この頼りない腕で
「おい。俺は一頭も殺すなと言ったはずだが……?」
「誰も『はい分かりました』なんて言ってないしー」
「貴様……」
「確か山のルールじゃ、獲物の処遇は仕留めたものの一存なのよね。なら、この雄の毛皮は私のものってことで♪」
「アヤ。あまり強欲なことを言うと、今すぐ毛皮を焼きますよ」
「はあ!?」
「大体あなた、この巨大な死体をどうやって持って帰るつもりです?」
「そりゃあ毛皮を剥いで……」
「そのための道具は?」
「え? そんなの………あああ」
「そんなの、あなたが持ってるわけないでしょう。どの道、
「やっぱいけ好かないわねぇ!!」
「どういたしまして!」
「ふ、二人とも喧嘩はだめですよぅ……」
雌の群れは、既に一頭残らず逃げ去っている。
頭蓋を砕かれ絶命した巨大な羊の前で、アヤとハズキが睨み合う。
それをおろおろとヒカリが宥める傍らで、ヘイシンは内心冷や汗をかいていた。
(先ほどの止めの一撃。流石にあれをまともに食らっては俺も危うい。この女、俺との戦いでは手を隠していたな……。
加えて聖騎士の女。あれは普通十数人の聖騎士が力を合わせて発動させる類の結界術だ。それを一人で行使した上で、魔獣本体にダメージを与えず魔法だけを剥ぎ取る。しかも仲間の魔法には干渉せずに、だ。恐ろしい精度のコントロール技術。ただの小娘ではなかったということか)
そんな中、意外にも一番冷静なのはハイジュンだった。
「おい、お前ら。忘れてねえだろうな。俺たちゃ羊の毛ぇ狩りにきたわけじゃあねえんだぞ」
流石に、二人の女が気まずそうに眼を伏せる。
「そうだな。手っ取り早く済ますぞ。長居は無用だ」
そうしてヘイシンの言葉を締めに、一行は黄金色の神樹の根元へと歩を進めたのだった。
しかし。
数分後。
ぎぃぃん!!
「ぐおっ」
硬質な音が、黄金色の山に響く。
「くっはぁ。駄目だ、びくともしねえ」
「貸してみろ」
痺れた腕をぶらぶらと揺するハイジュンから、ヘイシンがククリ刀を貰い受ける。
大上段にそれを振り上げ、両足を大きく開く。
狙いは過たず、神樹の野太い根の一本へ。
「ぬぅん!!」
がぎぃぃぃぃぃぃん!!!
その結果。
ひゅん。
「ちょ、ちょぉおお!! 気を付けなさいよ!!」
真っ二つに折れた刃が、アヤの顔の横を飛び抜けた。
「ふむ。想像以上に厄介だな……」
根元から折れたククリ刀を掌で弄び、ヘイシンが独り言ちる。
大樹の根に生えた苔を見つけるところまでは容易であった。
太くうねる根の一本の、地面から浮き出た個所の下半分に、青緑色の柔らかな衣がみっしりと張り付いていたのだ。
問題はそこからだった。
神樹の一部であるその根は、押せど曲がらず、叩けど折れず、斬れど傷つかず、焼けど燃えない。
「これって結局、黄の魔法なのよね? なら、聖気で壊せるんじゃないの?」
「いや。壊せるには壊せるだろうが、その際に苔の魔力が失われてしまっては本末転倒だろう」
「というか、無理です。触ってみて分かりますが、とても私の術で破壊できる強度ではないですよ。かと言ってヒカリさんの聖術では破壊範囲が広すぎる。それこそ素材としての価値は無くなってしまうでしょう」
「ううん……」
頭を抱え込んだ一行の輪の外で、ヒカリは俯いていた。
これでは、まるで役立たずだ。
戦闘では足を引っ張り、採取ではやることがない。
皆が、自分に出来ることを一生懸命やっている。
それなのに、自分は。
違う。
誰かの役に立ちたいんじゃない。
私が、ヨル君を助けたいんだ。
いつも私を助けてくれるヨル君を、私が助けたい。
それなのに。
どうして私は、こんなに弱いのだろう。
こんなにも無力なのだろう。
込み上げてくる涙を気取られぬようにヒカリは外を向き、ごしごしと袖で顔を擦る。
そして、見てしまった。
見つけてしまった。
謎に満ちた生態。
孤独に隣り合うもの。
前回はツグミが、そして今回は、ヒカリが。
その、錆色の山羊を見つけた。
「っ~~!!??」
慌てて皆の方を振り返る。
アヤも、ハズキも、ヘイシンも、ハイジュンも、誰もそれに気づいていない。
