初夜編 深い眠りから覚めたなら14

「本当行くのですね。 聖女リーゼロッテ」


 二人の老婆が若い女性に声をかけた。リーゼロッテと呼ばれた女性は、ロバの背に荷物を積み込むことを止め、二人を振り返る。

 彼女達は、同じ格好をしていた。青みがかった灰色のベールをかぶり、同色のポンチョのようなワンピースを着用している。肌をすっぽりと隠し、顔と手、足の甲しか肌は見えなかった。

 リーゼロッテの顔は明るかった。血管が透き通る程の白い肌にポッと朱が灯る。


「聖女バルバラ、聖女セシリア。これは、大いなる意志の思し召しです」


 そして、薄緑色の瞳が細まった。リーゼロッテの誇らしげな表情とは対照的に二人の老婆の表情は冴えない。心にもやもやとしたものを抱えているせいか、浅黒い肌がくすんで見える。


「そうだとしても。まさか、あのような場所に……」

「いいえ。素敵な場所ですよ。トリトン村って。水耕の村にして、土の聖剣に愛された村。噂によれば、私より前にいた村の聖職者って、聖女バルバラや聖女セシリアが生まれる前にいたとか」


 口をへの字に曲げる二人を前に、リーゼロッテはいたずらっぽく笑った。彼女は今年で二十三歳になる。実年齢より、かなり幼い顔立ちをしている。リーゼロッテは最後の大きな荷物をロバの背に積んだ。パンパンと手を払い、服の裾で土を払う。

 普段であれば、はしたない仕草に口うるさいセシリアが怒るのだが、今日はそのお小言も無かった。


「長年にわたり、大いなる意思の言葉が届けられなかった村。この村が聖女となった私の最初の赴任地です。本当に、素敵な事です」


 そう言うと、リーゼロッテは空を見上げる。真っ青な空に、濡らしたような雲。天の下には、年季の入った平屋建の建物。屋根のてっぺんには、聖剣のモニュメントが掲げられている。

 ここは、スナイル国のとある修道院。おまけに、下から数えた方が早い程貧しい修道院だ。清貧の修道院と関係者は言うが、実際は極貧修道院。そのような修道院の門を叩く者は少ない。かつては偉大な聖人、聖女を輩出した修道院として名を馳せていたが、それは昔の事である。

 そういう状況故、修道院の長、聖女バルバラは、聖女になったばかりのリーゼロッテを手元に残し、残る修道士、修道女の指導を願っていた。けれども、彼女の修行が明け、聖女となったその日の夜。彼女は大いなる意志の声を聞いたと言い出し、この修道院を卒業することを願い出たのだ。


「貴女が聖女となった日に大いなる意思の声を聞いたと言い出した時、正直信じられませんでした」

「聖女バルバラ。私が聖女になりたいと思ったのも大いなる意志の声を聞いたからですよ。光なき者に、光を与える道となりなさい。この言葉を聞いて、私はこの修道院の門を叩いたのですよ」

「えぇ。それは勿論覚えています。だから、信じられるの。信じられないことだけど、貴方の言葉ならば、信じられるのです」


 バルバラは、困ったように首を横に振る。そして、バルバラの目は一人の幼女を捉えていた。


「聖女バルバラ 聖女セシリア。私は本当に聞きました。見ました。『光なき者に光を与える道となりなさい』と言ったのです。光の中、彼の方は、手を伸ばし、導いてくださったのです。『トリトン村へ』と」


 リーゼロッテは真剣な顔つきで言った。彼女の隣に立つロバが顔を左右に振る。ロバの声に、彼女は口元を緩め、頭を優しく撫でた。彼女の優しい手つきに、ロバは気持ちよさそうに目を細めた。

 聖女バルバラとセシリア。

 二人の表情はまだ不安の色が濃い。だが、もはや彼女達がリーゼロッテを止める事は不可能だ。彼女は大いなる意志の声を聞いた。そう言って、修道院の門を叩いた。彼らは「大いなる意思の声を聞いたのなら」と言って彼女を受け入れた。

