憎悪憤怒血涙散る空

躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ)

第1話

 恐ろしい数の命が飲み込まれたはずなのに、国内でも当日からネットでは一部の連中による被災者への罵倒と嘲笑の嵐に見舞われた、東日本大地震から数年後の事だった。




 今考えてみれば、敷居―ハンドルネームだ―はその心無いにも程がある文字の羅列を見た時にはまだ、完全に絶望してはいなかったのだ。

 あの日、あの曇天の空の下、まるで被災した地域にはその土地の出自の人間しかいないかの様に、突然訪れた絶望と不安と水圧の暴力と死、それらに見舞われた地域の被災者や、物資補給や救援活動、募金をしてくれた人々全てに浴びせられた言葉の数々。それらはまだ検索をかければあちこちのスレッドのレスやコメントで見る事が出来る。ログは残るのだから。


 大惨事を祝う人々もいた。世界各地から集まった募金を着服する事を厭わない人々もいた。

『今回の地震は天罰だ』

と言った人々もいた。

『死んで当然だ』

と笑って言ってのけた人もいた。

『それより働け。仕事くらいそこにもあんだろ』

と言った人もいた。

『援助金で遊んでるんじゃねえ』

と言った人もいた。


 陰謀論が飛び交っていた。

『意図的に起こされた地震だ』

とかいうレベルから、

『こんな植物が大増殖している』

などと言って写真を挙げて回る者までおり、それらは全て、救援活動の邪魔にしかならなかった。

『関東地方はもう終わった』

などという話はもう聞くに値しなかった。そんな事、あの時の夕方、ネットが復旧した時に見た動画で嫌と言うほど良く分かっていた。放射能がどうしたとか、もうそれどころではない事態になった事が様々な動画でそれとなく分かったのだ。

 それに自分一人で回している世界でもない。


 当時の政権はあの非常事態でも何も出来なかった。

 食糧補給を国民に自粛しておきながら、自分達は買い占めて官邸に引き篭もった。

 被災地域に食料が運ばれる事を阻んだ政党もあった。

 それがあった事が、ネットで流れていたそれらが事実であるのなら、歴史に刻まれるのを望むしかなかった。


 そうなったら腹をくくるしかないではないか。屋内にいたが助かった敷居は、そう思った。

 住んでいた部屋は古いアパートだったが、戦後すぐに建てられたとかで、耐震構造はバッチリだったのだ。

 生き延びる事が出来た理由はただそれだけ。

 ネットでは、各地で避難所へのルートの呼びかけと、それに乗じて個人情報を抜き出そうとする輩による謎のアドレスへの誘導が交錯し続けていた。


 駅が閉鎖され、とりあえず様子見するしかない事。

 出来合いのものまでの買占めが発生している現状、今後食料をなるべく無事に確保出来るかどうか。

 それの方が今は大切だった。

 来年どうするか。

 来月は?

 明日は?

 数時間後は?

 脳内で平和ボケしている側の自分が問いかけて来るのが鬱陶しかった。

 知るか、くたばれ。先の事より今の輪番停電に自分の居住地域が含まれるか。それは何時からなのか、どれほど続くのかを知る方が先だ。どう過ごすかとかそれどころではない。

 それでも問いかけるというのなら、耳障りだから遅ればせながら朽ち果てろ。疑問に溺れて見えない所で息絶えろ。片付けの邪魔だから遺体も大気に拡散させて、生きていた記憶さえ誰かの脳裏から消去して遠慮なく死ねばいい。

 ホラー映画やパニック映画に登場する、最初にロストすればまだいいタイプの、時には矛盾に満ちた自分の意見を押し付けて他の人間を押し退けたり、窮地に追いやったり殺害して助かる奴とほぼ同じだ。散々見ている側を苛立たせ、重要人物を無駄に死なせ、差し伸べられた手に切りかかり、そのくせラストで安全地帯に逃げ延び、ソファを占拠して一服吹かしてるあいつだ。奴らと同じなのだ。

