1月17日 アフリカゾウ

でかいな。

でかい。


ぼんやり見上げた感想がこれなもんだから、

現代日本の9年にわたる義務教育は

私に何か意義あったんだろうか。

どうなんだろうか。

不安になる。


「ぱおーーん。」


26にもなって何てことない平日に、

市立の動物園のゾウの前で

パオパオ物真似してる人間になるなんて、

知ったら過去の私はどう思うのか。

ママはどう思うのか。

そういえば。

一回だけ。

一回だけだけど、ママと一緒に来たことあったな。

この、動物園。

いつだろう。

どれくらい前だろう。

10年前、15年前、いやもっと昔か、20年前くらいか。


ゾウは静かに立っている。


「めぐみちゃん、お弁当食べようね」

乾燥した手で開く剥げたキティの弁当箱の中は、ぎっしりみっちり、おにぎりが、詰まっている。

タラコフリカケの、桃。

タマゴフリカケの、黄色。

桃黄桃黄桃黄と交互に繰り返されるおにぎりは、どれも一つ一つにっぎりしていて、昼下がる日光に優しくてらてら照らされている。温もりと愛情のこもったおにぎり。お情け程度に添えられたブロッコリーは、隅で肩身狭そうにしなびている。愛情いっぱいのお弁当。ああ。コンビニのおにぎりの洗練されたクールさをつい思い出しちゃった。

でも一人娘としてそんな姿見せられないので、

「食べたいな、おっしゃ」

口からでた言葉は、どこか棒読みだが、ほぼ、なんてことはなかった。少しじんときた、だけだった。

「あらほんとう?」

ママの笑んだ唇。ぬるぬると口紅がひかる。

「どれにしようかな。」

一つ、手にする。

一番右の、桃。

手に取るとずっしり重い。愛情の重さか。

「いただきまーす」

口に運ぶ。

大粒のぬるぬるする米にこれでもかと塗り込まれたタラコの人工的風味がぬわっと口内に香る。ぎっとりと米が舌と歯に、こびりつく。むにゅむにゅと咀嚼する。

「どうかしら?」

濃い。濃いよ、ママ。

味付けとか握る力とか愛情とかママの口紅とか母子家庭でこんなとこに来てることとか何もかもが、濃い。あまりにも濃度が高くて呼吸が苦しい。

「おいしいよ」

安心したようなママの笑み。

尻の位置を調節する。座り直す。多分はかとなくねとつく、レジャーシート。ドーナツ屋のおまけのキャラクターものだった。けどその表情は、親戚からの貰い物で、くたびれてるように見えた。

ああ、これ広げたのも。

懐かしい。

このゾウの前だったなぁ。


その後もママはたくましく女手ひとつで私を育て上げた。見事だった。狭い市営団地から、中学公立高校そして大学にまで私は進学した。大学ではさすがに私もアルバイトをいくつか掛け持ちして、学費の支払いに尽力した。

いろいろあった。

いろいろあった、ありすぎてこんなアフリカゾウの前に座る余裕などなかった。

こんなこと思い出したのは何ヵ月ぶり、いやぁ何年ぶりなんだろう。


もっしゃもっしゃ。

ゾウは静かに枯れ草を、食べている。


それが今じゃこの有り様だ。

26で平日にゾウの前でぼーでとしている。働けよ。何してんだ。

大学を四年で無事卒業したところまでは良かった。それまでは、それなりに、それなりだった。泥臭い母子家庭の幸福は約束それていた。

その後だった。

無事上場企業に就職した、そのあと。

「君さぁ、今回で何回目なわけ?」

「返事が小さい」

「字が汚い。人としてだめだろう」

「なんだお前その口ぶりは」

「うんとかすんとか何とか言えよ」

係長の、心ある言葉。

どれも間違いではない。ミスが多く、失敗ばかり。それを叱責する係長に落ち度はない。落ち度があるのは私。自分だ。

入社したらああなるぞこうなるぞとかいう幻は、ものの一月で潰えた。

悪いのは自分だ。至らない自分だ。理屈でわかる。わかるんだけども、心がどうしても追い付かない。さりげない言葉ひとつが凄まじい鋭角を備えている。かするたびに、傷つく、怪我する、トラウマになる。ああ。嫌だ、痛いよう。何が嫌か。過度に傷つく自分が嫌だ。何が痛いか。傷ついたのを自己嫌悪で隠す自分が痛い。嘘。言葉がそのまま痛い。真意なんて知るかばか。バカうどん。

