第29話 取引
ヴァーミニスが卓に倒れ込んだ。血溜まりが広がり、床に垂れていく。背後の部下も同様だった。ヴァーミニスの息だけが微かに残っている。
「鍛錬が足りないな」
モレットが静かに言った。女の一人が頭を下げる。思い出したようにイビが笑い出した。
ヴァーミニスは、息も絶え絶えにフィデンスを睨みつけた。
「貴様ぁ! 私たちを売ったなぁ!」
「おやおや」眼を丸くしていたフィデンスが、にこやかに笑みを浮かべる。「ヴァーミニス殿、ここはね、グルピアリスである前に、二つの世界の交わる街──ガシェーバなんですよ。大昔からこの街にはこの街の決まりがあります。それを乱す者は誰であろうが鉄槌が下る。そういうことです」
「重大な裏切り行為だぞ!」
ヴァーミニスが起き上がろうとする。女の一人が手を動かした。それで、血溜まりの広がる速度が増した。ヴァーミニスの躰が痙攣し始める。
「捕まえろ」
モレットが言った。三人の女が、片手を背後に隠してクライトに近づいてくる。
事情が分からなかった。交渉は穏やかに進んでいたのではないか。本能だけが激しく警告している。
「来るな!」
クライトは無意識に両手を構えた。女たちの足が止まる。おもむろに、モレットが立ち上がった。
「一度だけ言う。余計な手間を取らせるな。こちらはお前が死んでも不都合はない」
周りは敵だらけ、そう広くもない室内、反撃はできなかった。それに、ヴァーミニスの部下は何人も残っている。焦る時ではない筈だ。クライトは大人しく手首を縛られていく。
「申し訳ないが、工作員の件は頼みました」
フィデンスは手を振った。
「いえいえ、持ちつ持たれつといきましょう。私もこいつらの勝手な行動は腹に据えかねるものがありましたから、喜んで手伝いますよ」
「全てお任せします」
「トルガードの件はどうしますか。話が本当なら中々の案件ですが」
「自国の問題です。レスダムールを捕縛した際は、後日話し合いましょう」
笑みを浮かべたまま、フィデンスは頷いた。
「それは素晴らしいことです」
「では、失礼」
モレットが踵を返した。クライトも女に連れられて応接室を出る。ヴァーミニスの部下の姿は見かけなかった。そのまま、地側の代官所を後にする。
どこからともなく、女の魔法使いが集まってきた。雑踏に混じって様子を窺っている。イビが笑いながら怖がる真似をした。
(大変、あいつらと違ってクライトを生かす理由が無いから、クライトは間違いなく殺されちゃう)
自分が殺される。想像は出来たが、感覚が麻痺したように恐怖はなかった。
(そして当然、シアルも殺される)
焦燥感。走り出したい衝動が、強烈に込み上げてくる。
腰に、硬いものが押し付けられた。背後から女の声がする。
「ほんの少しだけ利用価値があるからお前を生かしている。ここで殺しても良いんだぞ」
(肉の壁が一杯ある今を除いて、いつこいつらを殺すの? やるなら今だよ、こいつらを殺さないとシアルが殺されちゃうよ)
イビが笑っている。クライトは深く息を吐き、地に足を着けた。
一人ではシアルを助けられない、ギブライドたちは倒せない。誰かの、強い力が必要だ。
それが、グルピアリスの工作員でも天側の代官であるモレットでも、問題はない。
街の天側に渡り、天側の代官所に入った。
しばらく歩いて執務室のような部屋に足を踏み入れる。モレットが重厚な造りの机に着いた。その向かいにクライトは立たされ、背後に二人の女が見張りとして待機する。
「私はこの街を任された代官だ。トルガードの侵略行為を止め、国を守る責務がある」
「取引がある」
「……言ってみろ」
「異界転換の要であるシアルの居場所を話す。その代わりに」
モレットが、クライトの生まれ故郷の名を出した。家族構成やシアルの情報も次々に挙げていく。
「良いか、この程度のことは既に分かっている。無論、トルガードがこの近辺にある世界の境目にいることもな」
クライトは歯噛みした。イビが笑っている。
「なら、トルガードを倒すのに協力する。俺の力は大きな助けになる筈だ」
「目的はなんだ」
シアルを助けたい。それを言うには躊躇いがあった。今更になって気恥ずかしさが頭を覗かせる。
笑った。
下らない感情だった。シアルはもう、血塗れの自分を見てはいない。真に恥ずかしがるべき相手はもういない。
「シアルを助けたい。それだけだ」
「そうか」息を吐き、モレットは机の上に手を組んだ。「確かに、お前の魔法は強力だ。通常の魔法使いが最速の魔法を行使する前に、それとは比べ物にならないほどの強力な魔法を行使できるだろう。だが、それがどうした。何故私が、危険を冒す必要がある」
「負けてしまえば意味がない」
「お前が加われば負ける恐れが出てくる。そう言っている」
「トルガードを倒す目的は同じ筈だ」
「その言葉は何を根拠に信じれば良い。お前の生活は全て仮初で、トルガードの人間として行動していた。それを完全に否定できるものはあるのか」
かっ、と頭が熱くなった。
イビの笑い声が聞こえた。歯を食いしばり、怒りを押し殺していく。
そもそも、モレットは自分を味方に引き込むつもりはない。何を言おうが無駄だ。モレットは交渉の卓に着いてすらいない。