 だから今すぐくたばれ。お前の気配りとやらや行動の全てが、他の数多の善意を駆逐してしまうから。

 俺が俺の都合で言う。お前が今すぐ何処かで死んでしまえ。


 自分の脳内でそう呟く事で、落ち着く事が出来た。こんな自分を見られるのは嫌なので、

『同居人などがいなくて、本当に良かった』

と感じた。


 震災によって生じた瓦礫を受け入れる地域に自分の土地が含まれそうになった時、ネットではそれまで心配の声を上げていた知人が激しく拒否活動をしているのを見た時、敷居は

『あんたもなんだな』

と思った。相手にはそれについて何も言わなかった。

『自分の所で引き取れるのかと言われたらまあ、無理だろうな』

というのを、見たくない所で見てしまっただけだ。それを見ただけでもう沢山だった。


『平和だったんだな』

と感じた。

 続く政治不信で、一部の富裕層を除いて、みんな生活が大変なはずだった。その中で起きた大惨事だった。

 それでも平和だったのだ。あれらの言葉を投げかけた人々が、自分の家族や隣人や友人や親戚、そのまた知り合いが現地にいるかもしれないのに全く理解せずに、ネットにある断片的な情報から見たいものだけを選んで、特に推敲する事もなくコメントを書き捨てられるほどに。

 それを『平和』と言うのならだが。


 それでも敷居は、どうにか生きている。

 あの日以降、数え切れない人と連絡が取れなくなった。

『昨日まで話をしていた、大事だったはずの人がそれだけいなくなっても人としては生きられるのだ』

と感じた。

 職はなくしたが、それで、自分なりにどうにか、まず、生きては来た。

 自分の中で、時間があの日で止まっている部分と今に至るまで動いている部分がある錯覚に囚われる。囚われ続けて来た。

 敷居は、連絡が取れなくなった人達の事を覚えていられる内は覚えていたかった。




 だが、もうそんな事はどうでも良かった。知った事ではなかった。

 贖罪が欲しいのではない。そんなものもう遅い。何を持って来たって奪い取るが許さない。

 それに目の前で今起きているこれは、それとは全く関係のない事だし、今回不意に、あるきっかけで自分が自分に見切りをつけた。

 ただそれだけの事だ。




 モガ―ハンドルネームだ―はいつもの様に自室でネットに向かっていた。

 二十代半ばの白人女性。今は仕事上がり。

 トランジスタグラマー体型に絡み付いた汗をシャワーを浴びて洗い落とし、夕食を済ませた後。大き目のTシャツで下にはキュロットスカート。それが彼女の私室でのラフな部屋着だ。

 ケアを怠らないボブカットの下から腰までのロングの髪はハイライトの金髪。それを今は解いている。いつもはまとめてあるからとても楽だ。

 住み込みの仕事だが、明日と明後日は職場のみんなが揃って連休なのでゆったり出来る。解放感もひとしおだった。

 着信メールやいつもの巡回先をチェック。欲しい物が見つかったので適正価格を見るべくネットに商品名を打ち込んでチェック。セール品になるかどうかは数年経たないと分からず、それまで生きているかどうかも分からない。そんな品物だった。

 次にあの規模の地震が来た時に安全な場所にいるかどうか、もしくは逃げられるかどうかも判然としていない。

 目的地の旗が見えなくなった大海原を小さなボートで漂っている錯覚。それがかえって購買意欲を誘った。

「買っちゃおう」

 モガはいつも利用している店を選んだ。配送や梱包がいつも丁寧だし、ある程度なら発送日などの相談にも乗ってくれる。

 失礼のない様にレビューを書いたり、お礼を伝えたりする事もしばしば。


 そこにSNSでの知人からメールを介するメッセージが届いた。敷居からだ。

 ここでよく話す相手であり、出会ってからかなり長い。このSNSで避けた方がいい話題や過去にあった面倒事がまとめて見られる辞典サイトなども紹介してもらって、とても助かっている。

