『蠱毒にて蠢く。 汚泥にて覚醒する』
ーーより強く在るべきは戦う人間の心理ではなく、生きる人間が死なぬ様にとの摂理なのだ。
弱き英雄を彼は知らず、脆き正義も同じく存在するなどとも夢にも思わない。
力ばかりが尺度。 強さばかりが正しさであるのは、地獄では何も不可思議なことでは無く、その現実は彼の生きてきた場では当たり前であった。
悲哀は同情を呼び、そして強さを逃すならば、ただ兵士として戦士として善くあるべきであり善きは強きである。
ならばこそ殺したまえ。 殺される為に殺したまえ。
尊厳は既に戦場にはなく、あるのは意地汚い渇望だけでる。
高潔も高貴も崇高もーーただ蹂躙されるに相応しい穢れた思想なのだと。
卑しきは感情持つ生物の特権なのだと、そして自らはそれを賜った生物なのだという思い込みは傲慢であろうか、何とも、思えば思う程に、考えれば考える程に思想学者の思考などは浅いのだと思う他無い。
人徳も道徳も、引き合いに出すならば常識か……それらが戦火の渦中にて役に立った試しを彼は知らず、故に知恵を、理解に及ばずに欠片も読み解く努力もせずに求めるは、もはや知性を欠くのだ。
本能の向くままに争う人種を『獣』と呼ぶ世間は本質を何も捉えておらず、結果的に品性を欠いてしまい、残る知性を怠慢に使う事をしなければ獣にも劣る。
全てが生存へ。 全てが今に取り残される生存へ。 だが狩りからは逃れられず、自らよりも弱き者を仕留める狩人は獣を狩る為に、反射と血で生きる『毒虫』と化す。
戦闘の訓練など、人殺しに来歴にどう作用するというのだ?
機械仕掛けの叡智を与えられても、変わらずにいたまえ、そして殺したまえーー。
それが教えてくれるのだ。 そうやって教えてくれるのだ。
「姫司乃、充填は済んだか?」
口数は少なくはないが、機械兵の総隊長である彼はこの男の素性を何も知らない。
寡黙と言えばそうであり、それが理由に意思の疎通を組織でありながらも殆ど行わない実態の隊には、この男は相応しい。
第二機械兵団隊長は、同胞を自らの血であると思わずあくまで他者であるという念頭の元に、何の他意も無く殉職者の変わりについて言うのだ。
作戦を練らず、故に対策を講じず。 隊列を組まず、故に部隊内の士気は個人の采配に委ねられる。
ワンマンアーミーとは過大な評価の第二部隊は、だが、第四まである機械兵団の中では特に一介の帝国兵を震え上がらせる。
まだ機械仕掛けの核も肉に慣れ切っていない神奈斗と、総隊長である
擦り切れた黒革のコートは常に一部以外は表面的には新しく、銃弾を防ぎ刃を止める軍用コートも、単なる作業着感覚で着潰すのは度を超えた強さの証明である。
「お前にしては随分と心配性な事だ。 他の隊の連中を気に掛ける程に老いたかな?
それに離反してきたこちらの新入りの顔を見に来るとは、いつからそこまで優しくなったんだ」
「怯えを忘れた目を、もう一度見に来た」
低く、だがよく聞き取れる粒のハッキリした声ではなく、生気ももはや僅かに感じ取れる態度の眼は初対面ではない神奈斗へと向いていた。
その光景を見た姫司乃が気付いた事が二つある。
一つはこの青年を知っている事であり、交戦した戦域でしか敵対する者同士が見知る事は無い。
だが、神奈斗を値踏みし舐めて掛かりそして捕縛した彼を越す実力者が仕留め損なう程に、神奈斗は強くはない。
強者である事には確かに間違いはないのだが、それは所詮は埋もれてしまう。
如何にガンマンを思わせる銃の扱いも、そもそも鉛玉が通らず、もしくは掠らない程の人外相手には濃密な反復と努力も無駄なのだという無情。
そんな一介の少年兵が、この男に知られる理由はーー生き残ったからなのだろう。
二つ目気付きである傍から見ても突き刺さってくる神奈斗の殺気は、姫司乃が戦ったあの夜よりも更に強烈で、所謂 “人殺し” の目というのはこういうものだ。
「今ならばーー」
だが最初期の二人の邂逅からの相違点は、同じ領域へと神奈斗が踏み入った事だ。
しかし変わらないのは、そして変わりもしない。
やはり、あの時からそうであり、もはや性根は決して更正と強制が叶わないのだ。
そして神奈斗の癖は、豹変は如何にも分かりやすく示され、もはや口を大きく見せるように開け犬歯から唾液が引く様はまさしくただの獣である。
威嚇。 或いは飢え。 或いは捕食対象と仮定しての歓喜。
故に第二機械兵団隊長は、ある意味では訓練すべきとは違う根に殺意が染み付いた一つの駒を、そして望むのだ。
もはや単純明快なる強さよりも確かな要素は、それこそ折れぬ殺意と折れたとて尖りきった殺意。
腕が折れようとも足が折れようとも、だからこそ『ガリー・ゲルドハルド』は神奈斗がその様な人種であると、たった一日の邂逅をまだ記憶していた。
獣を思わせる様な、知性と反射で蠢き殺しに掛かる神奈斗のその姿に兵士を見る事は叶わず、獣を狩るならば獣に成り、そして彼は兵士ではない。
ただ殺す。 戦果などとは金銭的な報酬とつまらぬ名誉にしか繋がらず、糧へと、それが血肉へと成るならば自身よりも強きものであろうとも狩るのだ。
まさしく『狩人』。 獣よりも凶悪であり、毒虫よりも残酷な『異能力者』と呼ばれる神秘的な血塗れのナメクジを殺すならば、そうでなくてはならない。
「酔った良い目をしている」
ゲルドハルドは言葉を吐き出した時には神奈斗を吹き飛ばしていた。
刹那的な瞬間では威力は乗らないが、彼の精製する武装は機械兵の中では一つ一つが脆弱であるが、それも束ねれば強さを増すのだ。
窓を突き破り投げ出される最中に、邂逅した記憶は確定して呼び起こされ、それは何対になるのかも分からぬ程に密度は濃く翼と言うよりは虫の足。
蜘蛛。 百足。 思い浮かぶ害虫共では表せない不快な外見で蠢き、そして擦れれば金属的な音も同様に不快感を相手に与える。
一瞬で現れた夥しい数と密度の機械仕掛けの節足の一撃による衝撃は、しかし神奈斗は受けたのは初めてではないのだ。
