初夜編 深い眠りから覚めたなら07
「ぷばぁっ」
彼女は、埋めていた首筋から顔を上げた。口元が赤黒く染めてられている。淑女のエチケットのように口周りの汚れを舌で拭う。そして、最後の確認として、ゴシゴシと子供がするように手で唇を拭った。
彼女にとって、カタルカは、久方ぶりの食事である。水や草木を口にしても、彼女の心と体は満たされなかった。水や草木は、彼一時的な安心感を与えても、多幸感は与えない。
大いなる意思が人間の生誕を祝い、豊食を是とした6日目。彼女はようやく安らげる一時を手に入れた。
馬と人間の肉体。肉は、新鮮であればほっとする温かみがある。口にすれば、瑞々しく脂身がじゅわっと音をたてる。おまけに、長期保存が可能だ。面積は減るが、干せば、旨味が濃縮される。日持ちがするので、月を肴に、干し肉を頬張ることができる。そのような時は、彼女は自分が偉い人物になった気がするのだ。
一方血液は、日持ちはしない。鮮度が落ちた血液は、匂いもきつく、喉にまとわりつくだけでうまく飲み込めない。それならば、泥水のほうがまだ役に立つ。
だから、血液は鮮度が命だ。仕留めれば、すぐに啜る。それでもやはり血液。喉に絡みつく。ごっくんと飲み干せない面は否めないが、血液の温かみには代えられない。舌にビリビリと痺れるような苦味。触覚と味覚は彼女に人間らしい刺激を与える。
苦かろうが、飲みにくかろうが、関係ない。血液を飲むことで刺激をもらい、彼女は生きている満足感を与える。そして、肉を食べることで、彼女の腹は満たされるのだ。
彼女は食事をする度、自分”生きている事”を実感する。
他人から傷つかれる痛みではなく、五感の刺激による多幸感が、彼女に”生きている”と思わせる。満腹になれば、次の日も生きていける自身が持てる。自身があれば、困難にも打ち勝てる。未来が見える。だから、食事の後、彼女の描く未来は極彩色に塗りつぶされる。その心情は、ひとえに、彼女の隣に立つ、大いなる意思によるものだと彼女は信じている。
「大いなる意思よ。貴方の食事に感謝します」
この言葉は、彼女の心の底からでた言葉だ。
「貴方は言った。苦しみの中から光を見たならば、光に手を合わせよ。さすれば、私は手を重ねよう。6日目の食事。空腹にあえぐ私に、貴方は手を重ねてくれました」
彼女は目を細め、食事の機会を与えた大いなる意思に感謝する。指先は三角形のように細い。両手の指関節をあわせ、天を見上げた。
彼女の感謝の言葉は、聖歌のように美しく、淀みがない。聞くもの全てが大いなる意思に敬服することだろう。
「感謝の心をここに」
彼女の足元に転がるカタルカの亡骸。彼女は膝を付き、カタルカの肩から腕をもいだ。ガキャッと鈍い音がした。肩関節がきれいに、空を見上げる。彼女は顔色一つ代えず、ちぎり取った腕を天に捧げた。
「この食事は、貴方の下へ――」
けれども、彼女の言葉は最後まで紡がれなかった。彼女の両手からカタルカの腕が落ちる。
朗らかな日差しを浴びているような温かい表情はヒステリックに曇っていく。
突然、彼女の体に襲いかかる違和感。彼女の腰に打ち付けるような鈍い感覚。得体の知れないものが、外側から侵入し、圧迫するように打ち込まれていく。侵入 侵入とけたたましい警報音が脳内に響く渡る。警報音は「痛み」を知らせるため、あえて不協和音を鳴らす。
彼女は、眉間に深い皺を寄せ、ゆっくりと背後を振り返る。
「食事は済んだか? バケモノ」
オリヴァは、彼女の真後ろに立っていた。彼女を見下ろすように、彼の顔がある。オリヴァの顔は歪んでいない。ドキドキと、彼女の心臓が早鐘を打つ。何故と言いたげに怯える表情を浮かべていた。
咄嗟に言葉は紡げない。それならばと自分の体に何があったのと目を動かすも、違和感のある部分は、自分の長い髪の毛で隠れて何があったか判別がつかない。
彼女は、顔を見上げる。眼の前にいる男は不遜な表情でこちらを見下ろしている。
「大いなる意思への食事の感謝。その言葉を遮るなんて不敬ですよ」
早鐘を打つ彼女の精一杯の言葉であった。
「そのような事、私の知ったことではない」
男は静かな水面のように静かに返す。
「この世界で生きる私達は大いなる意思に作られたというのに。何という愚かな事を言うのですか」
「申し訳ないが、私はその『大いなる意思』とやらを信じていない。所詮、聖職者共の飯の種だ。そのようなモノに傾倒している事のほうがよっぽど愚かだと思うがね」
オリヴァは鼻で笑った。すると、先程まで怯えていた女の顔がヒステリックにぐにゃぐにゃと音をたてて変形する。肩越しで見つめ合う二人。空気に見えない傷が刻み込まれていった。
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