初夜編 利己的な爪跡10
まず、異変に気づいたのは、トルダートの家の近くに住む住人だ。トルダートが青白い顔をし、身体を傾けて走る姿を現認した。怪訝に思った村人はトルダートに声をかけるも、トルダートはその声に反応しなかった。それどころか、彼は足跡の代わりに血液をポタポタと落としていた。村人は、驚き、他の村人を集め彼が怪我をしていることを伝えた。
皆、血の跡を追うと、たどり着いたのはコトウの家である。
「コトウ。そこにトルダートさんがおるんやろ。扉ば開けてくれんね」
そう呼びかけるも、部屋の中からは応答はない。それならば。と扉に手をかけるも、内側から閂がかけられており、ビクともしない。仕方がないと、窓を破ろうと試みた。しかし、窓は高いところにあり、手がとどかない。どうしたものか。と口にしていたときだった。コトウの部屋の中から響く怒声と絶叫が響いた。
村人は扉を激しく叩き、中にいるものに声をかける。内側からは、激しい叩きつける 打ち付けるような音と誰かの絶叫が返ってくるばかりだ。もう埒が明かない。それは皆の総意である。その場にいた村人は、スクラムを組み、扉をこじ開ける作戦に出た。
「コトウ。お前が開けんとなら、悪いばってん、扉ば壊させてもらうけんね」
村人は最後通牒を突きつけた。さぁ。と皆が息を合わせたときだった。
突然、天から太い筋がコトウの家に差し込んだ。目を覆うばかりのまばゆい光。天から響く声が響いた。と感じる、すぐに光は一瞬で消えた。不思議なことに、コトウの家の扉は開かれていた。
「どげなごつね」
村人は、首を傾げた。けれども、扉が空いたのだ。これは好機と、村人はコトウの家になだれ込んだ。
「な、なんなん。これ」
すると、そこには奇妙な光景が広がっていた。部屋には、コトウもトルダートもいない。そこには、茶色い毛並みのヒヒが一匹いた。
「こげなおかしな生き物、知らんばい」
村人は口にするよう、このヒヒは奇妙だった。なぜなら、この生き物は、前と後ろに2つの顔を持つ。前の顔は額に茶色の筋があり、憂いを帯びた顔をしている。後ろの顔は額に赤い筋があり、憤怒の表情をしていた。前の顔は、口をモゴモゴと動かし、見せつけるように何かを食べている。蛮勇な村人が一歩前に出て、目を凝らす。こらして見えた者に、彼は後ずさり、フルフルと顔を横にふる。前の顔が食べていたのは人の顔だ。その顔は最近、トリトン村に米を買い付けに来た商人である。
「な、なんな――」
村人の叫び声に、前の顔は両手に商人の顔をつかみ上げ、口の中へ放り込む。口の中で丁寧に咀嚼し、肉と水分が混ざりあった頃、口を「あーん」と開け、中のものを見せる。ピンク色の水に、村人は青ざめた。彼らの表情に満足すると、ひひはゴクリと喉を震わせた。
「に、逃げろ!」
声を合図に1つしかない出口に皆が殺到する。
ヒヒは自分の頭に両手を伸ばす。ゆっくりと力を加え、まるで、ネジを回すような動きだった。手を動かすと、パキンと外れる音がする。顔の表と裏が交代した。
正面を向いたのは、額に赤い筋がある顔である。ヒヒは「ゲゲッ」と笑った。逃げ惑う人々を気だるそうに、足音を立てて近寄る。
細長い手が伸びた。選ばれた記念すべき1名。それは、あの蛮勇な男である。蛮勇な男の頭に手をかけ、ズズズと力をかける。片手で十分だ。メキメキッと頭蓋骨の関節から軋む音が響くと、パキンと頭が割れた。
頭蓋骨の中から見えるピンク色の中身に。頭の中を覗き込むと、ヒヒは男から手を離し、パンパンと手を叩いた。節のある指で内容物にふれると、プルンプルンとゼリーのように揺れた。ヒヒの力を跳ね返した。ヒヒは笑った。感触が心地よかった。湯気が立つ暖かさにハマってしまった。もっともっと。とおもちゃをねだり、また手を伸ばす。
「は、はよ逃げな」
背後から響く不穏な音。扉近くにいる村人は慌てふためいた。
「な、なんでなん!」
彼らは悲鳴を上げた。なぜなら、開いていた扉はいつのまにか閉じられている。おまけに、閂もはめられている。村人達は、自分ではないと口にするも、すぐに、そのような事を争うのではないと気づいた。
