16 惚れた腫れたの常套句

今生で結ばれないのならば。

来世に望みを掛けて。

けれど今この場限りだけでも。繋がっていたかったのとまた事実。



豪奢な着物を妖艶に纏う彼女に差し出された、華奢な小指。

それに己の小指を絡ませた。

遊女にとってはあまりにも日常的なこの行為。震えていたのはどちらの指か。


言葉も無く交わされた『指切り』に、額を合わせてどちらともなく笑った。

それは誰から見ても頬を無理矢理吊り上げただけの、笑顔とは言えないものだったかもしれないけれど。



確かにその瞬間。

時が止まれと願う程には幸せで。

それ故に苦しくて。



この廓で飼われている彼女を他の男の元へと行かせなければいけない。

しかも他ならぬ自分の手で。

それに涙すら浮かばず、淡々と事実のみを述べた。


けれどもし彼女が嫌だと言ったなら。

俺はすべてを捨ててでも彼女をこの檻から連れ出してやろうと思った。


そんな儚い思いは、彼女が消えてしまいそうなほど儚く笑って言った言葉に霧散したけれど。


『あい、分かりました』


何処かで分かっていた返答に、縋るように交わした彼女との指切り。

来世での約束事。


ちぐはぐな自分の行動に、俺は本当に彼女を愛しているのかと疑念を抱きそうになったけれど。


それでも。



**



この檻のような世界から出ることはとうの昔に諦めた。

ただ身請けをされるかお役を解かれるかするまでは、大人しく籠の鳥として飼われていようと決めていたのだ。


『惚れた腫れたなんぞ、遊女にとっちゃあご法度さぁね。あんしも遊女になれば分かるだろうね』


まだ禿だった時に姐さんから聞いた言葉。

悲し気に伏せられた睫毛と吐き出される長煙管の紫煙が嫌に姐さんを引き立てていて。

見惚れてしまうほど美しいのに、何故だか妙に哀しくて。

その理由が分かったのは遊女になった時。


姐さんは廓の用心棒と心中した。


恋し焦がれた相手が居たとして。

飼われた鳥が好いた男に嫁ぐのだなんて、夢物語にもならないのだと想い知った。


けれど遅かったんだ。

胸にあるこの想いが許されないモノだと分かっていても。

どうしたって消せなかった。


だから、決めた。

例えこの身がどうなろうと、この気持ちを抱えたまま死んでいく。

たとえ身請けをされても。

このまま廓で生きて、死んでも。

それは変わりなく。


だから可笑しなことを言われたと思った。


『お前を身請けしたい客が居るんだが、お前はどうしたい?』


わっちは廓に囲われた鳥。

あんしはわっちの飼い主。

わっちが何処にどう行くなんざ、あんしの思うままでさぁね?


そう笑いながら言えば、貴方は「そうだね」と苦く笑っていて。

それは酷く壊れてしまいそうな笑みではあったけれど。

気付かない事で見ない振りをした。



「惚れた腫れた」は贔屓を作るための常套句。

誰にでも身体を許したこの身が幾度となく口にした慣れた言葉の筈だった。


それを貴方にだけは言えなかったけれど。

別にそれは構わない。


この夜が。たとえ一夜の夢だとしても。

朝になれば溶けて消えてしまうような、淡い幻だったとしても。

わっちにとって最初で最期の仕事以外の交わりを。

貴方と出来て幸せでした。


この身に染み付いた常套句を戯れにすら言えぬほど、



――わっちは心底、貴方に惚れておりんした。



この言葉を貴方にも、誰かにも、言う気は毛頭ないけれど。

身体に染み付いた廓の作法も。言葉も。何もない。

ただ「私」という存在の心からの想いが。



貴方に届けばいい。



なんて、迷惑以外のなんでもないか。

廓は檻のように窮屈に感じはしていたけれど。

此処は確かに、貴方に会えた場所でした。



**



いずれ誰かの元に行くなんて、とうの昔に心得ていた。

それでも手の中に居ることに安堵していた。

けれどお前が居なくなって分かったのは、息苦しさ。



この見世はこんなにも息苦しかっただろうか?



ただお前が居ない。

それだけで空気が無くなってしまったように息がしづらくて。



お前の部屋でお前が残した残り香を纏いながら、煙管を吸った。

ゆらりと風に舞う紫煙の先に、お前の姿が見えた気がして。

その姿を逃したくなくて、そっと瞼を閉じた。



はらり、伝ったのは何だったのか。

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