初夜編 深い眠りから覚めたなら15

 聖女リーゼロッテは修道院を後にする。聖女バルバラ セシリアはリーゼロッテの姿が見えなくなるまで、彼女を見送った。

 名残惜しい視線がチクチクとリーゼロッテに刺さる。彼女の目尻に、キラリとひかる雨だれがあった。泣く事一つ言わぬ彼女に、ロバは不安げに飼い主を見上げた。


「大丈夫よ。私は大いなる意志の声を聞いた。あの方の声を聞けたから、大丈夫だって」


 リーゼロッテは、優しくロバに話しかける。その口ぶりは、パートナーを励ますようであり、同時に自分を鼓舞する言葉でもあった。


「それに、貴女がいるじゃない」


 リーゼロッテは、自分の荷物を背負っているロバに視線を送った。緋色のロバの瞳。このロバは、リーゼロッテが修道院の門を叩いた日に生まれたロバだ。二人は人とロバという種族の差はあれば、とても気が合い、まるで双子のようでもあった。


「そういえば、私は聖女になって新しい名前を貰ったけど、アナタには名前が無かったわね」


 リーゼロッテの声にロバは鼻を鳴らす。彼女は目尻をぬぐい、歩きながらロバの名前を考え始めた。


「流石に歴代聖女の名前をアナタに与えるのはどうかと思うのよ」


 リーゼロッテは、ロバを見やる。彼女の言葉がわかるのか、ロバは口元を緩め、ふひひと鳴いてみせた。それを、リーゼロッテは同意と捉えた。

 聖女以外の名前。と考えてみるが、彼女は聖剣書の世界にどっぷり浸る生活を送っていた。聖人、聖女、聖剣書の登場人物以外の名前は疎い。修道院近くにする住民の名前。というのも後味が悪かった。

 灰色の毛並みを持ち、緋色の目を持つロバ。それに似合う名前を考えつくのはかなり時間がかかった。


「ま、良いわ。考えればいいだけだし。あなたも好きな名前があったら教えてね」


 ロバは困ったように首を横に振る。ロバなのに。と言いたげな素振りに、リーゼロッテは笑った。


 彼女が聖職者となったのが、大いなる意思の声に導かれであるならば。彼女がロバの名前を決めたのも天啓に近かった。

 ロバの名前が決まったのは、夜の事。宿屋についての事だった。


 寝床についていたリーゼロッテは、目をパチリと開けると、転がるようにして部屋から飛び出した。あまりの物音に宿泊していた他の宿泊者が扉から首をひょっこりと出すぐらいだ。

 リーゼロッテは、ロバが休んでいる厩へと駆け出した。

 ドッタンバッタンという激しい物音は、宿屋隣の厩にも届いていた。荒々しい物音に、ロバは嫌そうな顔をして辺りを見回した。


「名前、決めたわ!」


 ロバはやっぱりという表情を浮かべ、周囲で休んでいる馬に小さく頭を下げた。

 キラキラと目を輝かせている主人に、ロバはあきれた表情で、ゆっくりと立ち上がる。うるさいよ。の意味も込めて鳴いてみたが、テンションの高い主人は届かなかった。

 リーゼロッテは、ロバを見つけるや否や、一目散に駆け寄り、抱きしめた。馬糞を踏んだ事にも気づいていない。


「アヌイ。これが、これからのアナタの名前よ」


 リーゼロッテは微笑んだ。アヌイは良く分からないが、リーゼロッテがとても嬉しそうだったので、尻尾を右へ左へ揺らした。


「アヌイ。これは私がリーゼロッテになる前の。よ。私の名前だけど、捨てれば産んだ両親に申し訳ない。だから、アナタに上げる。リーゼロッテアヌイ。これで、本当に私たちは双子になえrたのよ」


 アヌイは、リーゼロッテの言っていることが全くわからなかった。だが、なんとなく嬉しかった。そして、アヌイ。という単語は覚えやすい単語であり、なにしろロバでも温かみを感じる事ができた。アヌイという名前も悪い名前ではない。とロバは朧げに思った。

 可能であれば、この気持ちを表せるのならば、きちんと表したかった。ロバは所詮はロバ。アヌイは、リーゼロッテに今の気持ちを伝えられなかった事がとても残念だった。


「アヌイ。これからもよろしくね」


 リーゼロッテの声に、アヌイは馬達の邪魔にならないよう小さく鳴いた。


「お客さーん」


 遠くからリーゼロッテを呼ぶ声がする。彼女は、振り返ると、そこには困った顔をした主人が立っていた。


「お客さん。寝間着姿のまま出て言っちゃいかんよ」


 ロバを抱きかかえた女は、飾り気もへったくれもない生成色のワンピースを着ている。一応、室内着ではあるが、何も知らない人には寝間着にしか見られない。店主が困った顔をしているのはそれだけではない。彼はもう一度、彼女の全身を頭のてっぺんからつま先まで見つめる。そして、困ったようにため息をつくと、彼女の足元を指差した。


「あと、お客さん。馬糞踏んでる」


 リーゼロッテは、主人の言われてまま足元をみると、茶色のもの固形物がべったりとこびりついていた。店主が苦虫を潰したような顔をするのは理由がある。この靴は、彼女の持ち物ではなく、宿屋がサービスで貸し出している靴であるからだ。布でできた青色の靴。馬糞を綺麗に取り除いても、シミは確実に残る。そして、彼らはその靴を客に差し出す度に思い出すだろう。あの靴は、ロバを抱きしめた奇妙な女が馬糞を踏んだ靴だと。どんなに遠くにいても、ツンとつく芳しい臭いを感じ、眉間に皺を寄せるのだ。

 そのような未来、宿屋側としても受け入れるわけにはいかない。


「もう、その靴お客さんにやるよ。馬糞がついたもの、他のお客さんに貸せないよ」


 主人は、ブツクサと文句を言いながら、手のひらを泳がすとそのまま厩を後にする。もちろん。


「靴はきちんと洗って部屋に戻ってくれよ」


 と彼女に声を残すのだ。一人、厩に残されたリーゼロッテ。「靴をやる」その一言が、靴にこびりついている馬糞と同じように頭に響く。清貧をモットーにする聖職者にとって、一般人からの施しはありがたいものである。願っても無いところで靴がもらえた。店主の意図など知らず、彼女は、アヌイにもう一度抱きついた。


「アヌイ聞いた? この靴、私にくれるって。聖女になって、はじめての施しが靴なのよ。お金や食事を貰う人はいても靴を貰える人なんてそういないわ。きっと、アヌイって名前をつけた事、大いなる意志が褒めてくれたから私に靴を与えたのよ」


 リーゼロッテはアヌイに抱きついたままその場で飛び跳ねる。彼女が飛び跳ねる度、敷き詰められた藁に黒みがかった馬糞を落としていった。アヌイは、彼女が何に喜んでいるか理解はできない。ただ、アヌイの周りにいる馬達はリーゼロッテの声に安眠を妨げられ、神経質そうにぴーんと耳を立てているのは見て取れた。アヌイは小さく鳴いた。

 残念ながら、興奮した人間というのは、タチの悪いものである。

 彼女が落ち着くには時間を要するのであった。

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