第107話 私はあんな世界に帰りたくない

 早朝、私とミュウちゃんは十分に用意をし、檻のむこうの世界へと挑む。

 家を出たとき、私の家に入ろうとしていた雫さんと出会った。


 いつもこの時間に来てたのだろうか。

 私の家に泊まってるのかと思うほどだったけど、ちゃんと自分の家に帰ってたんだ。


 それとも今日はたまたま?


「あれ、苺ちゃん、こんな早くにお出かけするの?」

「はい、帰るのはどれくらいになるかわかりませんけど、遅くなっても心配しないでくださいね」


「そんなこと言われると心配になっちゃうんだけど」

「あはは……、雫さん、留守はお願いしてもいいですか?」


「わあ、ずるい、そう言えば私がついて行きづらくなるのわかって言ってるでしょ」

「そういうつもりじゃないんですけど……」


 でも雫さんにはここに残っていてほしいというのは本音だった。

 私の居場所としてずっと待っていてほしい。


 私の帰るべき場所であってほしい。

 私に「ただいま」って言わせてほしい。


「まあいいよ。いってらっしゃい、苺ちゃん」

「ありがとうございます、行ってきます」


 挨拶を済ませ、雫さんに背をむけた時、後ろからいきなり抱きしめられた。


「雫さん?」

「……苺ちゃん、私は今幸せだからね、今も昔も、苺ちゃんがいれば私は幸せだから」


「雫さん……」

「だからね、無茶はしないでね。絶対に帰ってきてね」


 もしかして雫さんは私が何をしようとしているかわかっているのかもしれない。

 そして私に何もしなくていいという、やさしい選択肢を与えてくれたんだ。


 でも私はもう決めた。

 私は取り戻すと決めた。

 だから雫さんの言葉はうれしいけど、今は甘えるつもりはない。


「ありがとうございます。もし私がちゃんと目的を果たして帰ってきたら、雫さんに伝えたいことがあるんです」

「え?」

「その時はちゃんと聞いてくださいね」


 私は背中にいる雫さんの方を振るむくこともせずに笑顔を作る。

 きっと顔を見なくても私がどんな顔をしているのか伝わるだろう。

 私が今、雫さんの顔を想像できているように。


「それじゃあ行ってきます」


 雫さんが私を抱きしめていた腕を離した時、私は前へ一歩を踏み出した。

 ドラゴンの姿へと変身したミュウちゃんの背中に乗って一気に飛び立つ。


 チラッと後ろを振り返ると、雫さんは私たちにむかって手を振っていた。

 私も軽く手を振って返すと、速度を上げて鐘の門のあるあの島へむかった。




 海を越え、お花畑の島に降り立った私たちは衝撃的なものを目にした。

 あの鐘の門が氷漬けになっていたのだ。

 何が起きているのかはすぐにわかった。


 こんなことをできるのは恐らく雪ちゃんだ。

 そう思った瞬間に、氷漬けの門の後ろから雪ちゃんが現れた。


「雪ちゃん……」

「やっぱり行くんだね苺さん」

「はい、私は私たちの世界をあるべき姿に戻します」


 私の言葉を聞いて雪ちゃんは少しうつむいた。


「そんなにこの世界はダメなんですか?」

「そんなことはありません、私はこの世界で幸せなことをたくさん経験しました。ズタボロだった心を癒してもらいました」


「じゃあなんでこの世界から帰ろうとするの? あの世界はもう終わりなんだよ?」

「わかっています、今のままじゃダメだって。でもそれも含めて、私は元の世界に戻したいんです」


 私が帰りたいのはあの世界ではない。

 あれも現実の世界なんかじゃない、世界の大半を失った異常な世界が本物なわけがない。

 私が帰るのはそれらもすべて取り返した、幸せのあふれる現実世界だ。


「私はあんな世界に帰りたくない。夢魔と戦ったり、いろいろ背負って生きていったり、もう疲れたんです」

「雪ちゃん……」


 きっとこの子にとってこの世界は楽園だったんだろう。

 ここにいれば雪ちゃんが背負ってきたものは忘れていられる。


 夢魔とも戦わなくていいし、それなら前のように声を失ったりすることもない。

 私はそれを奪おうとしているんだ。


 でも、この世界はそんな完璧なものではない。

 実際にはもう夢魔たちは入り込んできている。

 それはそうだ、よく考えてみればここは夢の世界なんだから。


 夢のある所に夢魔はいる。

 だからこの世界に夢魔がいるのは、普通に考えれば当然なんだ。


 ただ雪ちゃんが欲しいのはそんな話ではないだろう。

 雪ちゃんはこの楽園を失いたくない、そしてあの魔白家の使命を背負った日々に戻りたくないんだ。

 私はそれを解決してあげないといけない。


「雪ちゃん、私はあの現実に戻るつもりじゃないんです。あそこでは私も幸せにはなれないから」

「それじゃあこの世界にいればいいじゃないですか」


 雪ちゃんの言葉に私は首を横に振る。


「私は取り戻したいんです、夢魔に奪われる前の世界を。そこで私は幸せな今を手に入れたい、私の本物はあそこにあるから」

「夢魔に奪われる前の世界ですか……、でもそれができたとしても楽しいとは限りませんよ? 現実が夢を上回るなんてありえませんから」


 ……それはそうかもしれない。

 現実ではないことを願うのが夢なんだから。

 夢は叶ったら現実となり、夢ではなくなるのだから。


「雪ちゃんには私が夢を見せてあげます、雪ちゃんのこと幸せにしてみせます、だから安心してください!」

「へ?」


 もしかしたら、いや多分、この世界での自由な幸せには届かないかもしれない。

 でも私はきっと幸せになれる。

 だから一緒に雫さんも、桃ちゃんも、そして雪ちゃんも幸せにしてみせる。


 じゃないと戻る意味がないからね。

 ここまでじっと話を聞いていたミュウちゃんも雪ちゃんに声をかける。


「ユッキ―、お姉ちゃんは嘘つかないと思うよ」

「……うん、わかってるよそんなこと。だって苺さんは私の……」


 雪ちゃんは何かを言いかけて、はっと口を手で押さえた。

 私がどうかしたのだろうか。


「はあ……、仕方ないですね」


 雪ちゃんがあきらめたようにつぶやき、そして門の方に手をかざすと氷が一瞬で粉々になる。

 砕けた氷がキラキラと輝いて、こんな空の下でもきれいだと思えた。


「苺さん、私もついて行きます」

「え、でも……」


「もともと夢魔の相手をしなければいけないのは私ですから。ここはちゃんと見届けないと」

「家のことは気にしなくてもいいと思いますけどね。一緒に来てくれるのは助かりますけど」


 正直どこまで夢魔が湧いてくるかわからないので、十分に戦える人が増えるのはありがたい。


「それじゃあ雪ちゃん、よろしくお願いしますね」

「はい」


 雪ちゃんとともに私とミュウちゃんは鐘の門をくぐる。

 再びやってきた檻の外の世界。

 今度こそ手がかりをつかんでみせるぞ。

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