姫司乃の静止の怒号もお互いに聞き入れる間もなく、場は晴天の元へと移行する。
機械仕掛けの核。 及びそれを原動力とする異能力『機械信号』。
だが確かに信頼を置けるのはこれまでに使い古した牙なのだ。
ーー故に神奈斗は銃を抜く。 所詮は人間であるならば本能は頭を使い、更に強くある事を望むならば時に修練をその本能が超える。
しかし戦闘狂は両立させるのだ。 冷静なる練度と煮える狂気が同時に内に同居するなら、それが可能ならば越した事は無いだろう。
そして銃撃とは一撃必殺の慈悲の無い殺意である。
狙いが頭部ならばと、首を捻りゲルドハルドが躱す事は何も難しくはなく容易い。
破られた窓の外。 晴天の元にて神奈斗はまだ機械仕掛けの特殊能力を現さずに、遂に両手が銃で塞がる。
無論これは訓練であり、手を抜くならば生命を落とさなくては意味が無い。
互いの干渉は不要だと。 組織とは群れにすぎず、だが兵士ではなく、兵器の軍勢には感傷は不要だと念頭に置く第二部隊隊長ゲルドハルドの信念とは反する行為も、単なる気の迷い。
より強く叩き上げ鍛え、再生と破壊の連続でしか強者は生まれない。
だが同胞の強者は常に自身にはプラス作用に転ずるだろう。
「稽古だ」
そう言うと無造作に破れた硝子を掴み割り、軍用コートが裂けながら彼も外へと乗り出す。
「訓練をしよう」
二度目の機械仕掛けの叡智は正真正銘の敵へは向かない。
だが神奈斗にとっては目の前の外敵には違いはなく、因果を拾い集めれば宿敵とも呼べるのだ。
多少、恐らくは多少は老いているがそれさえも確定して確信出来ない程度の年齢は、ゲルドハルドのただ強き事実しか誰もが知らぬ理由であった。
強い事しか知られず、ただ片手の指で足りる程度の帝国軍異能力者である死神のヴァルキュリアに対抗出来る存在。
そう、やはりこうではなくてはならないのだ。
強者にとって来歴はどうでも良い。 虎が元々強く、豹が元々速く、蜂が元々毒を持ち蜘蛛が元々醜悪である事には理由など無いのだ。
「ーー来な」
そして弱者に理由も必要無い。
弱き因果を弁解の言葉として口に出せば、この世の何よりもその者は醜悪で価値の無い人間に成り果てる事を神奈斗は知っている。
傷だらけの銃を持つ掌が『害虫』の異名のゲルドハルドを誘う様に招く。
鉛玉は既に装填され、右手の大口径の拳銃と、左手のショットガンが彼の今の牙だ。
牽制などと生半可な使い方を神奈斗は知らないのは無論であり、だがゲルドハルドの戦歴の中には銃の扱いに長けた者達が一体何人居たのか。
無数の虫の足の様な機構が左右対称の位置で寄り、集まり、密度を過剰に構成してゆく。
背部から両腕部に掛け形成すのは虫の前足に近しい形状で、ギチギチと甲虫の甲殻の軋みに似た異音が外であろうとも響き、想像出来るのは重くそして硬いという事実。
ささくれの様な鋭い棘。 多重で多量の関節。 それが主力兵装と言わんばかりに展開した数多は一つ一つが細く脆弱なのだ。
弱きは月日を重ねずに、だからこそ脆いが故に脆弱な手足は再生を繰り返す。
拳銃というには神奈斗の愛銃の吐き出す鉛玉は大きく、そして破壊性は想像に容易い。
頭を撃てば頭蓋を砕き脳を吹き飛ばし、腹を撃てば背骨を破壊するという人体に対しての破壊装置。
最大限全ての機構を脈動させ駆けたゲルドハルドの姿は
、一夜の一時間の半分の月の下にて、神奈斗の周囲の同胞をまるで害虫の様に容易く殺し尽くした日を思い出させるのだ。
速い。 速いがそれ以上に不規則な接近行動に右手のリボルバーは迎撃を行い、背部から前面に展開した機械仕掛けの節足を撃ち抜き破壊する。
神奈斗の得物が大口径である理由もあるが、ゲルドハルドの機械仕掛けの節足はそもそも脆いのだ。
故に、脆く弱く、しかし尖り確実に地面に刺さり、超加速で這えば穿たれた穴は軌跡となる。
希望とは掛け離れた、帝国兵を羽虫を潰すかの様に殺害してきたゲルドハルドの作り出す絶望の轍を神奈斗は記憶から呼び起こす。
「……毒虫」
そう。 鳥や獣では形容されず、何故ならばゲルドハルドの創り出す機構は、脆く容易く崩れ去る。
他の機械兵とは一線を画すのは、破壊性や防御力という数値化できるバロメーターではなく、機動性ーー否。
運動性や機動力も機械兵団の上位陣の中では並と呼べるが、時に不規則にも見える害虫の如き機動は敵対者にはおどろおどろしいモノに見えるのだ。
だから神奈斗はそれに成ろうと思い、そして倒す為にどの様な手段を選んだのかは、想像に容易いだろう。
『兵士』では届かずに、『戦士』では遠ざかるーー『人』を越えてこその存在にならなければ彼等には、強さを蓄えた機械兵には届かない。
だが機械仕掛けの核は発芽せず、それは内にある爆弾である。
恐怖という滾る火に対して、怯えという感情が羽化と呼べる事象を湿気らせるのだ。
「一発貰わないと本気になれないか?」
人間を棄てる覚悟。 未だに傷に塗れようとも、戦いに酔おうとも、それこそ誰かを殺めても神奈斗はまだ品性を堕落させた人間であった。
その気になれば俗世間に溶け込めたのだ。 誰かと愛し合えたのだ。 喜怒哀楽の全てが戦闘に支配される前に、真っ当な道徳の中で死ねたはずだった。
しかし彼の若気の至りは本物であり、省みないならば己を、そしてその叡智から得た牙を掛ける対象を。
あぁ、もはや彼は迫る多重の狂気の節足の攻撃に悲観しておらず、故に走馬灯などと呼ばれる白昼夢を見ないのだろう。
恐ろしいまでの手数を誇るゲルドハルドの攻撃は、斬るではなく突き刺すのだ。
身を捻り躱すには速く、そして多く……それは神奈斗の持つ二丁の拳銃も同じ理由で対処は不可能。
正しくこれは無毒であるが無害ではない殺傷力の毒針なのだ。
皮を引き裂き、肉を突き刺し、骨を穿ち断つ。
それこそが訓練だろう? 生き死にを除外した立ち会いを、生命を掛ける者達が行って良い道理など存在するのだろうか?