『趣味の合う人でさえ、自分の発言で興味のある部分はたかが知れているので、他人が見られない様にアカウントを特定の人のみに開示するモードにしておくのがベスト』

というのが、教わった中で一番ためになった事だった。それを知ってからは

『友達になりたい』

との申請が来た時には相手のアカウントのここ数日の発言をざっと見る事にしている。

 ネットに限った事ではないが、肩書きほど当てにならないものはない。ログを読めば申請して来た相手のおおよその人格は掴める。危険なアカウントは、それが圧力としてモニターから伝わって来るほどに丸見えである。

『友達になった瞬間から関係が崩れるまでが秒読みですよ』

と示してくれるのはありがたい。


 さておき、敷居の文面はいつになく真剣なものだった。

『ご相談があるのですが』

とある。

「おお」

 モガは興味をそそられ、一応は丁重に返事をしてみる。

『こんばんは。TLでは駄目な事ですね?』

 ややあって返事。間隔が空くのはSNSでは普通の事だ。SNSはチャットとは違うのだから。

『そうなのです。この記事のコメントでちょっと』

という言葉の後に半角開けてタイトル、更に半角開けて、そこのものと思われる短縮アドレスがあった。

 記事は見た事がある。数年ほどにまたがってある作品とその関係者への脅迫行為を続けていた犯人が捕まった件に関してだった。

 世間や一部のファンの注目を集めた脅迫文からするに、目的は怨恨と思われた。作品に関係する人々の近くにいた事を臭わせていた文面。警察による捜査が行われていたが、一向に解決には向かわなかった。

『犯人ってもしかしてすごい人脈を持ってるか、それか政治家か富豪の家族とかじゃないのか?』

という意見が出て、その可能性の高さを信じそうになるほどに、傍から見ていても恐ろしいほど進展しなかった。

 結果として、それはあくまで表向きに公開されていた捜査状況でしかなかった。逮捕後、ネットで見た限りでは膨大な数の情報と数少ない証拠、それらと現場の職員らがずっと格闘し、犯人特定までに至ったのだという。

 モガとしては、ひたすら各所で叩かれながらも捜査をしていた警察に敬礼である。


 犯人が逮捕されるまでの間、もしもに備えて、作品に関する大規模イベントがいくつも事前に中止になった。ファンの犯人への怒りは凄まじく、それを煽る側には実に良い見ものだった事だろう。

 犯人像に関して多くの推測が出たが、モガ自身としては結果は拍子抜けするものだった。逮捕されたのは中年に差し掛かる無職の男。容疑をかけられたそれ以外の面々に関してはいい迷惑だろう。

 一連の犯行の動機は作品とそれに関係する各所、警察と世間に対してのゲーム感覚だったらしい。モガは呆れた。

『今時、警察に挑戦状って』

と思った。まさに、ファンの怖さを知らない奴の見本であった。

 ファンの一部には作品の為なら作者さえ殺しかねない超絶過激派が含まれているのだ。これまでにも何人ものアーティストや作家が自分のファンに暴行を受けたり、殺害されて来た。

 この男の年代ならその内の幾つかを知っているはずだ。知らなければかなりおめでたい奴だと言わざるを得ない。


 また、不特定多数による特定スレッドもネットにはある。許し難い犯罪を犯した者やそれを擁護した者を、数時間あれば突き止める、海外からの書き込みも含むそれは恐らく全国のご近所の目と思われるが、その捜査能力は警察や国のそれをしのぐとまで言われていた。有能さが過ぎて、そのスレッドに書き込んでいたと思われる一部から逮捕者すら出ているほどの見事な確度だった。

 今回、この犯人の確実な身元が特定された場合、彼の家族はおろか、友人知人親戚、近所の人々、通りすがりの人でさえ、ファンか、ただこの事態に悪乗りして暴れたい連中の何らかの害意をゲーム感覚でぶつけられる恐れがある。この犯人がその責任を取れる訳がない。通り魔同然の一部のファンからの報復をどうやって防げというのか。

