穢れぬロータス

@heyheyhey

第1話 敵の名

 幼馴染の少女の腕は、さらに細く骨ばっていた。石でできた枝に似たその腕は、もって数年の命を如実に表している。

 少女を救う為ならどんなことでもする。

 かつて固く決意した思いを、少年はもう一度心の中で唱えた。

「黙ってどうしたの? あっ」少女──シアルの青白い顔に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。「しばらく私の顔が見れなくなるから、寂しくなったんでしょ?」

 少年──クライトは苦笑して、シアルの傍らに座った。

「これで何度目だよ、今更寂しいも何もないだろ」

「そこは嘘でも、そうだね、とか言うところなんじゃないの?」

 シアルは死の淵に立っていても弱気を見せない。いや、死の淵に立っているからこそ弱気を見せない。これでは躰が限界を迎える前に精神が持たなくなる。

 だからこそ、急がなくてはならない。

「それで、躰の調子はどうなんだ」

「そうだなー」シアルは寝具から起こした躰を動かしていく「まあ、今日は調子が良い方かな」

「それなら俺がいなくても大丈夫だな」

 シアルは拗ねたように口を尖らせた。

「ちょっと、薬のこと以外はクライトの力を借りたことなんてないんだけど」

「寂しがるだろ?」

 クライトが笑って見せると、シアルは顔を逸らした。

「寂しがりませんー」

「おじさんたちに聞くぞ」

「どうぞお好きに」

 シアルは澄まし顔をする。しかしおもむろに俯き、筋張った両拳を握りしめた。

「ごめんね、私のせいで苦労掛けて」

 やつれた顔に深い陰が落ちる。弱気を見せているのではない。この場に至っても、シアルは自分の弱さを不甲斐無く感じている。

「気にするなって。最近じゃ毎年のことだし、どうせ冬の出稼ぎのついでなんだから」

「でも、手間は手間でしょ?」

「手間なんて思ってない。兄弟同然なんだから余計な気遣いはするなよ」

「ごめん」

 シアルは顔を上げようとしない。こんな時、どんな言葉を掛ければ良いのか。クライトは頭を掻き、穏やかに言った。

「だから謝るなって。そもそも今更だろ。そこはお礼でも言って送り出してくれよ」

 噛み締めるように頷いて、シアルは面を上げた。

「怪我とか、病気には気を付けてね」

「ああ、気を付けるよ」

 クライトはシアルの頭を撫でた。

 三年前から、シアルの背丈はほとんど変わらなくなった。ほんの少しだけ女らしくなった躰付きだけが唯一の変化だ。

 シアルは不満そうに声を漏らして頭を振った。

「女の子の髪に気安く触らないでくれる? あんまり気分が良いものじゃないんだけど」

 以前のように、シアルは普通に成長する日が来るのか。もう一度シアルの頭を撫でて、クライトは立ち上がった。

「悪い悪い。じゃあ、俺はそろそろ行くよ」

「他の子の髪は触らないようにね」

「触らないから」

「どーだか」

「そんな失礼なことは誰にもしないから。それじゃあ、来年の春にまた」

「うん、またね」

 撫でられて乱れた髪を直さず、シアルは小さく手を振った。


 クライトは上半身の服を脱ぎ、老人に背を向けた。

「これは我が奥伝。この儀式を持ってお主に全てを伝えたことになる。覚悟は良いか」

 老人のしわがれた声が森に広がっていく。露わになったクライトの背中は熱気に炙られていた。立っているだけで汗が滴り落ちていく。

「早くしてください」

「分かった、堪えろよ」

 金属の擦れる音が鳴った。クライトは歯を食いしばる。

 痛みが、背中を貫いた。

 全身が一斉に粟立つ。鋭い痛みが首筋を上ってきた。肉の焼ける臭いが漂ってくる。

「……もう良いぞ」

 老人の声が聞こえた。クライトは喘ぎ混じりに深呼吸を繰り返す。

 鼓動の度に痛みが強くなる。少し気を抜いただけで意識が飛びそうになる。次第に、汗塗れの躰が冷えてきた。背中を刺す痛みはようやく熱さに変わってくる。

 もう大丈夫だ。クライトは振り返り、頭巾付きの外套を纏った老人に向き直った。

「これで終わりですか」

 老人は火鉢に焼きごてを投げ入れると、頭巾を押さえて顔の汗を拭った。

「終わりだ」

「成功ですか」

「そうだ」

 クライトは、安堵の息にも似た笑いを漏らした。

 これで、未熟な自分でも一人前の魔法使いになれた。

「良いか、クライト。世界とは、天の世界と地の世界、この二つが存在する。そしてこの二つの世界の間を、死んだ生物より抜け出た魂たちが、新たな生物の核になって転生せんと飛び交っている。この魂に力を借りて行使するのが、俗に言う魔法だ」

