エターナル・デイズ
絢谷りつこ
1:黄金の草原と神戸の風
黄金に染まった草は風に吹かれ、永久機関のように絶え間なく波を作り輝いていた。
夢の中の夕陽は没することなく、ただ空を橙から薄紫に、そして藍色に染め、また次第に金色へと移りゆく。
目の前の景色は蜂蜜づけにされたみたいに、甘く優しく、そして不確かに揺らめく。
『ミカル……』
塒へ帰る鳥の影を眺めていると、後ろから誰かが名前を呼んだ。
振り返ると人影が見える。でも像はぼやけていて、それが誰なのかどうしても確かめられなかった。
夢の中での意志は上手く作用しない。目を凝らしてもただ、金色の草原がただ鮮やかに脳裏に飛び込むだけ。
その夢を見た日には、いつも泣きながら目覚めた。理由はよくわからない。悲しいのかどうかさえわからなかった。
何が涙腺を刺激するのだろう。幼い頃から繰り返し見る夢の光景は、ただ美しく穏やかなのに。
ミカル・ラウが十四歳になった今も、その夢は続いている。
「またか……もう飽きたっつーの」
ミカルは肩を竦め、独り言ちた。
頬を拭いながら目覚まし時計を止め、部屋の中を見渡す。マンガばかりの本棚、机の上には放り出したままの参考書とノートパソコン、床にはゲーム機とソフトが散乱している。
ごく普通の男子中学生の部屋だ。ミカル自身も、ほんの少しほかの子供よりも小柄で、でもその分勝気な、平凡な少年だった。
ただ、西洋人の血が混じるその面立ちは、生まれ故郷の香港でも、今通っている日本の中学校でも少々目立つものだった。
低い鼻とほっそりとした体つきは東洋人のものだったが、明るい茶色の髪と色素の薄い目は、母譲りなのだろう。
そして、ミカルという名も母がつけたらしい。天使の名前をもじったのだろうと父が教えてくれた。
母のことはよく知らない。ミカルが幼い頃に離婚したとだけ聞かされた。それ以上追求しないのを、友人たちはドライだと非難する。
「ドライって言うか……」
その話をすると、父と姉のカレンの間に緊張が走る。父は平静を装っているが、カレンは感情を隠し切れないのか、深く傷ついたような顔をする。ミカルより四つ年上のカレンは、両親が別れた経緯を知っているのだろう。
それに気づいてから、ミカルは母のことを知りたがるのをやめた。普段は気が強くて口うるさい姉が、瞳を潤ませて黙り込むのなんて見たくない。でもそれを友だちに言うのは、なんとなく恥ずかしかった。
ミカルはパジャマの中に手を突っ込み、お腹をぽりぽり掻きながら、眩しさを堪えて、もう一方の手でカーテンを開けた。
窓の外に見えるのは、夢の光景とは似ても似つかないビル群、埋め立てられ幾何学的に切り取られた海と鈍重な生き物みたいに海面を滑るフェリー。
赤い小さなタワーと、象を呑んだうわばみみたいなホテル、それから古代生物の骨格標本のような海洋博物館。
メリケンパーク近くの高層マンションが、ミカルの住まいだ。香港を離れ、神戸の街で暮らし始めてから七年が経つ。
香港にいた頃のことはほとんど覚えていない。唯一記憶に残っているのは、父と姉との三人で見たミレニアムの盛大な花火だ。色鮮やかに咲く炎と爆音に怯え、姉の腕に縋ったのを覚えている。まだ五歳だった。
今いる場所を確認し、古い思い出をなぞる。草原の夢を見た後の儀式のようなものだ。
しかし、今日はいつもよりも現実と夢の境がまだ曖昧だった。
すっきりしない頭を振り、レモンイエローの飴玉を口に放り込む。添加物に神経質な姉の目を盗み、こっそり小遣いで買って貯金箱に隠していた物だ。
人工的に合成されたレモンの香りと、炭酸の粉末が口の中で弾け、それと共に気怠い夢の余韻も霧散していった。
海から吹く風は六月の湿気を巻き添えにして、少年たちの夏服の袖を膨らませる。
ミカルは同級生の
彼とは中学生になってから知り合った。クラスで一番背が高くて、表情もどこか大人びている彼は、密かに女子に人気があるようだ。だが、ミカルは彼が見た目ほど早熟ではないのをよく知っている。
「じゃあアユタ、また明日……て、何じろじろ見てんの」
いつもの信号で別れようとすると、アユタは何か言いたそうにミカルを見つめている。
「……今日は送ってくよ、ミカル」
「なんだよそれ。アユタは逆方向だろ」
ミカルの家は海側、彼の家は山手側、ちょうどこの信号を境に方向が分かれるのだ。
「そうだけど……。お前、寄り道してないよな? こないだ家に遊びに行ったとき、お姉さんが言ってたぞ。最近、帰りが遅いって」
「……ったく、アユタにまで余計なこと言って。姉さんは神経質過ぎるんだよ」
「そんな言い方すんなよ。優しい、いいお姉さんじゃないか。……それに、可愛いし」
少し頬を染めて目を泳がせる同級生を、ミカルは小首を傾げて見上げる。
「なんだ、アユタは姉さんに会いたいのか」
「別に俺はそんなつもりじゃ……! と、とにかく、お姉さんに心配かけんなよ!」
ミカルの言葉に耳まで赤くし、アユタは声を裏返す。焦った顔には、いつもの優等生然とした余裕はどこにもない。彼のこんな表情、きっとクラスの誰も知らないだろう。
アユタはもう一度『すぐに帰れよ』と言い残し、火照った頬をぺしぺしと叩きながら去って行った。
「あの口うるさい女のどこがいいんだか」
姉に思いを寄せる友人を複雑な思いで見送り、その姿が視界から消えたのを確認し……帰り道を逸れた。
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