初夜編 深い眠りから覚めたなら06


 馭者の叫びを覆うように、魔獣が言葉を漏らす。


「大いなる意思のホザンナ。本日は、大いなる意思が世界を作り出して6日目の日。大いなる意思は言われた。6日目に人が生まれた。人の生誕を祝し、この日は、豊食を是とせよ」


 オリヴァの喉仏が震えた。彼は、今、目の前で行われている事がにわかに信じられないでいる。魔獣は、ガッシリとした図体の馭者を、さして、苦しそうなそぶりを見せずに持ち上げている光景。それに加え、魔獣から溢れた声に驚いた。木の上から注がれた声は、人をバカにした笑い声。だが、打って変わり、今の声は、人の心に染み入るような透き通る声である。まるで、崇高な事を人々に教え伝えるために与えられたかのような清らかな声である。

 いや、彼女の役割はそうであったのだろう。彼女が口にした言葉はとても崇高な言葉であった。


(あれは聖剣書の一説)


 オリヴァは魔獣と馭者がぐにゃぐにゃと芯を失い、マーブル状に溶け合うように見えた。眼の前の出来事を現実であると受け入れたくない思いである。


(こんな寂れた村で、耳にできるものではない)


 一般市民は、聖剣書の存在を当たり前のように知っている。だが、中身については聖剣書の最初 創剣記の一章 節に馴染みがあるだけで、残りの章 節について無知である。知っているとすれば、聖剣書に馴染み深い者。例えば、王族、貴族、学者、そして聖職者ぐらいであろう。


「大いなる意思よ。感謝します。6日目に与えられた食事。私は、愛する大いなる意志の他に誰を愛しましょう」


(あぁ違う。これは、聖剣書の一部だが、それだけじゃない。これはまるで――)


 彼の歪む思考が、ドロリとクリーム状となり、常識をぱっくりと上書きする。認識は改めるしか無い。そう自分自身に言い聞かせる。彼らの中で動く風は、不快感の中にあるオリヴァを、また魔獣の言葉に答えるように、木々がザァザァと忙しなく揺れる。食事を取るのを促すよう、風が彼らの周りを走る。

 魔獣の腰まで伸びる長い黒髪が風に乗り、ふわりと舞い上がった。オリヴァの細まる目が糸のように細くなる。彼は、魔獣の後ろ姿をはっきりと見た。

  血管が透き通るほどの白い肌。血管が浮かび上がるほど薄い皮膚。臀部は曲線を描き、真っ直ぐに大地に降りる2本の足。

 病的な白さにオリヴァは、もう一度喉仏を慄す。彼の唾液を溜飲した音に気づいたのだろう、魔獣の視線は、馭者からオリヴァに向けられる。彼を捉える、魔獣の細い目。鮮やかな緋色。悪臭の持ち主とは思えないほど、気品ある色をしていた。


(これはもう人間だろ。魔獣というより、病的な人間だ。肌の色も。目の色も)


 彼の心の内を読んだのだろうか、魔獣はつまらなさそうにオリヴァを見つめると、すぐに視線を馭者に戻した。

 仏頂面な表情より、涙と鼻水に濡れている顔の方が見応えがある。そのせいか、彼女が馭者に見せる表情は、無邪気な幼子のような笑顔だった。


「これは、大いなる意志の思し召しである。大いなる意志の身体と血、分け与えられたものである」


 魔獣は馭者に向かい、頭を下げる。馭者の股の間から黄金色の液体が滴り落ちる。勢いよくこぼれ落ちる小便。魔獣の初雪のような足を濡らしていく。彼女の足にあたり、湯気が立つのは、雪を溶かそうする彼の最期の抵抗かもしれない。