 魔法とは、魂に言葉か動作で働きかけて力を借り、超常能力を行使するものだ。とてつもなく便利ではあるが、戦闘に応用するとなれば問題が生じる。

 それは、魔法の発動までに時間が掛かることだ。簡単な魔法なら直ぐに発動できるが、強力な魔法だと十数秒は掛かる。一瞬を争う戦闘にあっては致命的な隙だ。この隙を無くす、または短縮する為のものが、クライトの背中に押された焼き印だ。

「お主の背中にある焼き印には魂を封じている。これがあれば世界を飛び回る魂への働きかけは強くなり、魔法はより強力に、より簡単に扱えるようになる」

 焼き印があれば、難しい魔法であっても熟練者より素早く行使できる。簡単な魔法に至っては下準備無しに行使できる。

 これは、絶対的な力だ。

 クライトは躰の汗を腕で拭い、脱ぎ捨てた服を身に着けた。火傷に擦れて背中の痛みが増す。だが、それは心地好くさえあった。

「クライトよ、良く聞け」

 頭巾の奥に見える老人の眼が、鋭くなった。

「その身に刻まれた我が奥伝は、世界でただ二人、儂とお主だけが持つものだ。もしこれが世に広まれば、魔法というものが根本的に変わる。世間は大騒ぎとなるだろう」

「分かっています。誰にも口外はしません」

「見られてもならないぞ。一度でも露見すれば、お主は永遠に追われ続ける。捕まって口を割らなければ拷問され、割ってしまえば儂がお主を殺す。それを、片時も忘れるな」

 焼き印は秘中の秘だ。口封じの為に殺されるのは仕方ない。それは、とうの昔に覚悟したことだ。魔法の師である老人には感謝の言葉しかない。

 クライトが頷くと、老人は微かに頬を綻ばせた。

「これで、お主に教えることはない。間もなく焼き印が躰に馴染み、封じられた魂がお主の分身として顕現するだろう。しかし、本当に行くのか」

「それ以外に方法がない以上、やるしかありません」

「……険しい道になるぞ」

「分かった上でのことですから」

 シアルに掛けられた呪いの魔法を解く。この数年は、それだけを考えて生きてきた。何があろうと引き返すつもりはない。後は突き進むだけだ。

「なら良い。達成する為に必要な力は全て教えた。好きにすると良い」

「今までありがとうございました。必ずやレスダムールを見つけ出し、殺してみせます」

 この世に存在する全ての魔法を修めたとまで言われる大魔法使い──レスダムール。

 それが、シアルに呪いの魔法を掛けた敵だ。この魔法を解くには、レスダムールが自らの意思で魔法を解除するか、術者であるレスダムールを殺すしかない。

「気を付けるが良い。彼の男は強大だ。正面から挑んでも返り討ちに終わるだろう」

「分かっています。シアルを助ける為なら、奇襲でも騙し討ちでも何でもする覚悟です」

「お主の覚悟は知っている。お主が儂の教えを乞うてから二年、良くぞ精進した。今のお主なら、儂の仇でもあるあの男を必ずや打ち倒すことができるだろう」

「ありがとうございます」

「自信を持ちなさい。今のお主より上の魔法使いはそうそういるものではない。彼のレスダムールと言えども、備えが十分なら勝機はある」

 クライトは、深々と頭を下げた。

「今までありがとうございました。行ってきます」

 身を翻し、クライトは歩き始めた。老人の住む森を抜け、林を貫く細道を通っていく。

(ねえ、本当に行って良いの?)

 甲高い少女の声が、どこからか聞こえた。辺りを見回しても人らしき姿は見えない。

(こっちだって)

 眼の前に、掌程度の大きさの少女が現れた。躰が小さいことを除けば至って普通の少女だが、鳥よりも自由自在に宙を浮いている。

「師匠が言っていた分身か」

 眼の前で浮いている少女は、背中の焼き印に封じられた魂が顕現したものだ。その声や姿は、焼き印の主であるクライトにしか捉えることはできない。

(そうだよ。ちなみに、ウチとは声を出さなくても会話できるよ。何て言ったって、分身だからね)

(そうらしいな。俺はクライトだ、そっちは名前とかあるのか)

(イビって呼んで、意味は特にないけど)

 面白い少女だ。息苦しい旅路を想像していたが、思ったより明るいものになりそうだ。

(分かった。よろしくな、イビ)

(うん、よろしく。それでさ、あの人をそのままにしても良いの?)

 イビの眼が、妖しく光った。

 何を言っている。思わず、クライトは唾を呑み込んだ。

(どういう意味だ、師匠のことを言ってるのか)

(分かってるくせに。それ以外に誰がいるっていうの? シアルが危険な目に遭うことになるけどあの人を放っておいても良いの? ああ、ごめん。もう遭ってたね)

 イビが含み笑う。クライトは、背中の焼き印が疼くのを感じた。

(何が言いたい?)