そのまま。

明日を生きる余裕のないまま眠りにつき、起き、心の準備もないまま一日一日物凄いスピードで過ぎていく。

皆どうしてあんなに普通に、生きられるのか。

皆どうしてあんなに健やかに、毎日を過ごせるのか。

トースト囓って、ドア開けられんのか。

私が、ポンコツだからか。

ブロッコリーのように世間に窒息して私は生きていくのか、生きていけるのか。

酸素は薄い。

係長の顔が大気にうっすらと浮かび、溶ける。

はぁ。

息が白い。白いなぁ。

自主退職したのは去年の夏の暮れ。

寂しげな係長の横顔が忘れられない。

パワハラでもなんでもない。私がダメなのが悪かった。

私がダメなせいで。ごめんね、おじさん。

はぁ。

寒い。寒いなぁ。

自己嫌悪で、現実から逃げられると思うなよ。

理屈は分かるが、感情は、追い付かない。

感情よ、どこにいく。


ゾウは静かに目を閉じている。


ニート。透明感持った3文字の言葉が、平日に、26の女が、ここに、いる理由。

口にしてしまえば何てことないが、何回も口にする練習をしたことがある。ニートニートニート。まさか就職後に転ぶなんてさ、挫折するなんてさ、思っていなかった。

空気は澄んでいる。冷たい、冷たいな。

ああ。もういっそ。

何もかも。

何もかも?

なくなってしまえよ。

規模拡大し続けている前の会社も、

社会人を立派にこなし続けてる係長も、

無事に今日も会社に行き働いて帰っていく人々も、

普通の世の中を普通に生きて普通に死んでいくであろう、

明るい未来を抱えた子供達も。

みんなみんな。

なくなってしまえよ。

なくなれ。

潰れてしまえよ。

潰れろ。

何に?

ゾウにさ。


思った刹那、突然だった。

ずしん。

象が左足を持ち上げ、地面を踏みしめる。

ずしん。

もうひとつ。

見る。見なければ。

その足元に係長が立っている。

こちなり正面を向けぼんやりと立っている。

嫌いじゃない、嫌いじゃないけど、社会人代表として、普通の世の中代表として立っている。

ああそうだ。

潰れろ。潰れてしまえ。

苦しめ。私と同じくらい苦しんでくれ。

もう一度。

頼むよ、ゾウ。

もう一度だけ、足を。

足をあげてくれないか。


凍える空気が、停止する。


ゾウの瞳は優しく、見開かれたまま。

どこを見ている、どこ見ているんだよ。

係長がね、社会がね、人間がねいるんだよ。

君の足元に、係長が。

35の若ハゲが、いるんだよ。頼むよ。

祈る。

祈れば、


左足が持ち上がる。

ずしん。


「ぎゃあ」

係長はそんな間抜けな声をあげ、

おっしゃ、私はガッツポーズをとる。

潰れた。

係長が潰れた、係長の放った言葉が潰れた、自己嫌悪する私が潰れた、自己嫌悪での自己保身をする私が潰れた。高いプライドをひた隠しにする自分が潰れた。そうやって卑怯な私を作り上げた現代社会が潰れた。

ざまあ。ざまあみろ。

そうだ。

ゾウの前では非力。

お前は、非力。


しかしゾウは目を閉じない。

開いたまま。

不安がよぎる。

同時に。


右足も上がる。

ずしん。


「あ」

そこは。

そこには。

ママが。ママ立っていた。

左は係長、右は、ママ。

なのにお前は右足も。

ママが、ママがつぶれるじゃないか。

にっぎり詰まった弁当も、貧しながらも健やかなる日々も、学費を支払うためにバイトする健気な強い私も、つぶれる。

やめてくれ、やめてくれよ。

貧しく肩身寄せて暮らしたアパートに充満する愛情、わずかな喜びとさまざまな苦しみに一喜十憂した日々。優しいママ、怖いママ、愛情深きママ。ママママママ。

つぶれる。つぶすな。


すると、アフリカゾウはにわかに瞳を見開く。

ずしん。ずしん。ずしん。ずしん。

足を交互におろす、行進する。

ずしんずしんずしんずしん。


ああ。全てが。全部が圧縮されていく。

音もなく。

家族が社会が。

しかしゾウが足元をみることなどない。お前はどこを見ているのか。

「やめて、やめてよう」

空気が震える。凍える。


ゾウは行進をやめない。

目を見開いたまま。

そのまま。


ああこれは。この圧倒的な力は。

運命か。

運命なのかお前は。

そうやって小さいものをあっけなく踏み潰してお前は、お前というやつが、運命なのか。

瞳に優しさをやどしたまま虚空を見つめて、虚ろに無情に全て踏んづける。

すました顔で過去を踏んづける薄情な生物。

その前では何もかもが意味を失う。

運命だ。

いや。

いや違う。

私だ。

この象は、私だ。

健やかなる日々も、傷ついた日々も、

大量の過去を抱えて、踏んづけて私は毎日生きねばならない。

生きねばならない。

昨日から今日に、今日から明日に。

すんだ顔で泥臭く。踏め。

そうしないと、そうでないと。

おっしゃ。

心のなかで言ってみるがいまひとつ馴染まない。馴染めない。


ふとゾウの紹介札をみる。

名前はみーちゃん、まだ4歳らしい。若い。多分若い。


気がつくと、ゾウは静かに立っている。

でかい。

でかいな。

しかしその巨大の健やかなる瞳は、意外と、

私ににているところがあるかもしれない。奧二重とか。

「ぱおーーーーーーーーーん。」

口から漏れた独り言は、ああ。凍えた大気を震わせて、冷たき淡き空高く、消えた。

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