ジャリジャリと乾いた土を踏みしめ、人影がリーゼロッテの潜む物陰に近づいていく。土を擦るような音はまるで、自分が”ここにいる”事をアピールするかのようだ。ジャリジャリと近づく足音に習い、心臓がばくん ばくんと音をたてる。

 いつのまに、彼女は胸元で手を組み、口の中で大いなる意思への祈りの言葉を紡いでいた。


「リーゼロッテか」


 人影ジェフの声が響く。リーゼロッテの祈りの言葉がピタッと止まる。ジェフの声がした。彼の声を彼女は耳にした。途端、ばくんばくんとおとを立てていた心臓がドカドカと足音を立ててせり上がってくる。慌てて口に手を当て、心臓を押し戻す。


「リーゼロッテ、どこにいるのかい?」


 再びかかるジェフの声に、今度は頭をかかえた。


(どうしようどうしようどうしようどうしよう。本当にジェフがいた。本当にジェフがいる。どうしようどうしようどうしようどうしよう。ほ、本当にこの格好でいいの? きちんとおしゃれな私になってる? け、化粧はあんなもんでいいよね? だ、大丈夫だよね?)


 彼女の目はぐるぐると渦巻きを巻いている。あーでもない。こーでもない。と独り相撲を何番も繰り返し、一人で勝手に吐き気を催す。ブルンブルンと首を横に振り、目をぎゅーっと瞑る。


「り、リーゼロッテ。いるなら返事が欲しいんだ」


 ジェフの声はいつしか心もとなく、悲しげになっていた。愛する者が自分の名前を呼ぶ。ジェフはどのような顔をしているのだろう。自分と同じように困ったような顔をしているのだろうか。そんな事が頭をよぎった。彼女は、自分の両頬に手を当てる。頬は熱を帯びている。


(『リーゼロッテ』だって)


 口を真一文字に寄せ、頬に当てた手をぎゅーっと口に押し寄せる。ぶにゅっと唇を突き出し、ニヤニヤと一人で笑っていた。

 聖女の荷物を背負わされているロバは「アホか」と心底呆れた顔をして主人を眺めていた。

 リーゼロッテの脳内はピンク色の妄想劇場が開演されている。演目を楽しみたいが、そういうわけにはいかない。彼女は、重い腰を上げてしずしずと物陰らジェフに近づく。

 月明かりの下、二人の顔はよく見える。リーゼロッテは頬を赤くしているが、不服そうな表情でジェフに言った。


「ジェフ、声が大きいです」


 彼女の声は低い。頬を膨らませ、今度は困ったような顔つきで男を見上げた。ジェフは彼女の言葉にとても驚いた様子で口を開く。


「ご――」


 予見されていた言葉なのだろう。咄嗟に出た謝罪の言葉は途切れた。開いた口に、聖女の白い人差し指が当たっている。背伸びをし、まるで、彼の顔をよく見たいと言わんばかりに彼女の顔を近づいていた。青白い肌に不気味な朱。落ち窪み気味の瞳がジェフをはっきりと捉えていた。


「ごめんなさい。は、後で聞いてあげます」


 その一言の後、リーゼロッテの顔がふっと和らいだ。踵を地面にストンと落とす。機嫌良さそうに、彼女とアヌイはジェフの周りを回る。頭のてっぺんから足元まで確認するように彼の姿を見つめている。彼女たちが一周し、もう一度ジェフの前に戻った頃、彼女の表情はわずかに曇っていた。

 彼に対する疑問は、彼の周り一周の距離で十分である彼に対する疑問、それは服装から生まれた。

 彼の服装は普段と変わらない。ちょっとそこまで散歩すると思わせるような姿である。肌寒い乾季だというのに、羽織もの一つ身につけておらず、心なしか膝がガクガクと震えていた。それだけではない。リーゼロッテはアヌイの背に荷物を載せているが、彼は村を出るというのに荷物一つ持っていない。


