НикаНика

kattern

第1話 雪中行軍

 雪深い朱国の山路を僕は歩いていた。

 炭鉱での過重労働と重篤な栄養失調により、患っていた肺炎は快癒していた。だが、気分はそれほど晴れやかなものではなかった。


 それは僕の背後に続いて歩く、朱国の兵たちの存在があるかだろう。

 あるいは、その先頭を栗毛の馬に乗って歩く、女将校の存在があるからだろうか。


 雪中に響く軍靴の音は、白色に染め上げられた森の中によく響く。

 祖国――旭国には、これほど雪の降る地方は珍しい。


 刺すような雪の冷たさに、思わず顔をしかめてしまった。


 もしこの場で足を止めたならば。僕のすぐ後ろを歩く、朱国の兵たちが咎めるようにこちらを睨みつけてくるに違いないだろう。

 彼らは突然現れた、紅い女将校のお気に入りを、受け入れていないようだ。


 いい迷惑である。

 僕としても、好きで彼女の腰巾着になったつもりはない。

 それは死という運命から逃れるための成り行きであった。


「キリエ」


 僕の名を、前を行く女将校が呼んだ。

 紅色の軍服――朱国の中央官僚が着るそれ――の上から、熊の毛皮をなめして作ったコートを着た彼女は、踏み慣らされた雪道、そこの横に盛り上がっている雪のような、汚らしい灰色をした銀髪を揺らしてこちらを振り返った。


 その汚らしいくすぶった銀髪に反して、彼女の顔つきは怜悧に美しい。

 まるで名のある彫刻家が、氷から削り出したような、整った顔たちをしている。

 それは氷のように、見る人の視線を一度見たならば吸い付けて離さない、そんな妙な魔力を持っているようだった。


 今は、その毛皮のコートにより隠されている彼女の肢体もまた、軒先に伸びる氷柱のように細く、そして華奢である。骨の上に皮がのっただけのような、その彼女の体について、僕は知りたくもないけれどよくよく熟知していた。


 名はニーカ。

 朱国の『偉大なる同志』の第十三養女であり、僕の後ろを歩く兵たち――極東方面軍特務小隊を率いている女将校である。


 階級は少佐。

 年齢は定かではないが、外見からまだ十代ではないかと思われる。


 多くの同階級の士官が、壮年あるいは老境の年齢にさしかかった者たちであるのに対して、彼女は若くしてその地位についているようだった。

 実力でないのはわざわざと言う必要もないだろう。

 どこの国にも、影響力を持った人間というのは少なからずいる。


 全国民の平等を約束している朱国でもそれはやはり変わらない。

 思想・主義とは別に、権力闘争と特権階級はいつの世も存在する。

 それだけのことだ。


 そんな少女佐官。

 彼女の身長はあまりに低く、馬の背にまたがっているにも関わらず、僕との背丈の差はあまりなかった。


 僕が駆け寄るよりも早く、ニーカは手綱を引いて馬の歩みを遅らせると、僕の方へと自ら近づいてきた。


 上官が呼んだと言うのに、すぐに動かないノロマな兵は、銃殺されても仕方ない。

 どこの国だってそれは軍隊の不文律である。

 しかし、ニーカにはそうするつもりはないようだった。


 代りに、冷たい凍り付くような微笑みが、僕へと投げかけられる。

 私が寛大でよかったわね、と、でも言いたげなその顔つきに、僕は嫌悪が顔に出ないように努めた。


 幸いなことに、冷たい朱国極東の風は、表情を凍らせるのにちょうど良い。

 それほど苦労することなく、僕は平静を装えた。


「もうあと半刻も歩けば、目的の村へと着くわ」


「……ですか」


「キリエ。先行して村へと向かいなさい、我々の来訪を知らしめるのです。村人全員を広場に集めておくように」


「……どうして私なのでしょうか」


 上官の呼びかけを無視しただけでなく、その深謀遠慮な軍命に対して異を唱える。


 もしこれが、旭国の軍隊の中で起こったやり取りだったならば、この時点で上官が拳銃を抜き、曇天に銃声を響かせていたことだろう。

 しかし、ニーカは怪しく微笑むばかりだ。


 なめし皮のコートを揺らして、紅い軍服をその隙間から覗かせる少女。

 彼女はくすくすと笑って、僕の頬にその手袋に包まれた小さな手を出すと、僕の霜やけた頬へと重ね、そのまま愛撫した。


「旭国の人間が使いにやって来た方が、彼らも驚くことでしょう」


「鍬持て、追い回されるかもしれません」


「生まれは旭国かもしれませんが、今、貴方は『我が同志の兵』に違いないわ。その軍服に敬意を表さぬものには、もれなく銃弾をくれてやりなさい」


 中央高級官僚の服と違い、灰色をした極東軍の軍服。

 これに身を包んでいるということは、僕は確かに朱国の兵の一人であり、極東軍の一員であった。


 顔つきや体つき、髪の色などは、まさしく旭国の人間に違いない。

 実際、僕は正真正銘、旭国の人間である。

 金毛、あるいは、赤毛の多い、朱国の人間には、到底見えない。

 そんな男が朱国の軍服を着てやってくれば、それは、言うまでもなく村人たちは驚くだろう。そして、実に滑稽な光景になるに違いない。


 しかし、銃弾をくれてやれとは、また、この少女は景気のいいことを言う。


 銃弾一発、必中の心構えで敵に挑め。

 さすれば、小国の旭国なれど、大国に勝つる。これこそ富国強兵の道であると、声高らかに僕たちに説いた、祖国の高官の顔が思い起こされる。

 なるほど大国に勝てぬわけだと、その貧乏じみた言葉が空虚に感じられた。


 もっとも、その言葉がまやかしであることは、旭国の敗戦と、彩国の崩壊によって既に僕の中では証明されたものだった。


 一発の弾丸で殺せるのは、せいぜい、匹夫くらいのものである。

 いや、であれば、ニーカの言っていることは正しいか。


 僕は腰のホルスターに収まっている銃に手を当てた。

 資源と国土に乏しい旭国と違い、北の大地の奥底に眠っている豊かな鋼材を使って作られたその銃は、触れれば手袋越しに分かるほどによく冷えている。


 一発、銃弾を放てば、その砲身から湯気が立ち昇り、たちまち手に馴染むことだろう。


 もう一度、僕はニーカへと視線を向ける。

 可憐にして醜悪なる銀狼の娘は、僕の頬から興味を失ったように手を離すと、行きなさいとだけ告げて再び馬の歩みを速めた。


 断ることはできない。

 旭国であっても、朱国であっても。

 軍部において上官の命令は絶対である。


 たとえそれが少女であっても。

 性悪な、従うことを無意味と感じるような命令であっても。

 上官が、やれ、と、言えば、やる、のだ。


 それが軍隊である。


 僕は新雪を踏み分けて駆け出すと、すぐにニーカを追い越して、まだ見えぬ、そして知りもしない村に向かって駆け出した。


 半刻、と、ニーカは言ったが、はたして、本当だろうか。

 地図を頼りにして向かうその村の存在を、少しだけではあるが、僕は疑った。


「……駆けなさい、黒い私の走狗よ!!」


 青い空に響くようにニーカが叫ぶ。

 踊るような声色が、早く駆けよと、僕の尻を叩いた。


 疑うことも許されぬ。

 逆らうことも許されぬ。

 軍隊とはどこにおいても地獄である。

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