初夜編 深い眠りから覚めたなら10
(大いなる意思よ。私に不敬者を糾す力をお与え下さい)
女は、目をつぶり、心の声を天高い場所へおわすあの方へ願う。そして、緋色の瞳をカッと見開いた。赤く鮮やかな瞳は、オリヴァはもちろんの事、彼方にある目的地を捉える。
(私は、大いなる意志の御心を示す為。威光を暗闇まで届けなければならない)
彼女の心は、自分の瞳よりも、オリヴァのむき出しになった肉よりも、激しく赤く燃え盛っている。彼女が己に課した使命を思うと、大地から吹き上がるように力が込みあがる。
あらんばかりの力で、オリヴァの肩に爪を立てる。ピリリと痺れる痛みが彼の体に走る。その後、倒されるような力がかかった。彼は、押し倒されまいと両足に力を込める。けれども、魔獣を足蹴にした時に痛めた傷がぶり返す。これが呼び水となり、顔を始めとした多くのキズキズキズが呼応する。中年男を壊すほどの力の前では、彼の踏ん張りなど、児戯に等しい。
オリヴァの足は、女の力に巻け、押し倒されるように、一歩、後ろへ下がった。
愕然とするオリヴァの表情に、真剣そうな彼女の顔がふっと緩んだ。
「動いたぁ」
その声の後、また一歩、足が後ろに下がる。一歩。また一歩。足は自然と後ろに動いていく。
(止まれ)
オリヴァは自分の意思に反し、動く足を叱責する。だが、叱責して止まるものであれば苦労しない。結局、彼の足は、彼のものでありながら、所有者は別の者に成り代わったのである。
(止まれ。やめろ。進むな。止まれ。止まれって言ってるだろ)
心の中では、罵倒の嵐が吹き溢れる。余裕をなくした心は顔に表れる。彼女は、何かを察したのだろう。頬を緩めただけではなく、口元も緩んでいた。
彼女の表情の変化に、オリヴァは直感的に“自分は負けている”事に気づく。負けること。負けてしまうと、どうなるのか。そのような結末ぐらい、余裕の無い彼でも想像できた。
(認めたくない。俺が負けるだなんて。認めたくない)
オリヴァにとって、今の彼女は現実の塊だ。顔のキズを作った張本人。圧倒的で暴力的な力。すぐにでも殺せるが、あえて殺さない。オリヴァが負けている事を知らせるため、彼に新しい傷を作ろうとする。
ゾワリと背中に悪寒が走る。彼は遅まきながら、自分が今どこに向かっているのか、探るように振り返った。
彼の視界に飛び込むのは、木・木・木。多くの木。森なのだから、当たり前だ。このような森の中、彼女は、オリヴァの体を押して前に進む。
(こいつは何を考えているんだ。何をしようとしているのか)
オリヴァは再び前を向いた。何を考えているか分からない、得体の知れない生き物の考えを探るように、女を見つめる。彼女は、顔を伏せていたが、オリヴァの視線に気づいたのか、グイッと顔を上げる。すると、彼女の顔はまた変化していた。
女の顔は、キラキラとときめいているではないか。まるで、初恋に溺れている少女のように頬を染めている。緋色の瞳は、炎を埋め込んだ宝石のように激しい光を讃えていた。
(色白
クルクルと変化する表情に彼はついていけない。そして、彼女をとりこにしている存在を彼は理解していない。
この初恋相手は包容力があり、とても気が利く存在だ。彼女が取り逃がした
その一方で、大いなる意思は、
彼は彼女に「大いなる意思は聖職者の金のエサ」と言い放った。彼に大いなる意思を信じさせる事が出来るのか。彼女の敬剣を試す踏み絵を与えた。
(貴方はいるのですね。貴方は私に力を与えてくださいました。私に食事を与えてくださいました。私は、貴方を感じることで、この試練を乗り越えられます)
女は、大いなる意思の存在にまた一際胸を高鳴らせる。高揚した表情のまま、彼女は口を開く。
「大いなる意思は言いました。無知なる者に私の光を与えなさい。無知は罪ではない。貴方の与えし光が、
彼女は続けて言った。
「大いなる意思は言いました。私を否定する者には罰を与えなさい。私の言葉を否定し、私の存在に逆らう者は、不敬者である。不敬者には12本の聖剣によって裁かれるべし。貴方はその聖剣となりなさい」
この2つの言葉を、オリヴァは知っている。けれども、ここまで熱っぽく語った存在は初めてである。
(世迷言もここまでくれば一種の病気だ)
彼がそう思った矢先の事である。ズルズルと押されていた体がドンと木にぶつかった。そして、ようやく足が止まる。
「くはっ……」
だが、再び激しい痛みが彼の腰部を襲う。多くの木は人の背丈では到底届かない位置に枝を伸ばす。けれども、時として、人の腰丈から伸びている枝もアル。まさに、大いなる意思の思し召しのように。
オリヴァの顔から血の気が引いた。何かの間違いであってほしいと願うように、恐る恐る顔を動かす。震える目が、腰部を見つめる。残念ながら、彼の希望は砕け散った。