ガリー・ゲルドハルドは常々それを感じている。
実践と演習の境は曖昧でなくては、いずれ死を恐れ、怯えは足を竦ませるだろう。
そして神奈斗は反撃の機を無理矢理に作り出した。
前方からのその攻撃は見慣れてはおらず、だが一度見てしまえば記憶に穴を穿つ野性を感じさせる品性の無い凶行。
たった一人に対し膨大な針が向けられた後に、残る死骸は肉片に成り果てた事は彼の記憶には随分と鮮明に、鮮烈に焼き付いていた。
如何なる軍用兵器もその知性の無さには勝らず、時に刃物は銃や砲よりも残酷に人間を殺してしまう。
対峙した大きく強固な殺意の塊だが脚が竦む事は無く、質量を真っ向から削り取る為に大口径の銃を扱い始めた神奈斗は、だからこそ試すのだ。
(賢いな)
ーー兵器じみた少年兵が帝国軍の異能者部隊に居る。
殺した機械兵の数は片手で足りるのだが、しかし彼を殺し損ね取り逃した機械兵は両手の指の数ではとてもとても数えられない。
あの日のゲルドハルドは思った事がある。
その少年兵が覚醒に至らずに戦場に存在している事実は、敵として立った己としては物足りなさを覚えたが、有象無象の平凡な同胞には幸運だったのだと。
幾数、愚かしく機械兵と対峙し続けた神奈斗は鉛玉で殺せる知っているのだ。
銃で、刃物で、そして殺人を念頭に置いた体術でーー。
彼には受け止める防御策は無く、故に両手に握られ続ける拳銃は鉛玉を吐き出し銃声を響かせる。
機械仕掛けの節足の破壊音よりも、しぶとく続くのは彼の手練以上の銃の扱いがそれを可能にしていた。
腰のベルト。 袖口。 襟元。 はたまたグリップにまで点在した銃弾をゲルドハルドは見つけ、神奈斗はもはや強敵から生き残る事ではなく、完全に勝ち、そして殺す事を考えているのだと痛感せざるを得ない。
弾切れの直前、身体を捻り宙に零れた銃弾を、開けられた弾倉が勢い良く飲み込む如く装填する。
曲芸師の児戯も、生きるか殺すかの二択に迫られた場合はただそれを実用出来る様に昇華させる他ないのだ。
飛び散り続けた節足の破片。 視界にとってはどちらからしても障害。
鋭く固い棘の中から、自傷を厭わぬゲルドハルドは現れ、異能力『
「見たかったよ。 それに確信した」
この凶器の真価は破壊力ではない。 対人に限った話ならば研ぎ澄まされた業物より恐ろしいく、戦場に染った機構を有する。
斬れ味というバロメーターは業物に劣り、強度というバロメーターは鈍に劣る。
だが機械仕掛けの双頭に別れた長さが不釣り合いなブレードは、特に内側が外と較べ煌びやかに銀色を反射する。
神奈斗の右手の拳銃は挟み込まれ、腕を捕まえられなかったのは彼の恐れが良い作用として、超人的な反射神経を与えた。
第二機械団隊長ゲルドハルドの兵器を裁断するハサミは、今、こうして拳銃をバターのようにスライスするのと同じ様に、敵兵の皮も肉も骨も、凄惨さも感じられない程に慈悲無く切り刻む。
拳銃という鉄で成した武装が切断され、歪に変形せずこれまでの返り血で艶の消えた表面と比較して、その断面は輝きを放つ。
この鋭利さは鋼鉄だろうが特殊繊維だろうが分け隔てなく、紙切れの様に大概のモノを裁断するのだ。
「殺すつもりじゃないのかい? ゲルドハルド隊長」
しかしながら、神奈斗はその驚異を知っている事が引かず怯えない理由となる。
剣と同じ様に振るわれ、どの面も刃を付けた双頭の両刃が紙一重で躱した彼の黒く丈夫な皮と科学繊維の軍用コートを切り付け傷物に変えた。
しかし成型したのは右の一振だけだ。 無論ゲルドハルドの一撃一撃は殺害に相応しい威力と殺傷力で放つのだが、何も焦る理由は彼にはない。
舐める様に、だが値踏みする様に試すのだ。
「見せてくれ」
斬撃を大袈裟に距離を取って逃げた神奈斗へと、機械仕掛けの節足は追撃し、向かい打たれたとしても彼の銃の扱いを計る要素になる。
ここまでの技術は全てが白兵戦に向けられ、そして何度も何度も派手な体捌きの中で装填するは仮定する相手が一発の銃弾で死なぬ存在である事の証明。
奪われた右の拳銃の代用を抜こうとした手はゲルドハルドの声に止まり、掛けられた慈悲は神奈斗ではないが人種によれば神経を逆撫でする発言。
敵側にも知らぬ者が居ないという機械兵は、ただ見たいのだろう。
似た特性であろうとも、運用であろうとも、識者が見ても判別が不可能であろうとも、全く寸分の狂い無く『機械信号』は同じ武装を作る事は出来ない。
例えば同じ種類の虫の大きさを、色艶を、強さを比べる様にーー。
人が勝てる毒虫を挑発する様は大半が安全な部位を潰さぬ加減で小突くばかりであるから、ゲルドハルドはただ数多の節足を地面に突き立て穿ち、その達した神速とも言える間合いの詰めで蹴った。