 魔獣は笑顔を浮かべたまま、馭者を見つめる。自分の足を汚しても、彼女は怒る気配を見せない。


「カタルカさん。恥ずかしがらないでください。皆さん、いつもこのような反応なんです」


 魔獣は、失敗した幼子をあやすような口ぶりで馭者 カタルカを諭す。下から慈愛に満ちた目は、小便で汚された事を全く気に止めていない。


「あ、アンタ、俺の名前、覚えちょるんか」

「はい。私はあなたのことを知っているからですよ。カタルカさん」


 魔獣はコケティッシュな微笑を浮かべ首を傾げた。

 艶かしい仕草に、カタルカは男のプライドが反応する。一方、生理的反応とは別に、心は恐怖で塗りつぶされている。魔獣は笑っている。


「奥さんも、お子さんもお元気ですか? 自警団の集まりには出るのに、それ以外の集まりには出ないって奥さんが嘆いていましたよ」


 カタルカの脳裏に、何が映っただろう。彼の嫁の顔か。それとも、子供の顔であったか。口の端から溢れる唾液は、声の残滓である。


「知ってます? カタルカさん。奥さん、あなたの七色の糸で服を作りたい。っていう夢を叶える為、村に来ている行商に七色の糸をどうすれば入手できるかを聞いていたんですよ。そんな素敵な奥さん、そういませんよ」


 魔獣の手の指は人間と同じで5本ある。指は、肩から首でゆっくり ゆっくり ナメクジが濡れた地面を這うようなスピードで上がっていく。舐めるようにしっとりとした手つきは、カタルカの心を撫で上げる。


「そんな奥さんを顧みなかったから、大いなる意志は貴方を6日目に私の下へ送ってくださったのです」



 馭者 カタルカの瞳に魔獣の姿が映る。だが、涙で歪む彼の眼には彼女はいびつゆがんで見えた。


「大いなる意志は言った。悔い改めよ。裁きの時に、耳を傾けた者は軽い罰ですむ。耳を傾けぬ者よ。イグラシドルの下にたどり着けるとでも思っているのか。陰府まで落とされるのだ」


 魔獣は、言い終えると、右肩の付け根部分を豪快に食らいつく。カタルカの悲鳴がビリビリと木々を揺らすように響く。男の絶叫に魔獣は微動だにしない。むしろは、久方ぶりの食事を喜び、顔の角度を変え、何度もカタルカの肩に食らいつく。肩の骨は固く分厚い。

 噛みごたえのある骨の周りには筋張った脂身の少ない肉がある。美味しい肉を求め、魔獣はガリゴリと音を立ててかじりだす。口の中でジャリジャリと弾む破片を、ペッと吐き出す。魔獣は、肩からウデへ部位を変える。ウデは、肩よりも脂身が多い。口腔内え肉を噛みしめると、油の旨味がジュワッとにじみ上がる。彼女は目を細め、カタルカの肉汁を啜った。

 馭者の右肩は食肉に成り下がる。だが、彼自身はまだ人間である。馭者は、声のでないあくびのように口動かす。口の動きを補強するよう、涙に濡れる目でオリヴァに視線を送る。


 ―助けてくれ―


 魔獣はオリヴァに背を向けている。魔獣を殺すのならば、今が好機である。魔獣は馭者の体を食することに夢中だ。下品にも鼻歌を歌っている。オリヴァが腰に下げている剣を抜いても、気づくまい。


 ー痛い。痛いんだ。ー


 カタルカは心の中でロサリオの名前を呼ぶ。彼は、自分の声がでなくとも、ロサリオには自分の気持ち・言葉は伝わると根拠なく信じている。



 ーロサリオ。今だ。今なら殺せる。こいつを。あぁぁああああ痛い。イタイ。あつっ……ああああああわからないけどイタイんだ気持ち悪いんだ。ビリビリしてもうああああああああああああああああー


 カタルカの思考が赤く塗りつぶされる。彼は、何度もロサリオの名前を声にならない声で叫び、早く動くよう訴えた。しかし魔獣の後ろに立つ男は、呑気なものである。魔獣に視線は送るも、キョロキョロと当たりを見渡す。気になるものがなければ、腰を捻り、体をほぐしている。時折、爪を見ては、優しく息を吹きかけた。