 そして、彼女は、大いなる意志の声を聞いたと言って、修道院を出たいと申し出た。彼女の言葉を否定することは、すなわち大いなる意志を否定。それと同時に、都合の良い時だけ大いなる意志の言葉を受け入れ、都合が悪い時は幻聴だと言って拒む己の姿勢がとても映った。

 だから、二人は、リーゼロッテの旅立ちを認めるしかない。けれども、彼女達は長年修行に励んだ者を手放す寂しさに胸を痛めている。


「リーゼロッテ。私は、貴女がこんなに小さい時から見てきました」


 バルバラは、自分の腰の高さに手のひらを置いた。バルバラの隣に立つセシリアは目頭が熱くしていた。


「本来であれば、修行が明け、聖女となった貴女の旅立ちを祝わなければなりません。けれども、私やセシリアは貴女をいつの間にか娘として見ていたようです。かわいい娘の旅立ち。そう思っています。なので、手放しで喜べない私たちを許して……下さい」


 バルバラの声が震え、セシリアは嗚咽を漏らした。目頭を抑え、声を震わせる。袖で涙を拭い、リーゼロッテの名前を小さく呼ぶ。このままではいけないとセシリアは赤い目でリーゼロッテを見つめる。二人の前に立つ女性がぐにゃりと歪む。幼き日から今に至るまで。様々なリーゼロッテが映りこんでいく。


「聖女バルバラ……。聖女セシリア……」


 彼女の一言に、セシリアはとうとう腰を落とし、泣きじゃくり始めた。老婆の嗚咽。リーゼロッテはフードを脱ぎ、彼女の傍に背中をさすった。


「泣かないで下さい。聖女セシリア。聖女バルバラも等しく、貴女方は私を慈しみ、愛して下さいました。十分に理解しています。そのように育ててくれた貴女方の愛情、教育に酬う事なく。……。今日、この日を持って旅立つ私をお許しください」


 ハラリと、リーゼロッテの艶やかな黒髪が流れ落ちた。教則に従い、彼女は長い黒髪を一本の三つ編みで結い上げている。綺麗に編み込まれた三つ編みは黒曜石の彫刻のように清らかであった。

 セシリアは、皺だらけの手でリーゼロッテの髪に触れる。絹のように細いか髪の柔らかさ。変化した聖女にセシリアの目尻からホロリと涙が零れ落ちる。


「貴女は成長したのですね。リーゼロッテ」


 セシリアの呟きにリーゼロッテは答えなかった。セシリアの呟きに答えるのは、バルバラだった。


「貴女は成長したのよ」


 修道院長バルバラは一時の間を置く。目をつぶり、ふるふると首を横に振る。

 もう一度、目が開かれた時、バルバラの目は鋭くと光っていた。深く刻まれた年輪のような皺。修道院長の重みに耐えるようにして刻まれた皺でもあった。


「聖女リーゼロッテ」


 バルバラの一言に、リーゼロッテは立ち上がり、「はい」と丁寧に答えた。セシリアは手で鼻を噛むと、涙を押し殺し、ゆっくりと立ち上がる。


「光なき者に、光を。光なき場所に光を。大いなる意志の栄光を。大いなる意志の言葉を。伝えなさい。教えなさい。愛を伝播しなさい。聖女リーゼロッテ。それが貴女の務め。リーゼロッテの名前を継ぐ者の責務であります」


 バルバラはリーゼロッテに手をかざした。彼女は、フードをかぶり直し、地面に膝をつく。目を閉じ、口元を動かし始めた。


「はい。私は聖致命聖女リーゼロッテの名を継ぎし者。光無き者に光を。光なき場所に光を。あまねく台地に、大いなる意思の御心を」

「祈りましょう。前途ある者の旅立ち。大いなる意志のご加護がありますよう。聖女バルバラの名の下に」

「聖女セシリアの名の下に」

「願いましょう。私の旅立ちが、光なき者 光なき場所への光となりますよう」


 三人は声を合わせてこう締めた。


「大いなる意志の御心のままに」

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