フォビドゥンフォレスト

ヴォイド

1話「英雄たちの残影」

1-0「朝」

 闇の深い夜明け前。寒さが少年の肌をコート越しに刺す。

 真新しい雪が薄く積もった路側帯に足跡を残しながら、彼は神社の前に辿り着くと鳥居の前で軽く一礼する。

 鳥居の横の石碑には昼であれば「鳥姫神社とりひめじんじゃ」の文字が見えただろう。

 鳥居をくぐり抜け石階段を登る。

 足元からぱきぱきと、薄い霜が割れる感触が届く。


 木と水気の匂いがうっすらと漂う参道。

 両側には天まで届くかのような白樺の林。

 足元を照らすのは、木々の隙間から漏れる月と星の光のみ。

 奥行きの狭い階段をこの時間に登るのは危険極まりないが、少年は照明一つ持たず、足元すら殆ど見ずに慣れた足取りで足早気味に登る。


 二百段ほどの階段を登り終えると、月明かりをうっすら反射する石路を歩いて手水舎に着く。

 手袋を脱ぎ柄杓を取ると、水面の薄氷を割って水を汲み、左手に流す。

 流石に一瞬打ち震えるが、その後は、流れるような動作で右手を洗い、口を漱ぎ、柄杓を立てて持ちてを洗う。

 そして急いで手を拭いて手袋を着け直し両手を擦り体を抱き再び打ち震える。


 歩きながらカイロを擦って寒さを落ち着けると、社殿へ上がる。

 賽銭箱に五円玉をそっと滑り込ませ、静かに素早く参拝を済ませる。

 賽銭を入れる際の音については、出したほうが良いという説もその逆もあるが、少年は後者を採用している。

 何より今は夜中、無駄に音を出すのは良くない。

 社殿を横から降りて社務所前を横切り、来た道と逆側、神社の奥の階段を下りる。

 先程の半分の長さを音の立たない程度に素早く掛け下りる。


 更に1分歩くと石灯籠型の常夜灯の明かりに民家が浮かび上がる。

 この鳥姫神社の宮司の家だ。

 少年は真っ直ぐに裏口へ向かうと、そっと鍵を開けて中に入る。

 縁側の廊下を物音を立てずに暫く歩いて角を曲がり、洋風の寝室をゆっくりと開ける。


 橙色の薄明かりの下のベッドの上には一人の少女が眠っている。

 少し暖房が暑かったのか、掛け布団と毛布は胸の下までずれていた。

 濡羽色の髪が白い掛け布団の上に流れる。

 華奢ながらも肉付きの良いボディラインは冬用のパジャマの厚い布越しでも隠しきれない。

 少年は目を逸しながらも、布団を更に腹の辺りまで下げてから、少女の肩を片手でそっと掴んだ。


「おい、瑠梨もう4時半だぞ。起きろ」


 掴んだ肩を軽く揺すると、黒髪が波打った。


「う~ん。はる君おはよう……おやすみなさい…」


 少女、北里瑠梨きたざとるりは眠たげに目を擦りながら身を起こし……再び横になった。


「いや起きろって」


 少年、片桐春夏かたぎりはるかは溜息を吐くと一度起き上がり、カーテンを少し開ける。


「もう真っ暗だね?」


 この時期の夜明けは7時近い。東の空ですらまだ暗い。

 外の空気を入れるべく窓を開けてから、瑠梨の方へと戻り天井の紐を引いて照明を点ける。


「……そのボケもう5回は聞いたぞ」

「やだなぁはる君。これで7回目だよ」

「まぁたくだらねぇこと数えてたのかよお前は…」

「ふふん」

 瑠梨は目を閉じたまま胸を張った。


「しょうもねぇこと自慢してんな」


片桐はしゃがみ込んで瑠梨の背中に片手を差し込んだ。


「ひゃっ!?」


 肩を触れられた時点では分からなかったのだ片桐の手の冷たさに、瑠梨は跳ね起きた。


「んもぅ。ひどいよ」


 両腕を交差させて瑠梨は体を擦る。