軍人の身に着ける靴は、爪先に仕込まれているのはやはり鉄の板ではなく塊なのだ。
神奈斗の頭部へと下から突き上げる前蹴りの軌道で放たれ、既に殺傷力は十分。
人外の領域に踏み込んで尚、積んだ技量に重きを置く精神を破壊せねば真価を計れないから、ゲルドハルドは誘い隙を晒したのだ。
速く鋭い単なる蹴りを容易く躱す神奈斗だが、独立して稼働する機械仕掛けの機構は彼の片手にある拳銃という牙を弾く。
「興味があるんだ」
防御の網と呼べる虫の節足の様な機構。 そして害虫の前脚を思わせる機械仕掛けハサミ。 まだ足りぬ要素である甲虫の羽根を、異音を響かせ背面から表し始めた彼は、それでも外観に反して思考を感じさせる。
いたぶるのではない。 遊ぶわけでもないが、反射で生きる昆虫には非ず、品性を無くして知性で対象を推し量る。
「見せてくれないか?」
寡黙な男は、それでも全てに興味を失ったからそのようになった訳ではなく、そもそも齢は老いに片足を入れていてもある事象への熱は冷める事は無い。
ガリー・ゲルドハルドは若くはないが、だが軍属として二十年の経験を持ちながらも生き残った惰性で隊長格となり、そして彼の心持ちと意識は未だに一介の平凡なる兵士だった。
どこまでも、どこまでも賢くなく、それでも力と戦闘力の優位性だけで上の立場までのし上がったのだから、言動と性根は反する。
己が身を置く括り、機械仕掛け兵士が羽化を行うその瞬間ーー。
例えば、土色の外殻を破り現れる白銀の成虫。 例えば不気味にふやけた中身が艶めく攻殻となる成虫。
そして訓練とは言うばかりに対峙した対象が、己が身を己で引き裂き本性を表したのを目の当たりにして、寡黙な男は目を奪われた。
戦い続けるならば変革を。 生き残り続けるならば革新を。
戦場にて変わらぬ意志は足でまといでしかないから、ならばと己が切望し、そして貪欲に渇望し続けた。
どれだけ自らを痛めつけても、鍛えても足りぬ領域。
凶器の扱いは、狂気を纏わねば人外共にはとてもとても追い付けない。
精神状態は叡智の核に支配され、だが不快感よりも強く感じるのは死に急ぐ程に、このまま心臓が破裂してしまうような脈動だ。
確かに宿っている。 己を食い潰そうとしている故も分からぬ叡智は、硬く重く、しかしそれを牙として爪として胎内から産声を上げた。
硬く重いが、不定形な何かが飛び出した。 叩き上げられる以前の鉄の様で、単なる鉄塊では対象を殴り殺す事しか出来ない。
ーー多大なる不快感。 及びに過負荷により揺らぐ視界に映ったのは見落とす訳が無い、埋め尽くす程の相手の先端が甲虫の脚先の様に鋭利なニードルだ。
軍用の鉄板仕込みのブーツの内側が捲れる程に地を踏み、しかし怯えない精神状態はリアルタイムに遅れる事無く向かう殺意を目で確認し脳で確信する。
ーー好機だった。 このまま生物とは思えない異質なナメクジ共と戦う前に、こう成りたい、この様な強さを得たいと思えた相手が、加減をして殺しに掛かる現実は。
脈動が、果てしなく苦痛に近しい鼓動は内から青年の肉を食い破って現れた。
何処から現れたのか、その甲虫の持つ羽根ではなく『翅』に似通って薄い機械仕掛けの翼が晴天の空模様を透かしている。
「害虫か」
神奈斗の掌が地面を確かに銃を持たずに掴み、厚く長い軍用服の上から起伏するのは筋肉という人由来の証ではなく、硬く冷たい金属質の一対の翅だった。
筋組織を羽化の如く破り、羽ばたきは血と皮を撒き散らしその様は破瓜と言える。
あの日の威嚇で表した姿ではない。 駆け出しの初速を求めるならば、脆弱さを孕むとしても質量は軽く、火を噴く加速装置は体力を、つまりは生命を削るからこそ取捨選択で選ばない。
適応力は他の機械兵を圧倒しており、だがそれは彼の適正と才能が成した業と述べるのは軽率だ。
身を屈め耐え忍び、彼が待つのは痛みの和らぎなどという甘えではなく、それこそ死すらも受け入れなければという強制的な戦いの火蓋の切り口。
牙を剥いた獣ーー。 否。 ゲルドハルドの記憶の中では『獣』など、どれだけ凶暴であろうともたかが知れている。
もっとも危険な存在は、そこに品性と知性が存在してはいけないのだ。
威嚇とも聴こえる神奈斗の翅の羽ばたかせる音が、より高音でけたたましい騒音と豹変する。
前脚を奮い上げた蟷螂。 羽音を鳴らす毒蜂。 身体を軋ませる甲虫。 派手に不気味に蠢く害虫ーー。
敵が居る。 目の前に倒すべき殺すに相応しい天敵として、そのような意志を向けられていると痛く嬉しく感じていた。
やはりこうあるべきなのだ。 機械仕掛けの兵士は生命維持の名目でその叡智の核を埋め込んだ者ばかりで、それこそ道徳に準じているのだろうが……強者に道徳と倫理観など不要だろう?