 知人、隣人、そして全くの赤の他人などによる事件を集めた実話怪談の文庫本シリーズがあるが、

『それに登場する事件全ての、完璧な対処法を考えろ』

と言われているのと、ほぼ同じ状況。

 それらに載っている話の犯人は未だに捕まっていないか、平気な顔をして何処かの街に一般人として暮らしているのだ。


『見ましたよ~。こちらの記事は私も犯人が捕まって良かったと思っています。

 あんなやり方でイベントとか潰されたらかないませんもんね><』

『ですよねぇ。実は、記事の下のコメントの所でちょっとイラッとした事がありまして><』

『ん、どれですか?』

『犯人が四十代になる奴だったでしょう? それについて

『団塊ジュニアはろくな事をしない老害だからまとめてくたばれ』

ってコメントがいくつか散見されまして』

『うわ、それはえらく大雑把なくくりですね』

『そうなんですよ。それに私もそこで

『くたばれ』

と言われている団塊ジュニア世代なんですよね(苦笑』

 何故先ほどの記事を敷居が取り上げたのかを、そこでモガは理解した。文面の上では敷居が笑っているのが怖い。

 コメントに呆れた様子を作っておく。

『何という……犯人がそうだっただけなのに……嫌な奴ですねぇ><』

『ええ、

『ぐぬぬ』

と思ってしまって』

 まあ、そうだろう。モガ自身としては、例えば少年法の不備を嘆きつつ、何故かゆとり世代や新入社員全体に結び付ける様な印象であった。大雑把にも程がある。

『スルー推奨ですよ。今回たまたま目に付いてしまったでしょうけれど、明らかに何も考えてない意見だと思いますし』

『ありがとうございます』




 モガは文面から推察する。今の言葉で収める事は出来ただろうか?

 自分達の集いの幹事役に回る事が多いハンドルネーム・ジェイクによって開催されたオフで集まった時に、敷居と名乗るハンドルネームの彼を、会話しつつそれとなく探ってみたが、初見では派手めの外見に反し、礼節を重んじる人物だった。真顔でいると少しいかつい雰囲気。年齢は

『三十路を過ぎている』

との事でびっくりしたのだった。

『海外によくいる、ロッカーっぽい様子のオタクを目指して年をとりたいと考えていまして』

という事で、彼の服装のイメージがそれとなく掴めた。

 フェイクレザーのジャンパーの下に自分も知っているアニメのあるキャラクターのTシャツを着ていたのはそういう事か。ガチなロッカースタイルでもない所で、自己流のスタイルを貫いているらしい。


 それから何度か数人を交えてオフを開き、そこで度々会った。

 敷居は地方から出て来て仕事をしていたが、数年前の大地震で職場が駄目になり、辞表を出した方が被害が少ない状況に陥ったという。あてはあったそうなのだが、予定が狂って現在は求職中。地元も被災した為、

『故郷に帰って仕事を探す』

という選択肢は、彼にはないらしい。

 無遠慮な態度や八つ当たりが嫌いだそうなので、それで気が合い、趣味なども合い、ここのサービスでよく話す様になった。そちらの心配は必要ないだろう。

 が、ここでやり取りした限りでは過去に幾度も理不尽な修羅場に遭遇しているらしく、納得の行かない事はじっくり腹の底で煮詰めながら憎み続けるタイプだ。それを表に出さない様でいて、時折の独り言としての発言の端っこにそれを覗かせる事で溜飲を下げている事が分かった。

