彼女と彼女とそのまた彼女

ピュシス

1日目

第001話:? in 彼女

 一般に、時空間は連続していると考えられている。


 いや。

 考えられている、というか、そんなこと日常生活の上では考えられすらしない。時計を見つめて今を過ごせば、疑いようもなく、時計の秒針あるいは秒を刻むデジタルの数字は今の秒数に次の1秒を加算する。


 もちろん、秒という区切りは恣意的なものだ。地球が自転する時間を24分割し、さらに60進法で以て分割すること2度。それが秒という単位。

 コンピュータに慣れ親しんでいる人間であれば、加えてそこから10進法を組み合わせて1,000分割するミリ秒という単位もよく使われるであろう。これは余談だ。


 単位系が何であれ。今があれば次がある。そして、今の次が、数字の上で論理的に整合性あると判じられる次であるということを、誰も疑いはしない。


 俺もそうだった。


 一時間前までは。



 ---



「あー……、うん」


 声を出すと、それはとても自分のものとは思えない、高い音で。頭蓋を通してよく響くエフェクトのかかった自分の声は、録音して聴く己のそれとは比べものにならないほどによく聞こえるとは言われるものの。そういった次元の話ではまったくなく。


 見下ろすと、白く細い指先が視界に入る。布団は、羽毛だ、軽い。ふわふわしていた。少しめくってみると、自分が着ている服が認識される。パジャマ。

 普段はパジャマらしいパジャマなんて着ることもなく、Tシャツとトランクスだけで就寝している自分が、寝起きの覚醒していない頭でもすぐに見てそれとわかるような可愛らしいパジャマ。ひつじさん柄のプリントに、素材は、何だこれ、よくわからないが、白地にピンクを差し色とした、ジェンダー論を無視して断じてしまえばいわゆる女の子向けのパジャマだ。とても、二十代後半男性が着るものではない。

 そしてこの手も。何で「白く細い指先」などという表現を己の手に対して使わないとならないのか。


 客観的に考えるなら。俺は、今、夢を、見ている。


 そうとしか言えなかった。


 そして、その上で、あらためて冷静に状況を整理してみよう。


「んっ、ん、ん、んんんーーー。うん。あー、あー。ワレワレハ」


 女声だ。

 手は、女の手だ。

 パジャマも、女の子柄だ。

 脚をもじつかせてみると、股の間がやたら軽くておさまりが悪いことがわかる。

 胸は少しだけ僅かばかりに膨らんでいる。……いや、いかん、触るな。何か大切なものを失う気がする。


 周囲を見回す。

 まず、ここは、昨夜に意識を失って睡眠に落ちたところの俺の部屋ではないことが明らかだ。間取りが違う。内装も違う。何もかも違い過ぎる。見覚えがまるでない。隣で寝ているはずの妻もいない。

 壁には大きく、日本を代表するメタルバンドのポスターが貼ってある。最近、結構あちこちに露出してるからな。メンバーは若かりし頃、活動期のものだ。


 振り向くと、枕が高かった。俺はこんなに頭の高くなる枕は使わない。そのカバーも、愛用しているシルクの枕カバーではなく、普通のよくある「布」なカバーだ。正確な素材は知らない。カバーに付着している髪は、細く、長い。癖っ毛ではないことから、妻の髪ではないことがわかる。

 枕元には、スマートフォンでなく、いわゆるガラケーといわれる古い機種が置いてある。折りたたみ式で、やたら分厚い。というかこれ何年前のものだ。十年モノだろ。それにしては、やけに外装がテカテカしていて綺麗だ。ストラップは、これまた昔に流行った、だらけた大熊猫。


「……失礼します」


 一応、誰もいないけれど一言断ってから、携帯電話を開いてみる。ぱちり。待ち受け画面(という言葉の響きが既にして懐かしい)には、見覚えのない若い女子――……高生……? 中学生かもしれないが……――が、2人して笑顔で映されている。本当に古い機種だと懐かしむようにしながら、いくつかのボタンを押して、カレンダーを表示すると。


 2001年

 09月14日


「は?」


 思わず声が漏れてしまった。



 ---



 3分間ほど固まっていただろうか。

 俺はようやく意識を取り戻すと、冷静に状況を――何度目だよ――整理しようと努めた。こういう時は、箇条書きにするに限る。メールでも、やたら長ったらしい文章を書き連ねるより、箇条書きでカチッと報告してくれた方がありがたいということは、よくあるからな。



【事実とそこから導き出される仮説】

 ・今日は、2001/09/14(水)である。16年前だ。この時代の俺は13歳、中学1年生のはずである。

 ・俺は、一人称が俺である通り――そして俺は俺っ娘ではない――男だ。男のはずだ。しかし、現在の肉体は女性のそれである。

 ・つまり、俺は、過去にいる挙げ句、女性になっている。しかも見ず知らずの別人になっている。見ず知らずのはずだ。待ち受け画面を見る限り、知り合いの若かりし頃……、ということでもなさそうだ。きっと。



 こういうことか?