より強く。 より逞しく。 より強固に。 自壊の一途を辿るとしても改善と改良を繰り返し続け、己の全ての性能が良き方向に転じなくとも、進化を止めてはいけないのだ。
光が透ける程の軽量で薄い質量の金属質の翅が虚空を叩く。
羽虫の如く羽ばたくのでは遅く、ただ一点、ただ一回の速度を求めた神奈斗の兵装は、現時点の練度で紛れもない最高の速度を叩き出す。
薄刃の翅は自壊に至りもげた。 死線を創り出してきた感の良いゲルドハルドは直感し確信する。
この青年は知る限りの機械兵の中で、一番最上に自らが恐怖を覚えた存在の真似事しているのだ。
「……」
翅が肉を突破ったが、求めた力を得たが、『宇宙ナメクジ』に匹敵する者と対峙したが、それでも神奈斗が無言で浮かべるのは笑みに似た威嚇的な表情。
そしてそれこそ、ゲルドハルドのあの日に見た怯えから脱却し、殺意を剥き出した彼の本性なのだ。
決して切れぬ視線は致死を見抜き、突貫して尚も二極の刃が伸びるブレードを躱した。
死ねば殺せないだろう? 躱さなければ当たらないだろう? 怯えて防御するのではなく、恐れて現れた牙は攻勢を望む。
銃弾を打ち尽くした拳銃に、金属質の物体はまとわりつき既にそれは硬化を始めており、ならば機構を一から構築するよりも遥かに容易く、児戯だろうとも効率的。
過負荷と再生を繰り返したゲルドハルドの『機械信号』により硬質化した身体は、剣では余程の業物で達人的な剣術でなくては切れない。
だから興味は引く事を、ならば興味は防ぐ事を拒絶して、左の脇腹に刃が接触した感覚を感じて尚も神奈斗へと言うのだ。
「見せてくれ」
神成神奈斗の自尊心は侮られようとも傷つかない。
手加減ではなく、この男が行っているのは観察なのだと理解している。
虚を突くなど、その様なつまらぬ小細工は必要無いならば、もう機械仕掛けの兵を相手に策を巡らせるなど徒労だ。
純粋な人の手で造られた銃に刃がまとわりつき、刃が立たぬ斬撃がゲルドハルドの脇腹を捉えた瞬間にーー切れぬから、撃ち抜けないから『銃剣』は触れた瞬間に自壊した。
爆炸したのは対物ライフルじみて対人で扱う銃弾ではない。
特殊繊維の防御盾を抜いて致死の弾痕を与える大きな大きな凶弾。
機構を展開している重いゲルドハルドを吹き飛ばす程の破壊力では、やはり自壊するのだ。
瞬間の衝撃。 瞬間の熱量。 未だに人体こそ機械仕掛けには至らない神奈斗の右手は砕けこそしないが、新たに生まれた抉れた傷が、また勲章として刻まれた。
全弾装填時にて三発の凶弾は一斉に火を噴き、立ち込める白煙は濃厚な火薬の匂いばかりが鼻にへばりつく。
「そんなモノじゃないのだろう?」
硝煙の悪臭の中で二つの脚で健在のゲルドハルドの言葉は、賞賛よりも未だに消えない期待の意志が蠢く。
そして淡々とした態度はダメージとは比例していない。
彼の左の脇腹は砕け散り、神奈斗の異能を使用していない弾丸の爆撃が、如何に人の身の業として常軌を逸した戦法なのかを思い知らせる。
だが血は流れない。 一つの部隊の長の血はもう枯れているのだ。
本来ならば吹き飛ばしていたはずの内臓幾つかは、既に機構として生成され内蔵されており、誰の目で見ても判断出来る『人外』と呼べる領域。
遠慮は不要。 配慮は無用。 まだ腰に下げている残りの拳銃を抜くよりも遥かに速く、神奈斗の単純な格闘術は彼の見てくれの背丈よりも重い一撃は、欠損部へと蹴り込まれた。
「あんたは、丈夫なんだな」
過去に殺した機械兵をこの爆撃攻撃に腹が抉れ血が滴り、肉が覗く傷口をこうして蹴り込
み臓腑を殴り付け、追い討ち死に追いやった。
無論、アレは半端な実力者であった事は彼も驕らずに、そうつまらぬ敵だったと記憶の隅に覚えていたのだが、こうも生命に届かぬのは流石としか言い様がない。
だが、隊長格であるゲルドハルドの唯一の弱味と呼べる要因は過度な破壊力の弾丸の火薬で破損のダメージを与えられる点だろう。
神奈斗に迷いは無く、劇的な激痛を伴って彼は武装を体内から解放させた。
肉を割いて現れた『杭』。 機構を持たない串刺しの『杭』。
肘から先端へと伸びたそれを、強力な握力で握り込み拳に纏わせ削り取る打撃を浴びせる。
これこそ、神成神奈斗のこれまでの戦歴と経験の真骨頂。
異次元の人外が蠢く渦中で生き残り、そして殺した体術は確実に僅かだろうが物理的に身を躱すゲルドハルドを削り取る。
頭部への狙いを容易く見切るも、それはフェイクだったと言わんばかりに追撃のボディブローは杭を機械仕掛けの身体の芯まで届かせる。
その間に、神奈斗の虚を突く二極の一対のブレードの一閃で一応は応戦してみるも、やはりゲルドハルドの見立て通りに不可解で理不尽な挙動で攻撃の最中であろうとも彼は躱してみせた。
この少年兵にはカウンターなどという甘えは通じず、肉を斬らせれば骨諸共確実に砕く。
命に届かなければ致命傷には及ばない。 至らぬ一撃はどれだけ多重に撃ち込まれようともーーゲルドハルドの再生は常人を一撃で破壊するそれを凌駕し続ける。
「いつまで拳闘の真似をしているんだ?」
いよいよもってゲルドハルドは破損と欠損が意味をなさない速度で修復の機構を稼働させた。
抉られた腹も、砕かれた腕も、千切られた足も、今はもう矢継ぎ早に生え形を成す。
しかしながら瞠目に値するのは神奈斗の無尽蔵とも取れる、未だに切れぬその体力だ。
短距離ランナーの瞬発力を維持して、長距離ランナーを思わせる馬鹿げた体力は、トップアスリートを凌駕する戦火の中で蓄えた殺人に向かう技術と体躯。
機械仕掛けではない鋭利で強固なだけの杭がゲルドハルドの正中線を捉え穿ち、刹那的な反射として機械仕掛けの節足が彼を囲うも、人の枠をまだギリギリで保つ神奈斗は恐るべき反射神経で感知し身を引いた。
「刺さったままだぞ。 隊長さん」
ふと、己の腹部に目を落とせば神奈斗の突き刺した杭は使用者から離れてそこに存在した。
成人男性の腕よりは太くはないが、何より怪物を伐つには相応ではある。
「ーーそうだな。 真似事が随分と好きな君なら、これは毒針のつもりか?」
ーー炸裂した爆音は銃声の範疇を超えた。
鼓膜を