(どう考えても、あの人は知り過ぎてるよ。シアルが病弱になったのはそういう魔法を掛けられたことが原因で、その魔法の効力を弱める方法も知っていれば魔法を掛けた人間まで知ってる。なんでそんな人間が、都合良くクライトの前に現れるの? しかも、レスダムールが仇だからクライトに魔法を教えるだって?)

 イビが腹を抱えて大笑いした。

(偶然にしたって出来過ぎでしょ! そもそもあの人は、恰好から見て間違いなく地の世界の人間だよ。なんでその地の世界の人間がこの天の世界で暮らしてるの? 不自然過ぎるでしょ。普通に考えればあの人がレスダムール本人か、その手先か。この二つだよ)

 有り得ない。師匠がレスダムールの手先。そんなことがあるわけがない。

(考え過ぎだ)

(考え過ぎだって?)

 イビが笑う。焼き印が疼く。

(ウチは自我こそ持ってるけどクライトの分身なんだよ。ウチが言ってるのはクライトが考えてたことそのものなのに何言ってるの? そりゃあずっと意識してたわけじゃないけど、薄々は感じてたでしょ」

 図星だった。

 弱っていくシアルに何もしてやれない、そう苦しんでいたクライトの前に、老人は救世主のように現れた。クライトに魔法の才能があると言って一から魔法を教えてくれた。シアルの症状を緩和させる方法どころか、その原因である魔法を解除させる方法まで授けた。

 こんな都合の良いことがあるのか。頭の片隅に収まっていた違和感が膨れ上がっていく。

(嘘を吐いて何の得がある。何か狙いがあったとして、今更シアルに何の用がある?)

(得が無ければ嘘を吐いちゃ駄目なの? 目的が途中で変わらないって、なんで断言できるの? あの人を放っておけば無防備なシアルは好き放題されるけど、それで良いの?)

 焼き印が疼いている。心臓のように脈動している。

 シアルを助ける。

 その為には、どんな障害でも見過ごすことはできない。それが、魔法を教わった師匠であろうともだ。

 クライトは来た道を走った。森に入って奥に進んでいく。老人の住む掘立小屋が見えてきた。足音を抑え、慎重に近づいていく。

 老人の姿はない。掘立小屋から物音が漏れている。クライトは立ち止まった。

(何、どうしたの? もしかして人殺しを怖がってるの?)

(うるさい、黙ってろ)

 焼き印の疼きが止まらない。イビが満面の笑みを浮かべている。

(大丈夫だって。周りには誰もいないし、あの人の存在を知ってる人だっていない。処罰を受ける可能性は皆無なんだよ。しかもあの人がレスダムール本人なら、全てここで終わり。一体、何を迷ってるの? 損は一切なし、益は一杯ある。何を迷うことがあるの? シアルを救いたいんでしょ。それなら、ね、やることは一つしかない。そうでしょ?)

(静かにしろ!)

 イビが笑っている。焼き印が疼いている。

(ほら、早く早く。早くしないと気付かれちゃうよ)

 シアルが衰弱し始めたのが三年前。それからはずっと、シアルを助ける為に生きてきた。魔法を教わったのもその一環だ。

重要なのはシアルを助けること。それ以外はどうなろうが構わない。

 師匠を殺す。クライトは腹を括った。

 右腕を前に伸ばした。掘立小屋に照準を合わせ、素早く右手を握り込む。それで、魔法が発動した。

 見えない巨大な手に、掘立小屋が握り潰される。さらにクライトは左手を突き出した。掘立小屋が炎に包まれる。

(最高、最高、最高!)

 イビが笑いながら飛び回っていた。木の爆ぜる音だけが鳴っている。焼き印の疼きは止まっていた。痛みも熱さも消えている。

(さあて、これからどうしようか)

 イビが言った瞬間、しわがれた笑い声が聞こえてきた。

「良くもやってくれたな、クライト」

 その聞き慣れた声は、燃え盛る炎の中から起こっていた。

「我が名はレスダムール。お主の幼馴染に呪いの魔法を掛けている者だ」

 こいつがレスダムールか。怒りで視界が赤く染まった。

 クライトは掘立小屋を握り潰して火勢を強めた。師匠──レスダムールの嘲笑が響く。

「無駄だ。そこに私はいない」

「どこにいる!」

「幼馴染を助けたくば、二つの世界の交わる街──ガシェーバへ来い。そこで儂を見つけ出し、見事殺してみせよ」

 レスダムールの声が遠くなっていく。シアルに呪いの魔法を掛けた張本人の存在が、遠く消えようとしていく。

「待てレスダムール! 話は終わってないぞ!」

「ガシェーバだ、クライト。ガシェーバへ来い。儂はそこで待っているぞ」

 声が炎に紛れていく。レスダムールの気配が消えていく。

 間もなく、レスダムールの声は聞こえなくなった。それから掘立小屋の焼け跡を探したが、出てくるのは焼け残った日用雑貨だけだった。

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