 そこが気がかりなのだ。他によく話すジェイクと共に、趣味の合う仲間として、鎮火は完全にしておきたい。

『敷居さん、今度またオフでみんなで遊びませんか? 気分転換に』

 ややあって、返事が来た。




『オフですか……』




 その一文だけで十分だった。モガの中で警報が鳴ったのだ。

 彼の中で自分達とのオフ会は遠い過去の出来事になっている可能性が高い。間違いなく彼の中でその理不尽なコメントがしこりになっている。それはやがて澱の様に積もって行き、不意に全ての人間関係を遮断した上で爆発する。

 これまでに幾度も見て来た、他者か自分の死を選ばざるを得ない状態に追い詰められた仲間や知人のそれらと同じ、腹をくくりかけている人間のそれを感じた。

 誰かの一言で確実に死人が出る。下手をすれば一人では済まない。

 またも唐突に、モガはそんなタイミングに放り込まれていた。


 モガは思考材料を増やすべく、敷居に話しかける。

 原因を潰せばどうにかなるのなら、可能な範囲で助力したい。今の職場に雇われた理由のひとつとして、幾つかなら一般人とまずすれ違わない層とのツテもある。

 まずは道で車にはねられたに等しいダメージを受けていると想定される彼の精神をこちら側に呼び戻さないといけない。困難ではない約束などで思考を縛るのだ。

『やりましょうよ、オフ!

 いつもの街でジェイクさん達も一緒に集まって。私、声をかけてみますね』

 間髪入れずに敷居が返事をした。

『あ、ちょっと待って』

 それを見ながら、ジェイクの助言を必要と感じたモガは、彼のアカウントのページをブラウザの別のタブで開く。チャットではないので複数とのやり取りが全員に表示されるタイプではないのが今は苛立たしい。

 それから返事をする。

『どうしました?』

『ジェイクさんにも、先ほどの記事の事で話をしていまして』


……もしかして、もうそのコメントを書いた奴の住所を突き止めているのではないか?

 モガはそう訊ねそうになった。深呼吸をして、それは打ち込まずに様子を見る。

 簡単ではないが、程度によっては難しくもない事だ。そちらに特化した知り合いが入れば即座に突き止められる。

 マグカップのコーヒーを一口だけ飲む。それから打ち込んだ。

『ジェイクさんは、何か言ってましたか?』

『同じ事で怒っていました』

 一拍置くかの様に、それに続く文章を受信。

『『団塊ジュニアだってそう呼ばれるのは嫌ですよね。

 よく就職氷河期の事で揶揄されるスレを見るけれど、僕らの頃には既に何処でも、経験年数数年以上の人しか採用されない職場ばかりでしたよね。ひょっとして僕らの世代は就職で全く苦労した事がないボンクラばかりだとでも思っているのかな……。

 自分も時々

『団塊はめんどくさい』

と思ってるけど、基本的には黙ってるのにな』(原文ママ)

って』

 敷居なりの誠意なのか、内容の食い違いを恐れたのか、どうやらコピー&ペーストで送って来た文面。

 とてもまずい雲行きだった。ジェイクにまで怒りが伝播し、増幅させられている。

 モガの表情が険しくなる。

『敷居さん、先に訊ねてしまいますけれど、相手の住所とか調べてないですよね?』

『さすがにそういうスキルはないですね』

 事実である事を信じたい。が、

『彼にそういうスキルがない可能性がある』

という、一笑に付してしまいそうな事がはっきりしただけだ。ネット越しでは何のあてにもならない。




『敷居さん、その件からちょっと距離を置きましょう。少し休憩を入れて欲しいです。

 ジェイクさんとも話してみたいので、少々お待ちを』

 敷居が放り出された気分になっていない事を祈りつつ、モガはジェイクのログを見る。

 基本的にSNSは海にビンを流すのと同じシステムだ。誰かに向けた言葉であってもそれは同じで、それぞれの生活時間を優先すべきである事から、今の様に敷居の場合ですぐに応答があったとしてもそれは当たり前の事ではない。