神奈斗の現状最大限の異能力による兵装はこれだ。
鉄を引き裂く刃や、鉛を撃ち抜く弾丸やーー特殊防壁を焼き斬る光学兵器などを創り出す程の練度ではない。
だが銃と共に戦い、よって知り尽くした火薬という名の劇薬の強さは、今、何よりも確かな殺人兵器として扱える。
向こう側が覗く風穴をゲルドハルドは開けられたまま、ただ繰り返す「見せろ」という命令。
「……訓練は、終いか?」
自然体とは掛け離れた神奈斗の構えは両腕と上体を下げ、まるで何かを握り込むその直前。
小指に掛けて順を追って曲げられた手は、これから、今から、すぐさま、また攻撃の体勢に移る事をゲルドハルドに宣誓している。
まだ残る拳銃を確かにこの少年兵だった男は、恐ろしき速度で抜くだろう。
まだ『機械信号』を繰り出す体力は有り余るから、児戯だとしても凶器を生み出すだろう。
死線で生まれ、前線で生きてきた彼は、既に人間性を疑う反省を歩み続けたならば、覚醒などというのも、もはやご都合主義でも何でもない。
何度も牙を叩き付け、そしてまだ死なぬゲルドハルドという彼の知る最も脆弱で屈強な機械仕掛けの兵士と対峙し続けて尚、据わった目は獣を思い浮かべてしまう様なギラつき。
『兵士』を超え、『戦士』が生きる道だ。
「ーーそう、それだ。 ゲルドハルド隊長」
神奈斗は未知を恐れない。
己よりも優れた強者は、常に対峙すれば新鮮味を感じる事が出来るのだ。
返り血で錆び付いた心は、やがて逃げる事から逃げ、怯える事を怯えた。
一人でも多くの敵を、一匹よりも多くの害虫をーー殺す為に彼は生きて、その歪んだ感性を天啓だと断じ、他者の崇高な啓蒙を愚かと嘲笑い続けた。
否定により形成された人格は、好意の選択肢よりも確固たる強固な自我を造り上げ、それは決して迷いに惑わされず信念となる。
ゲルドハルドの機構は敵対視した対象に向けられる構造に変革し、特徴は恐ろしいあの鋏と、より強く束ねられて返しの棘が不規則に生え揃う害虫の様な節足。
再度の精製の姿は変わらず、しかしゲルドハルドは隠している。
『害虫』の名で呼ばれた男は、やはりどうして卑劣で残酷でーーそしてまた合理的なのだろうか。
「それだ。 勿体ぶるのは辞めてくれないか」
『害虫』とは持つ要素は何だと言えば、曰く激痛をもたらす顎と針。 曰く不快感を覚える羽音と容姿。
だがそれ以上に、第二機械兵団隊長ガリー・ゲルドハルドの特筆すべき他の機械兵とは一線を画す武装は、銃や剣よりも人間は恐怖すべき得物なのだ。
彼の何処からかその匂いはやってきた。 肉を腐らせ、骨を溶かし、脳と神経を食い破る人間の叡智。
正真正銘の劇薬は人間の知恵の中でしか生まれる事はなく、今、ゲルドハルドが剥き出した一つの針はその叡智の力を帯びている。
そうーーこうでなくては。 真の狡猾とは、油断に付入る賢さばかりではない。
卑しく狙う勝利は何も直ぐに手が届かなくとも構わず、先を見た末に殺せればなんでも良い。
鼻腔にいつまでもへばり付き消えないこの無臭の悪臭こそゲルドハルドの本懐。
対象をただ苦しませ死に至らしめる純粋悪の結晶。
由来は解らぬ。 誰にも解らぬ。 ただそれは、誰しもが容易に本能が判断する。
機械仕掛けすら破壊する、壊れと腐れの『劇毒』だとーー。
ーー陣形を組まないワンマンアーミーの集団が国軍所属第二機械兵団であり、その長であるゲルドハルドが単騎で弱いはずはない。
身勝手に戦い、それこそ身勝手に逃げる事も容易く行う誇りと良識の無い厚顔無恥の単純な強さだけの軍人。
そして方や同情に値しないただひたすら貪欲に、自らの命を引き換えに強くあろうとする少年兵だ。
孤児達の遊び場も、彼等にとっては今は都合の良い単なる広場に過ぎないが、姫司乃の倫理観は彼等二人に比べ生物の種を超えた程度に保たれている。
制止を促す怒号を確かに発したが、よりにも相手はその恐れを知らない二人。
そしてゲルドハルドが外へと出た際に、姫司乃に銃を向けた人物は静かにこう告げた。
「敵前で力量を図るつもりですか? 随分と、第三部隊の隊長はお厳しい」
武装精製が機械兵の本懐ならば、それこそファンタジーじみた作り話の様に、老いも若きも男も女も平等だ。
だからこそ、年端もいかない彼女は明らかに人の瞳ではない赤い目と、大きくハッキリとして澄んだ青の瞳で訴える。
「殺される前に私が隊長を止めます」
「ーーいつから第三機械兵団は同族殺しの集まりになったんだ、リリー副隊長」
大の男が見下ろす彼女は小さく、そして厚い軍用の革のロングコートを着込んでなおも華奢だ。
思考停止の実力主義の第三部隊で次席に着く少女は、才能だけでその席に座るのではない。
自らよりも相手の地位は高く、そして屈強だとしても断ずるならば驕って言うのだ「黙って見ていてください」と。
ーー何も、個々の連帯が著しく希薄な部隊内の特色はガリー・ゲルドハルドと『リアーネ・リディアード』の性格ばかりがそうさせる訳ではない。
しかしながら、同胞の死肉を必要とあれば踏み台とする彼等がこうも、明らかに神奈斗に固執しているのは言うまでもない。
彼が国軍陣営に寝返って日は浅く、加えて機械仕掛けの核を得た現実は、それこそ彼を捕縛し管轄している姫司乃と快く外道となったガエリオの2人しか知り得る可能性はありえない。
だが見つけたならば、聞こえたならば、医療行為を傷を蓄えた健全なる身体がどうなるのかの興味が湧くものだ。
「……まさか、貴方は彼がただ単に強敵と戦い続けたから強い、そうとしか思っていないのでは?」
『リリー』が愛称の彼女の発言に姫司乃のは確かな確信を察した。
彼女は神成神奈斗を知っている。 ゲルドハルドとの邂逅の縁でああやって戦闘を始めた事を知った今、このリリーの口振りは同じく戦火の中で見知った顔を理解して発言してるのだと。
そして彼は神奈斗の敵対者から同胞となった理解者のぽつりぽつり零し始めた言葉を聞き入るのだ。
「神成神奈斗。 従軍歴は15年」
凡そ半生の4分の3と言えば、どれだけ血塗れた来歴の持ち主なのかは想像に容易く、そして戦闘における道徳の欠落はその様な年齢で生き残る為に必要として切り捨てられた。
