短編集

香炉木

防護服

 この地では当たり前なのだ。自然という言葉は消えつつある。水と緑と風で溢れているのは耄碌した老女が語るお伽噺の中だけだ。全てが無いわけではないが使えるのは上階の住民だけなのだ。権力と名声を数値化し役所に申請する事によって居住階層が決まる。上階からは絶えず転居の人があった。誰もが口を揃えて言うのだ。「上階は良いところだ」と。

 上階に胸を焦がした男がいた。近隣での顔は広く、それなりに有名だった。男は思い立ち役所に向かった。その地に似合わぬ白くてツルツルした素材の立方体の正面に立つとシュンと音を立て入れと言わんばかりにポッカリと穴が空いた。少しの間入るか否かと立ち往生していると、中から中年程の女が出てきた。

「あら」

 と、男に気がつき寄ってくる。

「あなた、ここに何か用?」

「えぇ、まあ。」

「そう…私は上階への申請をしに来たんだけれど、数値が足りなくてダメだったわ。」

 女は一寸考えるような素振りを見せてそう言った。

「あなたも上階への申請?」

「はい。」

「そうなの、行けるといいわねえ。」

 ヘラリと歯を見せて笑いかけて女は去った。男はよし、と意気込んでまだかまだかと待ち受ける穴に一歩足を踏み入れた。フ、とそれまでの日差しはなくなり視界が闇に包まれる。はてどこで手続きをするのだろうと思い辺りを見渡す。無限の闇の中一箇所明かりがじわっと広がった。そこにはエレベーターがぽつんと有るだけでボタンもついていた。カツンコツンと音を鳴らしながらボタンに近づき文字を読む。ボタンには上矢印と下矢印が描かれていた。男はためらいもなく上矢印を押す。するとピンポーンと音がしてボタンの横に数値が表示される。なるほど、きっと先程の女はここで挫折したんだろう。優越感に浸り口角を上げながらエレベーターを待った。

 暫くして下ってきたエレベーターが渋々とドアを開けるので開ききるのを待たずに男は乗り込んだ。中には再度行き先を確認するように上矢印と下矢印のボタンのみが点灯していた。

「そんなに確認させずとも、俺が行きたいのは上階だけさ。」

 ポツリと漏らしてボタンを押した。再度ゆっくりと閉まっていくドアの最後の隙間が閉じる時、人の気配を外に感じた。ピンポーンという音とともに若い女の声が聞こえた。

「お母さん待っててくれたのね。下階の空きがやっとでたからすぐ来ちゃったわ。」

「えぇ、よかったわこれで防護服ともおさらばね。」

 女はヘラリと歯を見せた。

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