 最後の発言時間が数分前だ。敷居宛てである。

 ジェイクに通常モードで話しかけつつ、メールを介したメッセージで状況を問う。応答がある事を祈るしかない。

『こんばんは』

 ジェイクだ。モガも挨拶を返す。状況としては

『敷居とジェイクは怒りと困惑に囚われつつも、自分の言葉が敷居経由で届いている事で多少落ち着きを取り戻している』

と言った所か。そうだ、二人とも子供ではないのだ。感情を制御する術だって心得ているはずだ。

 彼らだって社会に出て久しい。そう簡単に暴発したりなどしない。

 タイミングさえおかしくなければ、当人らの逆鱗が剥き出しになっている所に色々不幸が重なったりしないものだ。


 そう思った所で、ジェイクから新たに返信。

『敷居っちにはまだ伝えてないんですが、実はお袋が昨夜、亡くなりまして』

 モガは右のこめかみに電流が走ったのを感じた。遅れて鳥肌が立つ。

 失敗してはいけない……突き放し過ぎない範囲で、差し障りのない返事をしなければ。

『それは……上手く言えませんが、ご愁傷様でした。あの、お母様はご病気か何か?』

『恐れ入ります。

 端的に言えば、母の死因は自殺です。ここ数年のうちの酒屋の経営不振でかなり参っていたみたいで。

 僕らそれぞれに宛てた遺書が見つかったんです。僕や兄貴達や親父に謝っていました』

 最悪だった。

 以前聞いた所では普通に就職した兄二人に代わり、現在その酒屋を継いでいる彼、つまり、母親の葬儀について考え、今後の事も同時に考えなければならない事でストレスが溜まる一方でしかない店主に、何故そのタイミングで、これまでに不幸な出来事が降りかからなければならないのか。

 モガはそれでも冷静に返事を打ち込んだ。

『そうでしたか……お話を聞いて私なりに考えたのですが、敷居さんもジェイクさんも、今は例の記事に触れるべきではないと考えます。

 ジェイクさんはおうちの事を。敷居さんにも

『頭を冷やしてはどうか』

って、なるべく穏やかに伝えて来ます。いずれの件も、お二人が悪いとは私は思いませんので』

『すみません。敷居っちには今、お袋の事を伝えました。

 彼にもお言葉を頂きまして、恐縮です。

 そうですね、これからうちの事で頭がパンクしそうですし、今夜はこの辺で落ちます』

『くれぐれもお大事にされて下さい。お返事は遅れても必ずしますので』

『ありがとうございます。色々すみません。では』

『おやすみなさい』


 死者が出てしまった。

 今回のそれにはカウントされない事を祈りつつ、ジェイクのアカウントページのタブを閉じる。

 次は敷居だ。ログアウトしていないといいのだが。

『戻りました』

『お手数をおかけします。さっきの記事は閉じました。

 変な話を持ちかけてしまい、すみませんでした』

『心配ご無用です。見ない方がいいですよね。

 多少なりとも気分が落ち着かれていたら良いのですが』

『気分が落ち込んでいたのだと思います。さっきのお誘いもありがとうございます。

 ジェイクさんのおうちの事は聞かれましたか?』

『伺いました。

 オフはまたにしましょう。みんな揃っての方がいいと思いますし』

『了解です。本当にすみません』

『今夜はこの辺で落ちますけれど、何かありましたらこっちのメールにどうぞ』

『分かりました。おやすみなさい』

『おやすみなさい』




 ネグリジェに着替える。

 ベッドに入っても、モガはしばらく、先ほどの事が気になって寝付けなかった。

 混乱する思考と冷静さを保った思考が入り乱れて並行で走っているのを感じていると、病院の睡眠導入剤を飲み忘れていた事を思い出す。道理で目が冴えてしまう訳だ。理由が揃い過ぎている。

 薬を水で飲みながら、同僚の部屋に行って寝ようかとも考えたが、今日それをすると何かが連鎖してしまう様な感覚を覚え、改めてベッドに入って目をつぶる。

 効果のおかげか、しばらくして眠気が彼女を優しく包み込んでいく……。

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