異能者の内、特に強者と称される『ヴァルキュリア』は己の下に着く者に、こう刻んだ。
“逃走は許さん” 。
彼女の言う逃げるという事の意味と意義は、背を見せて何ふり構わず恥を撒き散らしという意味ではなく、要するに彼等従軍者が世に出ないようとの願望だ。
兵士ではなく、戦士となれ。 鉛の刃で生きてきた人間が、そして他者の生命を容易く踏み躙る事を覚えた人間は、もはや決して俗世間に戻れるはずもない。
「15年、殺す事を考えてきた……か」
ましてや平仮名の全てを覚えるよりも先に彼は戦ったならば、学は無いが知識は有るのだ。
2つと3つの林檎を指差して数える知能も場合によれば拳銃の仕組みを完全に把握する。
士官学校という軍人の王道から外れた、いや、そんなレールを知ったのも最近なのだろう。
軍人のエリート。 だが、それよりも神奈斗の得た知識はより英才教育も呼ぶに相応しいのだ。
姫司乃は自らの人生観を鑑みて改めてこの世は上手く出来ているのだと思う……人間社会の下層に迫るにつれ、底に跋扈するのは人面獣心の怪物。
俗世間の清浄な空気では生きられない、汚泥に浸かり根を張る性根の少年兵は、もはや同情に値せず。
生き残れば生き残る程に、他者の血を浴び、肉と骨を食らうーー『宇宙ナメクジ』という異能力者、『機械兵』という兵器の人種を目の当たりにそして戦い続けた何処かで、怪物となるのは正真正銘に正しく最適解の進化だ。
「彼が三等兵などと最下層の階級なのは、その常識と学の欠落が原因です。
策略を理解出来ず、理解せず、隊列に加われない危険因子だからこそ、1対1で強敵と戦う機会が多かったのです」
「それが、願望だったか……?」
「無論でしょう。 現実にどう考えても彼の行動理念は軍勢の1人が持つ思想ではありませんし、過去に彼を知る人間達はその異常性に気付かないはずはない」
常に最善。 常に最良。 獣に近しい闘争を主軸とした性質は、生きるべき領域を悟っていた。
ならば逃走はありえない。 ならば脱出など許されてはいけない。
血に汚れた記憶は酸化する前に、鮮血で常に新鮮さを保つのだ。
殺人がしたい訳ではないから一般世間に逃げず、そして戦う事を忘れるつもりは毛頭無いから血溜まりに留まり続ける。
「隊長は彼の異常な、交戦意欲ではない攻撃性を知っているから目を止めたのです。
一桁の年齢で人を撃ち殺し、十を越えた時には、彼は既に人を殴り殺した経歴があります」
逃走から逃げた神奈斗に、学の無い彼に混沌な戦場は知恵を与えた。
どれもこれも、それらは知れば人間性をヒビ入らせ、実行すれば獣と呼べるまで精神を劣化させる劇毒の叡智。
確かにそうだ。 値踏みし神奈斗を捕縛まで追い詰めた姫司乃も、もはや兵士という崇高な存在から外れてしまったあの夜の戦士を思い出す。
勇気を超えた蛮勇。 冷静を超えた冷徹。 そして、自力で勝る者に向けた戦意は抵抗の類ではなく、紛れもなく殺意だった。
機械仕掛けの核を孕んで、更に確立した異常性。
現に、姫司乃の目に移る神奈斗はゲルドハルドの猛攻に身を穿たれながらも肉体も心も死んではいない。
「ーーそれで。 何か? ゲルドハルドは奴を自軍に引き入れ飼い慣らすつもりか?
確立された人間性が見事に壊れていたとしても、いや、壊れているならば、思った以上に異常性は鈍っているかもしれんぞ」
これがゲルドハルドと姫司乃の違い。
誰が、誰しもが感じるのはゲルドハルドの他者に対する考察と洞察の弱さだ。
機械兵団随一の戦闘力の高さと、敵対者の実力や性質を図る力は比例せず、リリーが言う言葉がゲルドハルドの本質ならば、その感情は期待に他ならない。
現に神成神奈斗は姫司乃に負け、ゲルドハルドに吟味され、そしてそもそも『宇宙ナメクジ』共に歯牙も掛けられなかった事実は、精神的な異常性だけでは強いとは言えない。
ーー姫司乃はその様に返すつもりだった。
しかし、リアーネ・リディアードは邪魔だてする意識の無い彼に向けた銃を下ろし、溜息を吐き、まるで理解者の様に言うのだ。
「ゲルドハルド隊長は彼の異常性をーー。 そして私はーー」
『リアーネ・リディアード』。
ガリー・ゲルドハルドが長となる、彼の率の無い軍勢である第三機械兵団の次席の少女は、もはや機械兵が男女の体格な隔たりを破壊した純粋な力の象徴だという事の体現者である。
機械仕掛けの核に対する適性に加え、士官学校を優秀な成績で卒業した能力は、身体が異形を宿す身となっても他者から嫉みの感情をぶつけられる程度には優れていた。
もっと幼い頃に思い描いた将来像は、こんな武装という殺意で身を覆う姿で戦うものではなかっただろうが……要因は彼女に力を与えた、彼女も力を引き出した。
だが、こんな身体になる前の過去は、目を瞑れば直ぐに思い出せ、何せ優等生として軍人となった彼女は女性でありながらも強かった。
「私は彼の強さを知っています」
「ーーさっきからえらく奴の事に詳しく調べた様だが、どういう事だ」
銃弾を躱し、刃物を受け止める戦士に出会うまでの話。
栄誉と名誉で彩られる事を信じ続けた彼女の人生は、悪意の全くないが、単純明快な強固な殺意を持つ男に容易くねじ伏せられた。
事戦闘に置いて、それ以外の要素は優っていたとしても暴力のエリートには及ばないだけの話を許容出来なかった理由は、人間を辞める道理と理由には充分である。
だからこそリリーはゲルドハルドへ進言した。
ならず者を超えた無法者、犯罪者を超えた殺人者の群れでも、神成神奈斗は十二分に目を引くであろうとーー。
“あの少女” に観戦させるつもりか、姫司乃の執務室に最後に入った当然背丈の高い黒人は、名も解らぬ少女の黒い髪を捏ねくり回し冷やかす。
「もてもてだなぁ〜? 嬢ちゃんのイカレポンチな王子様は」
規律が存在する軍という組織にて、尖ったサングラスと出生した地域ではありふれたドレットヘアーは風紀を乱しても許される立場の人間であるからだ。
姫司乃、リリーとゲルドハルドと同じく厚手の黒の軍用コートを着込み、そして腕章と僅かな装飾は唯一リリーだけが違う。
「第4機械兵団の連中は見に来ないのですか?」
「リアーネよぉ……お前はアレが精鋭になれると思ってるのかな?