「酷いのはどっちだよ。いい加減にしないと今度から乳揉んで起こすぞ?」


 カイロで手を温め直した片桐は、布団と背中の間に手を差し入れて体を起こしてやりながら挑発的に言った。


「いいよ?」

「反省したら今度からもっと早く……マジかよ」


 思わず唾を飲み込む。いや、冗談なのは分かっている。分かっていてもつい、視線はそこに……華奢な体の割に大きい膨らみに吸い寄せられてしまう。今は腕を交差させたことで余計に形が強調されている。下着の性能か上着の錯視効果か男の片桐には今一つ分からないが、瑠梨の胸は大きさの割にはあまり目立たない。着痩せという奴だろう。今もゆったりとしたパジャマでよく分からないが、彼女が稀に見せる「全力」を知っている身としては、どうしても意識せざるを得ない。


「ただし、はる君を信頼して鍵を預けてるお父さんたちを裏切れるんならね」


 瑠梨は両腕を腰につけて胸を張る。


「ちぃっ。くっそぉぉ……瑠梨ぃぃっ!卑怯な!」


 片桐は静かに唸りながら頭を抱えオーバーに振り乱すという器用な芸をやってのける。その横で瑠梨はあっさり起き上がり、天井近くの神棚に向けて礼をする。


「おはようございます」

「……ってお前、あっさり起きやがって」


 数秒前までのぼんやりはどこへやら、瑠梨は寝起きとは思えぬほど美しい所作で礼拝を済ませていた。


「うん。大丈夫だよ。起きようと思えば一人でも起きれるんだから」


 瑠梨は得意げに微笑んでみせる。


「ほんとかよ?こないだ俺が来れなかった時は寝坊しかけたって聞いたぞ」

「聞いた?……もう。お母さんでしょ?」


 瑠梨は頬を膨らませる。


「大丈夫だよ。あの時はたまたま色々重なって疲れてただけなんだから。 ……だからはる君も、無理に来てくれなくても良いんだよ?」


「いいんだよ。どうせついでだしな」


 それは嘘ではない……確かに片桐にはこの後別の用事もある。ただし向かう先は彼の家から見て、この家とは逆方向なのだが。そしてその用事があるので、いつまでもここに留まっている訳にもいかない。瑠梨も着替えて朝礼の支度をしなければならない。


「でも……」

「んじゃ、また後でな」


 片桐は窓とカーテンを閉め直した。充分空気は入れ替えたし、瑠梨が着替えるからだ。そして部屋を後にする。


「え?お茶くらい飲んでいきなよ?」


 瑠梨がドアから体を出し……寒さに震え、頭以外を戻す。


「水筒もあるからいいんだよ」


 片桐は肩に掛けたバッグを指差す。


「昨夜、忙しくてハヤトの奴に付き合ってやらなかったからな…急がねぇと襲ってきかねねぇんだよ」

「寒いのに元気だよねぇ、はる君のとこの子たち」


 瑠梨は両腕で体をかき抱き、ややオーバーに震えてみせる。


「元気どころじゃねぇだろ?外に出しても冬眠するフリもみせねぇんだぞアイツら」


 『アイツら』とは片桐が世話をするクワガタのことである。

 夏に活動する虫でも、屋内で暖気すれば冬眠しないのは普通にあることだが、彼のクワガタの中には氷点下の屋外で動き回れるものまでいる。

 学者なら大いに耳を疑うか詳細を聞きたくなるであろう内容だが、二人にとっては日常会話の範疇であるので、あっさりと話を終えた。


 少年は家の外に出て、元来た方向とは逆の森の奥へと進んでいった。

 瑠梨はコートを羽織りながら途中まで見送ると、自室に戻り巫女服へと着替えた。 

 二人のいつもの日常の始まりである。

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