初夜編 深い眠りから覚めたなら09
これは、昔の事。とある家庭に一人の男が生まれた。彼を取り上げた中年産婆は生命の誕生を喜んだ。
しかし、産婆の顔は喜びから悲しみへ染まっていく。
「なんということだ」
産婆の哀れむ声は、産褥で苦しむ女に届いた。
「この子の顔には、
産婆は、横たわる母親の隣に赤子を寝かせた。母親は、赤子の若葉のように柔らかい手に触った。力強く泣く赤子。ギュッと握り締る手は、激しい種火。種火から引火した顔は、何の変哲もない。どこにでもいる赤子だ。ただ、眉間に皺が寄ったとき、頬の上がり方が左右で異なる。その点が気になる以外、違和感はない。
産婆は、母の頭上に座り込み、赤子の頬に指に触れる。プニプニとした柔らかい頬は、産婆の指を飲み込んだ。
「産婆様。ショウソウとは何なのですか?」
産後の疲れか、母親の声は弱弱しい。
「傷相とは、自らを傷つけ国を滅ぼす人相。凶相だ」
「はっ」と母親は息を飲み込んだ。生命の誕生を喜び流した涙が、絶望の涙へと変わる。ポロポロと糸の切れた首飾りのように、母は涙を流す。
母は、震える手で赤子の頬を撫でる。信じられない。という思い。一方で、五体満足で生まれた我が子が何故。という行き場を失う不条理さが胸の中を駆け巡る。負の感情に飲まれていく母はに気づいたのだろうか。赤子は、あれだけギャンギャンと泣いていたのに、数度しゃくりあげると、泣くのを止めた。涙で濡れた瞳がおぼろげに母親を見つめる。無垢な瞳に、母はまた涙した。
「産婆様。何故ですか。この子は……。普通の赤子ですよ。生まれたばかりの子にどうして不吉な事を言うのですか?」
「人にはな、
「でも、凶相ですよ。国を滅ぼすような凶相など見たことあるのですか?」
母親の問いに、産婆はすぐに口を開かなかった。だが、哀れにでも思ったのだろう。産婆は赤子を抱きかかえた。赤子の体が冷えぬよう、小さな体を大きな体で抱き抱える。
「一度だけ見たことがある」
産婆は赤子に産着をかけると、椅子に座り、床に横たわる低い声で囁いた。
「誰とは言わぬ。私が今より若い頃、手伝いに行った先で見た。知り合いが子を取り上げて、私の耳元で言ったんだ。『赤子の左右の頬の片方しか上がらない人相を傷相という。自分を傷つけて、他人を生かすという意味だ。王国転覆を狙った者は必ずこの傷相をもっている』とな。だから、傷相は凶相と言われる」
産婆は赤子の顔を覗き込む。赤子は口をくーはーと動かすと、そのまま瞳を閉じる。穏やかな寝顔を見つめ、母親へ問いた。
「殺すか? 今なら私がやるぞ」
産婆は誰とは言わない。母親の表情がピシッと氷のように張り付いた。子を抱く産婆の手はとてもたくましい。彼女は命を取り上げる力強さを持ちつつ、同時に幼い命を摘み取れる強力と酷薄さを兼ね備えていた。
母親は、考え込んだ。生まれたばかりの子どもへの愛情。自分の胎の中ではぐくんだ命。対として、国の破滅とそしりを受ける人相。
母親は沈思し、思考の天秤にいくつもの重石を置いた。
だが、天秤はどんなに重石を置いても、変わることはなかった。
「いいえ。傷相があったとてしても、私はこの子を、そんな運命を跳ね返す人間にします。絶対に、道を踏み外すような事をさせません。万が一、道を外した時は、私が責任を持ちます」
母親の言葉は凛としていた。産婆は、彼女に反応に特段困った表情を浮かべる事はない。むしろ、わかっていたかのような素振りだ。
「そうかい。この子はね。傷相のほかに、
産婆は、黄ばんだ歯をニィと見せた。だが、母親の顔はこわばったままである。
「疲れただろう。寝ておきなさい」
産婆は、母親に優しい声をかける。産婆の中で手を動かす赤子。彼女は「おっと」とおどけたような声をあげ、母親に背を向けた。そして、もう一度赤子の頬に爪を立てた。
オリヴァ・グッツェー。二度目の接吻が交わされる。
一度目の接吻は仕方がない。仕事上避けては通れない事故のようなものだ。
二度目の接吻も想定外であった。ただ、最初と違うのは、今回の接吻は女性主体で、とても情熱的であることだ。
「あグギガッィ―――――――」
オリヴァは声も出せず、目を見開き、手足をバタバタと動かした。女の接吻は動物的である。気持ちが入りすぎて、オリヴァの少し硬い頬にかぶりついたからだ。