まぁ、俺がお前の隊長がやらかしたこの訓練は止めるなって釘を刺してあるんだ。
お堅いエリート軍人は規律に厳しいんだぜ……!」
「ならば貴方も観察ですか……禁忌として力を得た彼の」
リリーの横、姫司乃の持ち物である書類が乱れた大層なデスクの上に黒人の男は座り、足を組み上体を反らせ楽な体勢で持ち主である彼に忠告するのだ。
「Hey! 第二部隊隊長! 俺は許すし面白いから怒らないが、負傷者でもないただのイカれた少年兵に『機械信号』を埋めるのは禁忌だぜ」
へらへらとしながら重大な事故を指摘するのは、いくら非凡であるとはいえ、そして己も同じ立場とはいえ、まるで実験じみた遊びを他者で試していないからこその言葉であった。
外界からの発言は、だから茶化す言葉の発し方で済むのだ。
存外、ガリー・ゲルドハルドと『姫司乃司』は同レベルの人間の程度なのだと同じく部隊長の立場から感じざるを得ない。
他者に対する意識が希薄なゲルドハルドは繋がりそのものにであるが、姫司乃の場合は容認の結果に対してだ。
どちらも放任主義に変わりはないが、どちらも同胞が希望してその末に死んでも何も後悔の念を感じてはいない
のだろう。
ーー結果が神奈斗だ。
まるで殺人者と覚醒した兵士に、治療目的ではなく戦闘目的で力を得る事を許可するなどと。
そしてそれを嬉嬉として許す執刀医の存在も馬鹿馬鹿しいと感じるのだが、規律や道徳よりも個人の危険な意志を尊重するというのは、やはりそれでこそ強者と成り変わる反則じみた近道だ。
「奴の指は石みたいなのが何本もあった。 眼は動体視力は凄いが、過去にダメージを貰ったのか左の視力は悪い。
奴は健康体だが、とても健全な状態ではなかった。
血の枯れた傷も、歪に固まった関節も、それでも痛みに喘ぐ暇なんて奴にはなかったんだろう」
「まさか、彼は虫のように古い身を棄てーーなどという宗教じみた発想に至るとは思えませんが」
何時の時代も、何処の世界も、高次元の存在と異次元の強さに焦がれる人種は存在する。
だが、ましてやリリーには神奈斗が神の信仰者であるとは思えず、その様な情報を彼女は知ろうが信じないだろう。
そして姫司乃は多くを語らず傍観し、リリーは死んでは意味が無いとゲルドハルドを静止させようとした己を律した。
少女の手を引き、断裂と破損の音が響く情景まで連れ出した黒い肌の軍人は、ただ現実を覚え込ませる。
朱に染まる少年兵は、既に従来の機械兵と比較して驚異的な速度で戦闘的進化を遂げている。
痛みをまだ知らず、死の恐ろしさと本質など余計に理解出来ない少女には、むしろ刺激的な惨劇も、単なる新鮮な出来事として瞳に映っているのだろう。
「Hello.」
3人の役職持ちの機械兵と1人の無知で無垢な少女は “新たな” 産声の予兆に感付いた。
ゲルドハルドの毒針は鋏状と化し、百足の大群を思わせる機構は数個が神奈斗に噛み付く。
肉を食い破り、骨に歯を突き立てる害虫の蔑称に相応しい悪魔の武装が、その毒素を未だに本領発揮させずに四肢の硬直に抑えている。
「ーーあぁ。 君は、あの子宮の中で『何』と出会った?」
バックボーンを持たない純粋無垢な戦闘狂も、ただ殺戮をしたがるだけで強者として生まれ変わるなど叶わぬ願望だと知っていのだ。
切っ掛けは刹那に現れるだろう。 だが変革の渇望は、進化の切望は、常に胸の中で燻ってこそ好機を正気の失われた欲望の道へと招き入れる事が出来る。
だったら、あの『宇宙ナメクジ』の群れの中で存在していた過去は恥ずべきものではなく、確証を持って意義と意味のある反省の一部だった。
肉が踊るのだ。 血が疼くのだ。 骨が震えるのだ。
細胞という細胞が奴等の真似事をしだし、それは四肢を硬直させる毒の中でも他細胞を連動させて覚醒させる。
感情の乏しい表情と言われるゲルドハルドは不遜にニヤついて歓喜を感じ、やはりこの青年の実績は嘘ではないと確信した。
能力開発という無意味な人外の真似事は結果を出さず、しかし確かに神成神奈斗は『宇宙ナメクジ』の恩恵を受けていたのだ。
それらに屈しない度量。 敵対した場合の知識。 あの文字通り血生臭い組織に属し続けた理由はもっともっと崇高な目的の為。
「目的を教えてくれ。 君は、神成神奈斗という男は、どうして悪魔も逃げ出す所業を行えた?」
「ーー貴方を殺す為だ」
ゲルドハルドの高笑いという異常事態に姫司乃、リリー、及びに第一機械兵団隊長『アデヴ・イフス』はとうとう2人の訓練行為を静止すべきだと僅かながら構えたが、やはりゲルドハルドの格はその3人を超えており、動き出す前に釘を刺す。
「アデヴと姫司乃は他の機械兵が騒ぎに動かぬ様伝達しろ。
そしてリリー。 君が君の右目の仇を討ちたいならば、彼が死ぬまでに守りたまえ。
ーーそして神成三等兵」
対して対峙する神成神奈斗は毒に塗れた機械仕掛けの顎に噛まれながらも、その劇毒が完全に身体を巡る前に、『機械信号』による武装の精製が完了する前にゲルドハルドに迫っている。
これこそ互いに第二回戦を承認する開戦の狼煙だ。
そしてゲルドハルドの怒声は名も無い少女の呟いた言葉を掻き消した。
言葉の意味も分からず、赤子じみた知識だが、銃声を聞き、傷と血を見てもそれに怯えない。
怯え、竦み、逃げ出す弱者の本能よりも発声が優先されたのは……それこそ神成神奈斗も覚醒に至ったならば自分よりも産まれたてで、ならば自分よりも弱く劣っていると本能的に判断したのだろう。
「Hello. BLOODY MECANICAL.」
少女は微笑む。 痛みを知らぬから、死を知らぬから、ただ単純に誕生が喜ばしい出来事なのだと思ったからーー。
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