 カタルカの気持ちを汲むという仕草を見せない。それどころか、彼の視界に、痛みにあえぐカタルカが入れば、煩わしそうに見つめる。


(なぜだ。何故動かん。ロサリオオオオお大庇おおおお大大)


 カタルカは、残った腕を動かす。カタルカの中で、ロサリオは、誰かが傷つくことを恐れる人間だと考える。誰かが傷つかないよう、自分を傷つける。そのような性格のロサリオが、トランと共に、トリトン村へ逃れてきた。見ず知らずの男の整腸を喜んだ。ロサリオは、村人となるべく、果敢に村の試練に挑戦している。語るかは、そのような男に手を差し伸べたく思い、馭者役を買って出た。そして、カタルカは信じている。ロサリオは、助けを求める人の手を必ず握ってくれる事をだ。

 しかしながら、残念なことに、カタルカの所見は大きくハズレている。この場に、ロサリオという人間は居ないのだ。


(この男が、生きようが死のうが関係ない。むしろ、俺の思いつきを知っている人が消えるのならば、これは好機ってこった)


 オリヴァは、魔獣の肩越しにカタルカの顔を見つめた。彼は、カタルカに関心を無くしている。浮かんでいる表情は、地面に落ちている大便に送る視線そのものだ。カタルカの死に対し、心を動かすことはない。

 カタルカは、オリヴァの表情を見て、ようやく、彼の本音に気づいた。


(嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だああああああああああああああ。いやだあああああああ。食わないで。食わないで下さい。お願いします。なんでもしますから、食うんなら、俺じゃなくてあああああああああいたいいいいいいい。なんでもするからやめてくだざいいいいいいいいいいいいいい。痛いよおおおおおおおおお。いたいよおおおお。かああちゃあああああああやめてえええええええええええ)


 馭者は、顎を上げる。嫌がるように 仰け反るような姿勢になった。そして、片手一本で、魔獣の頭を押さえつける。足をばたつかせると、魔獣の白い肌に赤いシミが付着した。

 魔獣の頭が下を向く。口の中でまだ残る肉を、下で拾い集める。肉は、小さな塊となる。喋ろうにも、肉の塊は邪魔である。塊肉を喉輪を広げ、ゆっくりと飲み込む。しかし、肉は案の定、喉の真ん中付近でつっかえる。喉から思うように息を吸ったり吐いたりすることができない。空気がせき止められたことで、喉から腹の下までの肉がピクピクと痙攣を始まる。

 魔獣は、不快感を顕にした。のどの異物を押し込むためにはどうすればよいか。そう思うと、彼女の眼の前に無防備にさらされている腹部が、囁きだした。

 彼女は、囁きに従い、彼の腹に食らいつく。下腹部から、穴をほじくられる痛みに、語るかの体は"く”の字に曲がる。彼女の頭を抑えていた手から力が抜ける。顔から頸部が自由になる。彼女は、腹部から口を外すと、すぐに下から彼を見る。いや、彼女が見たのは、"彼”ではなく、彼の水たまりだ。

 魔獣は、顔を伸ばし、浅黒い首筋に、魔獣の牙が突き刺さす。筋の通った肉に魔獣の口が覆いかぶさった。


「ロ……サリぃーー」


 ロサリオ。 と呼びたかった名前は最後まで言えなかった。ロサリオの後に、何を続けたかっただろうか。

 彼女は、彼の首から血液を吸い取る。頬をすぼめ、足の小指に溜まっている血液を、自分の口元まで吸い上げる。力強く、吸えば吸うほど、カタルカの顔が細く、やつれていく。日に焼けて、浅黒いかったハリはみずみずしさを失い、ただただ、どす黒く変色している。顔はハリを失う事で、シワが深くなる。

 顔も、肉体も干からびつつある。トリトン村の馭者 カタルカは絶息した。


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