火がつくような痛みが左頬から走る。体のどこかにある種日が轟々と音を立てて顔から頭から手足やら。体全体を駆け巡る。
(痛い。痛い痛い言いたいイタイイタイ痛い痛い痛い)
オリヴァは脳みそを鈍器で殴られた状態である。痛みのせいで、頭の中は空っぽで、単純に「痛みをどうにかして」という考えしか思い浮かばない。
だから、オリヴァはばたつく手足で女を殴った。片手で、膝で。とにかく”当たって離れろ”という思いいっぱいである。
しかし、捕食者は、ガンとしてオリヴァから離れない。当たり前だ。彼女は、中年男の腕を捻り切り、馬の脚も、いともたやすく投げられるような人物だ。オリヴァごときのか弱い暴力でどうにかなるわけではない。彼の生易しい痛みに、女はニィと口を三日月に歪める。この痛みに対する返答は、情熱なキスを返すことだ。
脳みその半分が鋭利な牙で噛み付かれる痺れに、オリヴァの手が激しく動いた。
(イヤだ。イヤだ。いやダ。イヤ代・やダイ。ヤだイヤだ)
オリヴァの目頭から熱いものが落ちる。痛みを示すかのよう鼻水もダラダラと落ちている。
彼の心がゾワリと恐怖で震える。そして、オリヴァは思う。今まで、バケモノに喰われてきた者は、「助けて」と繰り返し叫んだ事だろう。生きながら白い女に捕食される。歯向かえば、何倍にして暴力が返される。逃げようとすれば、恐ろしいスピードで追いかける。どちらにしても、皆、女に組み伏され、ジワリジワリと急所を外しながら喰われていくのだ。
目を瞑ってもどうしようもない。痛みに耐えられず狂うか、恐怖に逆らえず、降参するか。だろう。
ようやく、彼はカタルカの気持ちを知ることが出来た。喰われることの恐怖も知った。
恐怖に染まるオリヴァ。その表情を煽るように、女はわざとらしく彼の耳元でくちゃくちゃと咀嚼を響かせる。ツンとするドブ川の臭いに混じり、鉄の臭いがする。血液だ。と思うが、誰のものか。など考えは及ばなかった。
オリヴァの目の焦点がぶれていく。女の特別な計らいに反応を見せなかった。そして、その反応は、彼女にとって“不合格”である。
女は、オリヴァの口元から耳辺りに牙を立てる。そして、ベリベリベリと木の皮をめくるかのようにして、立ち上がりながら、頬の皮と肉を剥いだ。
「あうあああああああああああああああああああああああああああ」
途端、オリヴァの体は自由になった。一方、再び燃え盛るような痛みが彼の脳内をじゅぅと肉を焼くような音を立てて、焼灼する。ポタリ ポタリと顔の左半分から液体が零れ落ちる。皮ははがれ、肉はむき出し。赤やら白やら、筋張ったものが見えている。耳の近くでは、奥歯の一部が見えていた。
(痛い。痛いイタイイタイイタイイタイ。アアアアアアアアア。狂いそうだ。頭が。痛みでおかしくなりそうだ)
オリヴァは痛みでのた打ち回った。狂いつつある脳みそが、ありえない映像を彼の眼前に見せる。
それは、誰かの胃液にぽちゃんと肉の塊が落ちるシーンだ。彼は直感的に、肉塊は先ほどまで自分の一部であったものと察した。彼の頬の肉が、しゅわしゅわと沸き立つ水泡のように消えていく。
(あぁ。消えていく。)
そう思うと、彼の眼前は、薄暗くカタルカの腕と死体が横たわる森の中に変わった。
女は喉を震わせ、甲高い笑い声を上げた。嫌いな人間を痛めつけた喜びの声である。呆然と仰向けで倒れこむ彼に、彼女は卑しめる表情で
「痛かった?」
と問いた。オリヴァは彼女の問いに答えず、涙を流す。せめてもの反抗であった。弱弱しい涙は、生ぬるいに飛ばされない。自分の存在を誇示するかのように、顔のラインを伝う。涙が傷口に沁み、苦悶の声を上げた。
オリヴァの視線に、彼女は不遜な鼻息を漏らす。そして、彼女の視線は遠くへ移る。緋色の目は何かを捉えた。サディスティックに歪む口元は、緋色とは違う色で染まっている。
彼女は、オリヴァの近くへ寄ると、彼の両肩を掴み、無理やり立たせた。
「不敬者。大いなる意思は敬剣なる者には寛大だが、そうではない者には容赦ない事を知りなさい」
傲慢な緋色が赤黒い男を締め上げる。そして、次のステージへと一歩、オリヴァの体を押していくのだ。
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