大樹の幹を挟んだ向こう側。
赤茶けた錆色の毛皮の中から、闇の洞のような二つの眼が覗いている。
数秒前よりも近く。
ヒカリの背筋が凍った。
けれどその足は、考えるより早く動いていた。
「待ってください!!」
「え!?」「うお」「きゃぁ!」
その声に、他の四人が漸くその緊急事態に気づく。
そしてその時には、すでに玖害無角は一行の輪に加わっていた。
あたかも、最初からそこにいたかのような自然さで。
全員が一斉に飛び退く。
しかし、その中でヒカリだけが、その病魔の化身に正対していた。
「ヒカリちゃん!」「ヒカリ!」
駆け出したアヤをハズキが、ハイジュンをヘイシンが掴んで抑える。
二人は一瞬で判断した。
間に合わない。
青白い皮膚をした山羊の口が、震えるように開いていく。
い―。
その口が声を発するより早く。
ヒカリが膝を畳んで座り込んだ。
「待ってください!」
一瞬、時が止まる。
山羊の開きかけた口が、そのままに固まった。
「ひ、ヒカリちゃん……?」
ハズキに腕を掴まれたまま、アヤが小さく呟く。
その視線の先で、ヒカリは両手を地に突き、深々と首を垂れた。
「お願いします。待ってください。あなたの縄張りを荒らしたのは謝ります。直ぐに出ていきます。けど、私たちにはこの根っこの苔が、どうしても必要なんです。仲間を助けるために、どうしても必要なんです。お願いします。どうか私にヨル君を、助けさせて下さい……」
その場の全員が、言葉を失った。
5秒、10秒、時が過ぎていく。
「お願い、します……」
ぽたぽたと、苔生した地面に雫が落ちる。
そして、錆色の山羊の脚が、一歩踏み出した。
地に伏せられた栗色の髪の毛に鼻を近づけ、ふんふんと鳴らす。
アヤの顔が絶望に攣る。
ヒカリがゆっくりと、顔を上げる。
青白い肌。
こけた頬。
闇色の深い眼。
ああ、この山羊は、ヨル君に似てる―。
ヒカリの眼が、その二つの虚ろを真っ直ぐ見据える。
ヒカリはその中に、微かな光を見た。
山羊の脚が、さらに一歩を進める。
さく。
さく。
頼りない足取りで、ヒカリの横を通り過ぎ、神樹の根元へ。
そして。
いぃぃぃえええええ。
軋るような鳴き声を一つ。
体毛と同じ錆色の粉塵が、微かに舞い散る。
それは黄金色の光の中で淡く溶け、樹の根に染み込んで消えた。
皆の呆然とした視線を気にするでもなく、その獣は再び踵を返すと、ヒカリの横を通り過ぎ、さくさくと、頼りない足取りで歩み去っていった。
……。
…………。
「ヒカリちゃん!!」
その姿が消えて数秒、弾かれたようにアヤがヒカリに駆け寄る。
ヒカリは正座したまま、ぽかんとした顔でそれを迎える。
「この、お馬鹿!!」
「ひゃう!」
遠慮のない拳骨がその頭に振り下ろされ、ヒカリが悲鳴を上げる。
その頭を、アヤが抱きしめた。
「もう! 何でいっつもいっつも無茶ばっかするのよ!」
その腕が小さく震えているのに気づいた時、ようやくヒカリの時間が動き出した。
「ふ、あう、ふえええええん」
一気に緊張の糸が解かれ、ぽろぽろと涙が零れていく。
一層強く、アヤがヒカリの頭を抱きしめる。
そして数分間、ヒカリはアヤの腕の中で泣きじゃくった。
「お、おい。見てみろ、兄貴!」
「……これは」
二人の獣人が愕然とした声を上げる。
その、先ほど玖害無角が赤い粉塵を零した樹の根をハズキが見遣り、同じように声を上げた。
先ほど、どれほどの手を尽くしても微動だにしなかった不動の樹の根の一か所が、赤黒く変色していたのである。
そして、ハズキには分かった。
この一か所だけ、神樹の守護魔法が効いていない。
そして、徐々にその両端から黄の魔力が浸透し、魔法を掛け直そうとしている。
「ヘイシンさん。今です。この場所を支点に叩き折ってください!」
「
づん。
と、深く響く音を立てて、ヘイシンの体が沈み込んだ。
一瞬で下がった重心が大地からの反発力を受け、体を巡る。
腿から腰へ、腹から胸へ。
体内で螺旋を描く力の奔流が、ヘイシンの拳に集約されていく。
「噴!!!」
全体重を乗せた拳の一撃が、不動の樹に打ち込まれ。
みし。
