3.14ㅤ雪上の船


 ヴァネッサとラクトは今日、朝日が昇りきる前にヴェキン半島の付け根一帯にある最後の宿屋を出ていた。そこは、どこもかしこも雪が積もっていて、暗いながらもわずかな月の光に照らされた雪土は、まさに白銀の世界というに相応しい地だった。古代よりの武勲詩にすら大変に激しい寒波に見舞われると書かれているこの地、ヴェクス地方に足を踏み入れるのは訓練されたヴァネッサでも控えたかった。とはいえ、レガリアからフルハントの首都カルンまでの道のりで翌日足が動かなくなるほどの筋肉痛に苦しめられたラクトには、これまた控えめに言っても地獄でしかないだろう。


 行く道の、すぐ横には針葉樹林がある。幾つか樹の枝が雪の重みで折れ、落ちた枝にまた雪が積もっている。いや、それはあくまで見える限りのものだ。そう考えると、雪の積もった下にはなにがあるのかわからない不安に襲われて、ラクトは馬を寒さ以外の理由でいたわることとなった。

 

「さ、寒いね……。これは、み、認めたくはないけど、マナデンが甘っちょろく思えるよ。うう」


 当然のことながら、ラクトは身震いして、垂れた鼻水を凍らし、頭ではわかっている簡単な言葉を言うのさえ難しかった。歯をガチガチ鳴らしながらの聞き苦しい声を何とか聴き分けたヴァネッサが返答する。


「ははあ、これだけ寒ければ皮膚の感覚がなくなって、万が一斬られても痛くないだろうな。良かったな、ラクト」


 ただ、さすがに可哀そうに思ったのか、ヴァネッサは馬上で縮こまるラクトに強い酒を渡す。意味は言葉を介さずとも分かったため、か細い声で感謝の意を示すと彼はすぐさまそれを一口仰いだ。

 外気に触れる肌とは対照的に、酒が通った食道は焼けるようだ。心地よいため息をつく。そこまで好かないという理由から、酒類を持ってきていなかったラクト。しかしここでもまた冒険の術を心得ている相方の言うことを聴くべきだったのだと、スキットルを返す時に激しく後悔した。

 そしてその落胆具合が、すぐヴァネッサに伝わってしまったことにも。


「何だ? もしかしてまだ飲み足りないのか? 私の提案に素直に従っていればよかったものを。ああそうだ。ラクト、この前魔法を扱えるようになったのだろう? その練習をして、体を暖めればいい」

「今?」

「今だ」


 今、というのはつまり、馬の上で、ということだろう。蒸留酒の力で少しだけ体が火照ってきたラクトは、いつもの口ごたえを始める。


「い、今って……、ヴァナ、先ず僕はそもそも馬にまたがるだけで一杯一杯なのに、日が昇っていない今そんなことをしたらすぐに落馬してあらぬ怪我をしてしまうかもしれないじゃないか! だいたい、訓練に多くの魔力を消費したら、戦わざるを得ない場面で力が発揮できないことになる。こんなの、君の長年の経験からしても用意に導けるはずだろ?」

「いつも通りの饒舌っぷりだ。さあ、身体も温まってきただろう」

「うえ……、そ、そうだね」

 全ては自分の為だったのだろうか。ならば、彼女から貰ったものは酒だけではなく、本質的な温もりということになる。しかし、同時に「操られた」という印象を拭えなかったラクトは、結果素直に礼を言うことも出来ず、かと言って無視することも不可能だった。


「えーと、じゃあ、少しやってみようかな」


 そうして、ラクトの掌には土塊が咲いた。とても整った形状をしていて、まさにそれは、万人の持つ「結晶」の理想像イデアにみえた。ヴァネッサが満足げにその様子を眺めているのにも気づかず、彼はただ黙々と土の結晶を作っては壊し、創造しては破壊しを繰り返した。

 砕かれた破片が、きらきらと舞い落ちた。踊る光は温もりこそくれなかったものの、澄んだ空気と相まって幻想を現出させた。


 ◆


 目に映る氷の世界は、少なくとも人が住めるような環境ではない。加えてそんなヴェクス地方のさらに奥地を目指そうとするのだから、体感時間はかなり遅いはずだった。二人が宿を出てまだ半日も経っていないが、まるで一日中寒さに耐え抜いているような感覚に襲われた。その認識はしかし、ようやく日が昇ってきたことによって、間違っているかもしれないという別の認識に交替していく。もっとも、一番の目標は四人目のまだ見ぬ首領の住処である「雪上の船」を探すことであったが、いつの間にかより距離を移動することが目先の目標にすり変わっていた。


「ラクト……、ラクト!」

「ふえ!?」


 寝ぼけているラクトを一喝し、朝陽がお目見えになったことを伝える。これはただ単に夜明けの時間まで進んだのか、はたまた緯度が高いがゆえに日の出が遅いのかという質問を添えて。


「残念だけど――たぶん前者だね。個人的にはもう一日くらい馬の上に乗っているような気もするんだけど……、後者もすべてが間違いじゃないんだけど、極北メカニアじゃあるまいし」

「そうか。じゃあどうしてこんなに霧が濃いんだ?」


 言われて、寝ぼけまなこを覚醒させるといつの間にか、十歩先すら目視できないほどの濃霧に囲まれていることに気付いた。 耳を澄ますと、水がしぶきを上げる音がかすかに聞こえたような気がした。


「あまり定かではないけど“蒸気霧”とかかなあ。川とか湖からでる水蒸気が、強烈な寒気に瞬間冷却されて霧になるんだ」

「この辺りに、水辺があるのか?」

「分からない、けど」


 ラクトは一つ、土の結晶を手に灯してみる。


「さっき、水音が聞こえた気がするんだよね」


 次に、何を感じたわけでもなくその結晶を雪の積もった地面にぶつけた。すると、カチッと乾いた衝突音の後に続き、パキパキと何か割れる音がした。

 それを聞き、思うところがあったヴァネッサが追われるようにして馬から降りる。結晶が突き刺さった所の雪をかき分けて、その下を確認する。


「ラクト、やっぱり、ここには水がある……!」

「え、ちょっと何を言ってーー」


 突然霧が晴れたかと思うと、二人の前には巨大な船が姿を現していた。

 先程までなかったそれ……、いや、ここにあるはずのないそれに驚くのも無理はない。ラクトが寒さをも忘れて大きなため息を一つつき、言った。


「そうか、ここは水の上……、寒気で凍った大河の上なのか!」


 船首がヴァネッサ達に向いたその巨船からは、かすかな人の声が聞こえた。しかしそんな些細な物事は、圧倒的な大きさを持つ船の存在感に掻き消される。そして寒さすらもーー


「ヘクショっ! うぅ、早く中に侵入しよう。外はもうこりごりだ……」


 寒さまでは掻き消せなかったようだ……。


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