 いやしかし、こんなこと、サイエンスフィクションでもファンタジーでもあるまいし、考えられないだろう。物理学的に有り得ない。時間は不可逆であるし、仮に11次元的にねじれたところで、別人になってしまうということが考え難い。今現在、頭の中で高速で紡がれているこのことばも、しょせんは物理現象の結果に過ぎない。脳内を走る電気信号の所産だ。

 別人になる、つまり、頭蓋の形状が異なる、脳の容量だって異なる、ということは、だ。俺が俺であるべきという自己同一性も喪われるはずだ。思考というのは、知識・経験の積み重ねに依存する。それらは脳に蓄積されるのだから、別の脳になったのであれば、もはやその時点で別の思考が走り始めて然るべきなのだ。


 だから、あくまでも前記のように現行の物理学を大原則・大前提とする立場からであれば、次のように考えるのが妥当ではないか。



【別の仮説】

 ・俺は、本当に、2001年に生きる女の子だった。

 ・何らか脳の障害により、己のことを、2017年まで生きた男性だと思い込んでいる。2001年に生きる女の子としての記憶は失われている。読書か映画かが並外れて好きだったのだろう。科学的素養を身につけ、哲学的思索も好んでいたに違いない。



 前者の仮説を、仮説A。後者の仮説を、仮説Bとする。仮説Bであれば、これは物理学的なおかしさはどこにもない。単なる、人間一人の個人的な脳のエラーという説明でオチの付く話だ。


 しかし、自分自身の納得感でいえば、これほど納得のいかないものもない。

 であれば、最後の仮説、仮説Cにすがりつくしかなくなってしまう。



【仮説C】

 ・夢オチ。



「ないわー。それはないわー。明晰すぎんだろこの夢。どんだけ必死に思考めぐらせてんだよ俺」


 携帯電話を見れば、時刻は朝の06:32。通学にどれだけ時間がかかるのか知らないが、また、家庭環境・家族構成がどうなっているのか知らないが、まだ親が起こしに来ないということであれば、本来の起床時間までの余裕はあるのだろう。しかし、仮説Aにせよ仮説Bにせよ、いずれにしても、おそらく高校生という身分において学校への遅刻をするわけにはいかない。

 いやいや学校へ行ってる場合か、という気もするが、変に騒ぎ立てて白い病棟に隔離でもされることになったらと思うと恐ろしくてかなわない。偏見かもしれないが。

 仮説A、B、C、いずれが正しいのか分からない。あるいは別の説もありうる。仮説Bではなかったとすれば、2017年の男性としての俺に差し障りなく戻る方法をどうやって知り得るか、というのが重要な点だ。色々試してみるほかなさそうなのだが、そのためにはまず、この身体で過ごしている今現在の生活を、やはり支障ないものとして穏やかに果たしていくのが優先すべきToDoの上位に挙げられるであろう。


「……まずは、携帯電話を見て、可能な限りの人間関係を把握しておく」


 ひとまず俺は、自分に言い聞かせるように、ToDoを声に出し始めた。


「次に、部屋の中にあるものを調べ、この今の俺の、これまでの生い立ち、人となりを理解することに努めよう。親が起こしにくるまでに、違和感のないキャラで喋れるようになっておかないとならない。人格が破綻している、あるいは、記憶に障害がある、などと思われないようにしなくてはならない」


 しかしまあ、この期に及んでToDoって。ビジネスマンの鑑だな。しかし、身についた習性だ。俺はそういうものなんだと思うことにしよう。

 これが仮初めの知識で、想像上の習慣だとしたら、大した読書少女だ。


 よし、やるか、と立ち上がる。トイレに行きたいのは我慢しよう。

 あと10分か20分か。残り時間は分からないが。……それまでが、勝負だ。

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