「ねぇジェフ。貴方その格好でいいの? 寒くないの?」

「寒くないよ。リーゼロッテこそそんなに厚着して。寒がりすぎじゃない?」


 そう答えるも、彼の吐息は白かった。


「いいえ、今夜は冷えるわ。アヌイだって毛を膨らせているもの」


 リーゼロッテは、アヌイを指さして寒さを強調する。会話のダシにされたアヌイは柔らかい体毛を膨らませ、ファーと大きなあくびをしていた。


「あとジェフ。もう一つ質問していいかしら?」

「何?」

「貴方、今日は夜警担当でしょ? 夜警って軽装でいいの?」


 リーゼロッテとジェフが村を発つ日。それは、彼が表門の夜警担当の日である。物見櫓はあるが、櫓に人はいない。表門は一人だけで警備するので人の目が届きにくく、旅立つには丁度よいという理由で決められた。確かに、彼の言う通り、物見櫓には篝火が掲げられているが、人の気配はない。事実、表門にはジェフ一人だけ立っていた。彼の提案に嘘はなかった。だが、彼の出で立ちには、過去に提示した理由以上の穴がある。リーゼロッテは彼の言葉を待つ。だが、彼は口を閉ざしたまま何も言わない。


「怒ってるわけじゃないの。ただ、不思議なだけ」


 彼女は言葉を重ねた。


「ねぇ、ジェフ、夜警って本当に一人でするものなの?」


 リーゼロッテは確かめるように彼の手を取る。寒くないと言いながら、彼の手はとても冷たかった。彼の手が寒さで傷つかぬよう、己の手を重ね合わせ、愛おしそうに撫でた。


「私、聖剣書の事以外何も知らないわ。でも、貴方の事がどうしても気になって――」


 女は、言葉を一度区切り、男に抱きついた。ツンとした汗の匂い。男らしい香りに、彼女の心がキュンと震える。心が甘く噛まれた痛みにリーゼロッテは首をふるふると横に振る。


(痛い)


 彼女はこの痛みを愛だと想った。

 理性が、すぐにでもこの村を出ろ。と訴える。だが、なかなか動けない。背徳感を背負ったまま感じる痛みが彼女の心を惑わせている。夢と希望と背徳感を胸いっぱいに抱きしめ、甘美な一時を過ごす。この甘さを楽しみたい。その一心で、彼女は彼を抱きしめた。


「おやおや。聖女様やん。どげんしたとね」


 突然、背後から男の声が投げかけられた。刹那、彼女の顔が歪む。ざわざわと悪い予感がしたのだ。不穏から逃れるよう、リーゼロッテは、ジェフから離れ、慌てて彼の後ろへ隠れた。


「そげんせんどってぇ。傷つくばい」


 別な男がジェフ越しに声をかける。突如として投げかけられたジェフ以外の男の声。何故。何故。と頭の中で同じことが繰り返される。何故。と脳内が信号を送れば。バクバクと心臓が返す。どうするべきか。どうするべきなのか。と自分に問いただせば、雑音のようにゼーゼーと呼吸が答える。


(落ち着いて。落ち着いて。落ち着いて落ち着いて。大丈夫。私一人じゃない。ジェフがいる。ジェフがいるからだいじょう――)

「ばぁ」


 突然、前から声がした。リーゼロッテは条件反射で目を開けると、そこには人を小馬鹿にしたような男の顔が飛び込んできた。


「きゃああああああああああ」


 女性特有の甲高い声が周囲に響き渡る。

 両手を耳に当て、悲しむような表情。彼女のリアクション、表情共々、合格点だ。男たちはリーゼロッテに動物的な笑顔を見せ、ゲラゲラと腹を抱えて笑いだした。

 男たち。篝火を持った男が6名。彼らの年齢層はバラバラだ。10代と思しき人から40代の人まで。何故彼らが集まったのか彼女は理解できない。知っていることは、誰も御堂に足を運んだことのない者たちばかりである。ということだけであった。

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