めりめりめり。
折れた。
「うおおおお!!!」
ハイジュンが喝采を上げる。
ふぅぅぅぅぅ。
ヘイシンが長く息を吐く。
ハズキが唖然とそれを見つめる。
「こ、拳の一撃で……」
アヤとヒカリが、その音に驚き駆けつける。
「うわ」
「ふええ」
見事に叩き折られた木の根は、長さ2メートル程。
それを半周するように、しっかりと青緑色の苔が生えている。
ハズキにも、そしてヒカリにも分かった。叩き折られた根には依然、強い魔力が宿っている。
「これで……」
「ああ、これで、採取は完了だ。後は急いで下山するだけだな」
「は、はい」
「はあ。一時は、いや二、三回はどうなることかと思ったけど、何とかなったわね」
「油断するなよ。山の事故は下山時にこそ起こる」
「はいはーい」
「女……」
そこでハズキは、ヒカリの顔が暗く沈んでいることに気が付いた。
「ヒカリさん……?」
赤く泣き腫らした顔で、俯き、唇を噛んでいる。
最初は疲労と安堵で放心しているのかと思ったが、どうも様子がおかしい。
まさか。
「ひ、ヒカリさん。あなた、まさか、さっきの山羊に、菌を移されたんですか?」
「「「!?!?」」」
弛緩していた空気に一気に緊張が走る。
「ふえ?」
全員がヒカリを取り囲んだ。
「ちょっと、ホント、ヒカリちゃん!?」
「おい、大丈夫か!?」
「ヒカリ、無理をするなよ。正直に言え」
「はわわわ。大丈夫です。大丈夫ですよ!」
慌てて顔を上げたヒカリの体を、全員で捏ね回す。
「顔赤くないか?」
「疲れてるだけです!」
「おい、足が震えてないか」
「だから疲れてるだけですって!」
「ちょっと熱っぽいんじゃない?」
「どうせ私は子供体温ですよぅ!」
どうやら本当に大丈夫そうだと皆が納得する頃には、ヒカリは更なる疲労でぐったりと地面に座り込んでいた。
「もう。何なんですかぁ……」
その姿に苦笑したハズキが、しゃがみこんで訪ねた。
「ならば何故、あのような顔をしていたのですか?」
「ふえ?」
「これで里も、ヨルさんも助かるというのに、あなたが沈んだ表情だったものですから」
「う……」
「ヒカリさん?」
心配そうなハズキの様子に、ヒカリの顔が再び暗くなる。
それを、他の三人も心配げに見下ろした。
「だって、その……」
もごもごと、ヒカリが口籠る。
「だって、私、今回、何の役にも立てなかったから……」
「…………はい?」
ハズキの口が、ぽかんと開いた。
「勝手に突っ走って、皆さんを危ない眼に合わせちゃうし。ハズキさんは凄い聖術で皆を守ったのに、私は何もできなくて。羊をやっつけたのはアヤさんだし。根っこを折ったのはヘイシンさんだし。私、自分に出来ることをしなきゃ、って。ジンゴさんに、頼んだ、って、言って貰ったのに。私―」
「何を言ってるんです?」「何言ってんの?」
「何言ってんだ?」「何を言っているのだ?」
「ええ!?」
異口同音に四人から言われ、ヒカリの肩が跳ねる。
「あなた、登りの道で散々先頭に立って魔獣を祓ったでしょう。あれのおかげで私は聖気を温存できたんですよ?」
「さっきだって真っ先に山羊に向かって行って、言葉だけで追い払っちゃったじゃない。ヒカリちゃん以外の誰にそんな真似ができるのよ」
「しかもそのおかげで、我らだけでは打つ手のなかった採取に成功したのだ」
「おめえがいなきゃとっくに俺ら全員ここでぶっ倒れてたっての」
「あ。あう。はうぅ」
口々に浴びせられる言葉に、ヒカリが対応できずにおたおたと手を宙に彷徨わす。
その、揺れる栗色の髪に、ぽん、と、優しくアヤの手が置かれた。
「詰まんないこと言ってんじゃないの。帰るわよ。ヨル君が元気になったら、思いっきりワガママ言って、困らしてやんなさい。私は命の恩人だぞ、ってね」
「うう。ふぐっ。ぐすっ」
「もー。また泣くんだもんなー」
「うえええん。アヤさぁぁああん」
こうして一行は無事に下山し、その日の夕暮れ、タンシャンの街に帰り着いたのだった。
……。
…………。
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