(あぁ、面白い)
(黙れ)
イビが腹を抱えて笑う。モレットは手を組み替えた。
「さて、話に戻ろうか。私がお前を生かす理由は一つだ。有事の際の取引材料にする。その相手はトルガードかグルピアリスかは分からないがな。しかし勘違いしないでほしい。天の世界の人間でありながら地法を扱うお前は、我が国にとって不利益にこそなれ利益にはならない。いれば交渉道具としてはありがたいが、いなくても困らない。その程度の存在だ」
頭が冷えてきた。それで、切り札の存在を思い出した。
「俺が地法を使える理由は知りたくないか」
微かに、モレットは眼を細めた。
「勘違いをしているな。それは拷問にでも掛けて聞き出せば良いだけの話だ。取引材料にはならない」
やはり、交渉すらできないのか。シアルの命運を他人に託すしかないのか。
不意に、モレットたちが窓の外に眼をやった。
「何だ?」
外が、騒がしくなっていた。
戦闘音が鳴っている。少し距離はあった。激しさは瞬く間に増していく。
「フィデンスめ、面倒な後始末を押し付けたな」
僅かにモレットの表情が歪んだ。イビが鼻をひくつかせている。
「様子を見に行ってきます」
女の一人が部屋を出て行く。背後にいる二人の気配が忙しなくなってきた。
好機だった。グルピアリスが攻めに来たとしか考えれない。今なら三人を殺して脱出できる。
「頭分を失った奴らに、何ができるかな」
モレットは泰然としていた。クライトは口を開く。
「良いんですか、実力も魔法の腕も向こうの方が上でしょう」
「私は、彼女たちを信頼している。些かも不安はない」
落ち着きのなかった背後の二人が身じろぎを止めた。一瞬で気配が分からなくなる。
甲高い音が鳴った。
そう遠くはない。背後から衣擦れの音が鳴った。モレットが顎をしゃくる。
「しかし」
「ここは私だけで良い。加勢に行ってやれ」
「分かりました」
見張りの女たちが部屋を出て行く。これで、残ったのはモレットしかない。
殺すのは簡単だった。しかし、ヴァ―ミニス亡きグルピアリスに、ギブライドたちを倒す力があるのか。
女の短い悲鳴が上がった。足音が近づいてくる。勢い良く扉が開かれた。
「モレット・スローマン! 貴様に聞きたいことがある!」
ギュラスだった。
眼は見開かれ、息を大きく乱している。頭巾付きの外套は返り血に染まっていた。戦闘音は遠くから鳴り続けている。
「用は何だ」
モレットは微動だにしていない。視線だけがギュラスに向いている。
(良い機会だ! とりあえず両方とも殺しちまえ!)
イビが興奮している。クライトは動けなかった。殺すべきか、逃げるべきか。誰に加勢をすれば良い。最善の手は何なのか。
執務室は、ギュラスの荒い呼吸に満ちていた。
「俺の妹、マイヤロを知っているな」
一度、モレットは眼を瞑った。
「そうか、あなたがギュラスか。マイヤロから話は聞いている」
ギュラスは、モレットに剣を突き付けた。
「マイヤロは魔法指南の為にこの街に派遣された、そうだな」
「その通りだ」
「何故死んだ」
「答えらない」
「何故だ!」
ギュラスの腕が動く。剣の切っ先が、モレットの頬に触れた。
「それも答えるわけにいかない」
血が垂れていく。それでも、モレットの表情はぴくりとも変わらない。
「貴様が殺したのか」
また、モレットは眼を瞑る。ゆっくり開き、ギュラスを見据えた。
「私が殺した」
ギュラスが叫んだ。剣を大きく引く。モレットは動かない。イビが大声で笑っている。
そして、ギュラスの手が止まった。
「何故、クライトが危険人物だと知っていた?」
呟くように言う。モレットは反応しなかった。
(良いからやれよ! ほら早く! くそっ、手を出せないのがももどかしい! でもそれが堪らないの。そんなわけあるか! 早く死ね!)
複数の足音が近づいてきた。
グルピアリスの工作が二人、執務室に飛び込んでくる。武器を構えたままモレットに向き合った。
「良くやったギュラス、そのままモレットを押さえていろ!」
ギュラスはモレットに襲い掛かる姿勢で呟き続けている。モレットが二人に眼をやった。
「悪いが取り込み中だ、後にしてくれ」
「黙れ! 貴様はとんでもない外交問題を犯した。その罪をどう贖うつもりだ!」
「手順を踏んでだ。少なくとも、君たちにどうこう言われることではない」
一人が笑った。つられるように、もう一人も笑う。イビも笑いながら檄を飛ばしていた。
「その通りだその通りだとも! だがそれどうした! 貴様を隊長を殺した。俺たちにとって、貴様の犯した罪はそれだけだ! それが何よりの大罪なのだ!」
二人が武器を構える。ギュラスが、二人に切っ先を向けた。
「黙っていろ! 集中できないだろうが」
二人が息を飲んだ。途端、耳まで紅潮した。
「ギュラス、貴様どういうつもりだ!」
不意に、ギュラスが笑い出した。
「そうか、そう言うことだったのか!」
ギュラスが躍り懸かった。工作員の喉を貫く。反転しながら一閃した。
ほぼ同時に、二人の躰がくずおれる。
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