村人の一人が閂を開けるべく手を伸ばす。脳内で処理しきれない現象。彼の手は震えている。普段はラクラクに開けられる閂はガチャガチャと音をたてるだけ。
手首は誰かに固められているように動かない。横木はクルクルと回転するのみ。
「急がんね。急がんと。アレが。バケモンが来るばい」
「わかっちょる。わかちょるんや」
閂を開けている者は、一度大きく深呼吸しを死、もう一度閂を見つめ、そして自分の手のひらを見つめる。
「落ち着け。落ち着くんや」
自分に言い聞かせると。もう一度横木に手をかけ、ゆっくりとスライドさせる。カチャカチャと震える音はしたが、今度は金具から横木が外れた。床にカツンと音を立て、落ちる。皆、逃げるべく、扉に体当たりをすると、扉は重たい音を上げながら開いた。
「やった」
声と同時に、村人は外へ出る。ふと、振り返ると、コトウの家に来ていた人数は半分となっていた。口を三日月のように裂き、目を細めてヒヒがこちらをじっと見つめる。
皆、床を見ることは出来ない。悲鳴が聞こえていた。床に散乱した物体が、かつて、人の一部であったこと。同じ釜の飯を食べた者であったのだ。
「マルト様と自警団に報告せな。皆、手分けして――」
声は途中で途切れた。内側から爆ぜる音。爆発し、ガラガラとガラクタが壊れ、ガラスがキャリキャリと引っかかれる音。ギギギとバランスを失する軋み。皆、音の方を振り向きたくない。コトウの家から響くが、何であるかも理解したくなかった。
黒い砂埃はガラスの破片と混ざり、村人の顔を斬りつける。
皆、顔を手で覆う。日常が音と共に砕けたことをはっきりと理解した。黒い砂埃から見える影。丸みを帯びたシルエット。やけに大きな頭。立っているのは、あのヒヒ。いや、魔獣だ。
「どげんしたとね」
家の中から、子供を連れた女性が飛び出した。とんでもない音に驚いて出てきたのだ。
「戻れっ」
村の男が彼女を家の中へ押し戻そうと、肩を掴んだ。
そのような時間は、魔獣に餌を与えたも同然である。魔獣は、飛び上がる。コトウの家から、彼女の家まで、距離がある。その距離をひとっ飛び。男の背後まで飛ぶと、着地する勢いのまま、魔獣も男の肩を掴み、首筋に噛み付いた。
鋭い犬歯が頸動脈を貫く。切断された血管は裂かれた肉の間から吹き出した。ピューと放物線を描く血。男の半分は血に染まる。急速に失う血液に、視界は真っ白に染まり、ビクンビクンと体を縦に震わせた。グルンと白目をむき、事切れる様を女性は直視した。
返り血で赤く化粧をした彼女は、あらんばかりの声を上げる。彼女の悲鳴に呼応し、子供も恐怖で鳴き声を上げた。
子供の叫び声は甲高い。とても耳障りだ。女性のリミッターの外れた声は不信感を掻き立てる。総じて言えば、子供の声、女の声というのは、人間でも不愉快に思える部分がある。眼の前の魔獣も不愉快に思うのも無理はない。
魔獣は「うるさい」と言わんばかりに、握りこぶしを作る。拳を槌にし、彼女の頭を叩き割った。
女の顔がひしゃげ潰れていく。母の顔が、丸から長方形に変わる。片手で数える程の年しか重ねていない子供には理解出来なかった。鳴き声は止まり、絶望の色で魔獣を見上げる。
魔獣と子供の視線が重なり合う。魔獣は、とても人間らしい表情で子供に笑って見せた。残酷な表情に、子供は失禁した。
魔獣の一人遊びは続く。
悲鳴の音に誘われて村人と遊んだ。
若い男は、どれだけ頑丈か試してみたくて、投げてみた。
若い女は、どれだけ靭やかか試してみたくて、嬲ってみた。
中年男性は、どれだけ固いか試してみたくて、叩いてみた。
中年女性は、どれだけ柔らかいか試してみたくて、丸めてみた。
年老いた男は、どれだけ筋張っているか試してみたくて、かじってみた。
年老いた女は、どれだけもろいか試してみたくて、すりおろしてみた。
子供は、どれだけ伸びしろがあるのか試してみたくて、引きちぎってみた。
どれもこれも、面白い程、魔獣の要望に答えた。試すたびに上がる悲鳴は、心地よいメロディーだ。
魔獣は、「キャイキャイ」と声を上げて一人遊びに興じる。
人々の絶望する表情は、魔獣の心を刺激する。もう一つの顔は不思議な事に泣いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます