3.9 寒中の教え

 扉を開けて外へと踏み出すと、途端に凍てつく寒気が押し寄せる。そのような厳しい環境から身を守るため、ラクトは宿に籠り、ヴァネッサは寂れた酒場に入り浸って情報を集めていた。

 地元の住民によれば、二人が訪れた日はこの時期稀に見る大寒であったという。彼らの言う通り、その後気候は安定し、雪も解け始めた。

「涙が意図せず溢れるが、その涙さえも凍ってしまうように感じられる」

 後にラクトはそう語る。



「正直、私も先日の気候には驚かされた」

「本当かい! だったらマナデンは“騎士団すら排する寒冷地”という二つ名を手に入れることになるわけだね」

「いや、その逆だ。私は雪国の“大寒”がどれほどのものか、と多少憂わしく思っていた。だが、正直“身を切るような寒さ”と比喩するのも馬鹿らしいくらいの甘さだったな」


 ヴァネッサは、今日も強い。ラクトの心に生まれた感想はそれ以上でも、以下でもない。ただ、そう感じて、口を閉じ続ける。木々は雪を被り、白さを増している。


「……さて、今日はどこに行く予定?」

「決まっている。バルークの言う“青の暗殺者”と、宿の店主の言う“山に居を構える盗賊”が共に位置している場所――前方に立ちはだかるルピア山」


 今まで常に眼界に侵入していた山を、ラクトは改めて見直す。命あるものすべてを凍えさせる大気を、まるで克服しきったかのように聳立しょうりつする岩山は、万年雪で白んだ鋭峰をひらめかす。


「君があの店主の言うことを信じている事実に、僕は驚いているよ」


 ヴァネッサが微かに笑い、肩を上下させる。小さな変化だった上に、馬上での運動であったから、当然周囲には何か行動を起こしたようには見えない。


「ああ、彼の言うことは信じようと思った。信用できる人だ」

「どうして?」

「ここら一帯は、人より鹿の数の方が多い地域だ。そんな場所で人をだます技術をどこで仕入れる?」

「……そういう作戦かも知れない。可能性は無くないだろう? 人をだませないような田舎者を装う、表向きの顔……」

「そうだな、そういった高等技術は是非ともレガリアの“詐欺行為研究所”にでも報告して、今後の教育の糧にさせてやれ」

「ええ、本当にそんな教育機関があるのかい!?」


 きちんと強調すべき場所を強調し、皮肉であることを表現したつもりだった。だが、生真面目に表の意味だけを汲み取る道一本で生きてきたラクトに、裏を予測させることは不可能に近い、ヴァネッサは今のやり取りでそう確信した。

 木々を十本かそこら見送って、ヴァネッサは言い放った。


「私も今、この瞬間ラクトをここに置き去りに出来る。これまでの信頼はすべて“表向きの顔”であったら、それ以上のこともできる。逆もあり得る」


 すべてを言い終わらないうちに、ラクトは馬上で姿勢を正す。同時にヴァネッサの後ろ姿を見ながら冷や冷やする。これまでの注意とは、訳が違った。

 そして、千秋の如く長い時間を体感した。幾つ蹄が雪を踏みしめる音を聞いたか。幾羽頭上を鳥が飛び去っていったか。

 ヴァネッサの言葉は、そして続いた。


「だが、私はそんな事は出来っこないし、ラクトもそうだろう? それはここまで共に旅をしてきて培った、共闘の志――つまり一種の愛――が間を補填しているからだ、違うか? 私はただ、あの店主と会って、それに近いものを感じただけだ。それを信用に値する、ただ一つの兆候だと私は信じた。それだけだ」


 ラクトの目に映る雪の輝度は、先ほどより明らかに和らいでいた。



 甲高い鳥類の鳴き声と共に、ぜえぜえとひどい息切れの声が大自然を駆け巡る。見ている者全員に今に倒れるのではないか、と思わせるであろう姿勢だ。もちろんその顔も、目、口、眉総てが疲労困憊の極に達したと伝えている。その一歩手前を行く者の足取りは軽やかなのだが。


「ぜえ、はあ、ちょ……、っといいかな」


 蚊の鳴くような声量だった。


「僕は、馬に乗るのは時間の節約と体力を確保する為だと思うんだ。そこに……、異論はないかい?」


 ヴァネッサは前を見、四肢を動かしながら頷く。ラクトはそれ故、質疑応答の時間さえも動き続けなければならないという“節理”を知ったのだった。


「それでだね、どうして平坦な道よりも、体力の消耗が激しい山地に限って馬を使えないんだい? 不条理な気がするよ……」


 ヴァネッサは取り合わない。少しの間登山を止め、鼻で笑ったかと思うと再び進む。これにはラクトも不満を顕わにし「もう僕はここですこし休ませてもらうよ! 後で追いつくからさ!」とささやかな抵抗を図る。

 だが、それが長く続くはずもなく、息を整え終わるとすぐにヴァネッサの背中を追った。そして、一つの洞窟が、ヴァネッサの前方に谷を挟んで位置していることが確認できるのだった。


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