腰部に刺さった太い木の枝。血液は枝伝いに零れていく。また、彼の臀部にもゆっくりと流れ落ちる。血液が流れ落ちるたび、彼の体温が1度ずつ下がっていった。
「あぁっ……」
傷を知ってしまったことで、腰部から鋭い痛みが、ジワジワと全身に伝わる。ビリビリと痺れる痛みを堪えるも、顔の傷とあいまり、ドンドンを足音をたてるように、痛みは増していく。彼は、たまらず、頭を下げた。
「かっ……」
漏れ出す声に女は小首を傾げる。
「あらあら。どうしましたかぁ? いきなり変な声を出して」
女は、わざとらしく、驚いたような声をあげた。慌てて、肩から手を離し、手を口元へやった。三日月のような微笑と歪んだ目元が手からはみ出ている。
(このクソ女がああああああああああああ)
顔を伏せていてもオリヴァの心の声は漏れていた。心の声が彼女をどんどんと高めていく。彼女は、今がとても楽しい。大いなる意思の威光が自分の力として示せている事。
お高く留まっていた青二才が苦しみだし、自分の掌の上で踊ってくれた。これほど、滑稽な事はあるだろうか。彼女は、肩を小刻みに震わせ、目尻に涙を浮かべてケラケラと笑った。ケラケラと子どものような笑い声は階段を歩き少女へ。大人へ。最後に淑女に至り、高笑いに変化した。
「痛いですかぁ? 痛いですよねぇ。アヒヒッ。でもぉ、カタルカさんはもっと痛かったと思うんですよぉ。だって、私に血液をぴゅーぴゅー飲まれたんですよ。おしっことうんちをもらしちゃうぐらい怖い中、私に牙を立てられて、ちゅーちゅー飲まれたんですよ。肉をモゴモゴと食べられながら死んでいっちゃったんですよ。そんなのと比べたら、貴方の頬の皮とか肉とか大したことないですよね? ないんですよぉぉぉぉ」
女はもう一度含み笑いを漏らす。
「その痛みは、不敬者に与えられた罰です。貴方は、カタルカさんだけではなく、あの方の教えを2つも裏切るからですよ」
女の手がオリヴァの髪を片手で掴み、伏せる顔を無理やりに起こした。
「大いなる意志は言いました。名前とは私が貴方を識別する言葉。名乗りなさい。名乗らなければ、私は貴方が誰だかわからない」
一呼吸置いて、彼女は色っぽい表情を浮かべる。オリヴァの鼻頭を血肉のしみこんだ指で触れる。
「貴方は、私に名前を教えてくれませんでした。もっとも、こんな状況では、自分の名前さえきちんと言えるかわかりませんけれど」
彼の鼻頭に触れていた指は容赦なく、むき出しの頬肉に爪を立てて触れる。煮え湯をかけられたような痛みに、オリヴァは短く叫んだ。叫び声は上げても、自分の名前は言わない。強情なる不敬者である。ふと、不敬者の漆黒の瞳が女を捕らえる。瞳に光は届いていない。ただし、瞳の奥で揺らめくものがある。その輪郭を女は確かに見た。女の心は、ザワザワと漣が立つ。野生の勘か、灰色がかった空気が鼻の下を通る。鎌首をもたげる不安をかきけすように、口を開いた。
「大いなる意志は言いました。弱き者が強き者に陵辱されている時、手を差し出しなさい。例え、勇気がなくとも、心の中で差し伸べる手があれば、私は認めよう」
大いなる意思の言葉を述べるも、不安が騒ぎ出す。大いなる意思の吐息を彼女は感じることが出来なくなった。色っぽい表情は、失望の色へ変わる。
「かわいそうなカタルカさん。軽薄な人間のせいで、彼は私のごはんになってくださいました」
女の手は、再びのオリヴァの肩に触れる。それから、彼の体を激しく揺さぶった。前後するからだ。その度、木の枝は、肉を穿つようパンパンと音を立てて、彼の腰部に傷と穴を作る。オリヴァは、目を見開き、歯を食いしばり、必死に堪える。プルプルと震える顔。もう一押しがあれば、彼は叫ぶはず。そう思い、彼の体を木に叩きつける。しかしながら、彼は声を漏らさなかった。痛みに嗚咽を漏らさない彼を見て、女は苛立ちまぎれに口を開く。
「人は大いなる意思が与えた負える荷物を運ぶ為に生きている。人は重荷の意味を。運ぶ意味を考えて生きるのです。12本の聖剣を作った大いなる意思。私たちは、剣によって生かされている。故に、人は、創造主たる大いなる意思に寄らなければ生きていけない」
女は、オリヴァを引き剥がすように、地面に叩きつける。ゴロンと彼の体は倒れこむ。すぐに、起き上がる事は出来なかった。けれども、頭を二度三度、小さく動かし、這い縋るような格好で上体を起こす。腰に響く痛みに、天を仰ぐ。だが、ゆっくりとした動きで女を振り返る。彼の瞳に光はまだ届いていない。
頑なな姿に、彼女は自然と拍手で応えた。
「良い事です。寄る辺無き者。愛を識らぬ者。浅慮なる者。貴方を楽に教え《殺し》はしません。貴方には、私の愛を与えましょう」
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