10.シグナル


 根本的に他人同士だけが住まうこの世界において、人と人の間柄において欠くことのできないものは、礼儀と愛想だ。

人は社会的にふさわしい自分を装って、人前に出て行く。

土地と歴史によって生成されたあるコードに沿って、自分が周囲に与えるであろう効果について先読みをしながら、自分にまつわる物質や情報を制御操作する。

具体的に言えば、服装の選び方から、指先や表情筋に表れるニュアンス、食器や小道具の扱い方、婉曲表現やメタファーに込めた意味、話題から話題へのつなげ方、などだ。

俺がその時に必ず念頭においているのは、自分の振る舞いが相手にどう受け止められているか、またどう受け止められたいかの一点であって、自分の個性についてはほとんど省みる事をしない。

個性は勝手に表出するものと心得ているからだ。


 俺は女と対峙する時、慎みと常識と敬意を持った礼儀と、魅力と楽しみと体温を持った愛想を発揮しようとする。

それは俺がそうしたいからではなく、相手とその「場」にとってそれがふさわしいからだ。

その仕事は人間の意志と芸術的感性と、幾何学的あるいは数学的美観にもとづいた戦略的思考、さらに瞬発的な機転を必要とするから、決して楽な仕事ではない。

しかしそのやりがいのある仕事は、体力を使うと同時に生活に張りをもたらしてくれる。

そして相手の女が同じように礼儀と愛想を俺に向けて発揮してくれた時、俺の心は喜ぶ。

「女」という、俺がまったく属していない世界から送られてくるコード、そしてそこに避けがたく表出する「彼女」という個性が、俺と共有されるその「場」に向けて発揮される。

人と人が、真空と無限(人間的現実における無限)の距離によって隔てられた星と星だとしたら、そのコードと個性という二つのシグナルは、個々の星が永遠に分かれたままの孤独の運命の中に送る事ができるささやかな光のようなものだ。

お互いの光が相手に届いた事に天恵のような喜びと安堵を覚え、俺たちはお互いに夢中になる。

そして、俺はそれ以上の期待をしない。



 礼儀や愛想は人と人をつなぐ媒介であると同時に、人をある一定以上踏み込ませないための防護策にもなりうる。

その向こうには、社会的諸関係の場に持ち出さない一面がある。

そこには醜さだとか汚さ、怠惰、逃避、腐敗、厭世、タナトス、恐怖、破壊、排泄、裏切り、エゴ、暴力、呪い、罪、嘘、傷、過去、未来、家族、病気などがある。

それらの、礼儀と愛想の向こう側にあるものについて、俺は触れる気がない。

星の光を楽しみ、愛でたとしても、その光を輝かせているものについて覗きこみ、知る気はないのだ。

俺は女の可愛さを存分に引き出し、抱きしめるように受けとった上で、それ以上の何かを求めようとはしない。


 女は時に、その関係のむなしさに耐え切れず、抗議の声を挙げることもある。

いつもは礼儀正しくて愛想がいい彼女の意志の力が少し弱った時、彼女は俺に不満を表明する。

たとえば二人の関係について本音のところでどう考えているのか、彼女が一人で悩む事があるのに気づいてくれているのか、俺の態度のとらえどころのなさに腹が立つ、など。

俺はそれらの糾弾に対して反論も否定もせず、あいづちを間違わないように打つことに細心の注意を払いながら聞いている。

彼女はしゃべりつづけるうちに自分の言葉を聞きながら脳内で反芻し、自分の訴えが徹頭徹尾俺に対する要求でしかない事に気づき始める。

そしてそれを強制する権利も、俺の人間性を変えるほどの力も彼女にはないのだという事を思い出す。

俺の礼儀正しさと愛想のよさを前に、彼女は子供じみているのは自分のほうだと思い始める。

そしてたいていの場合、その場でか、後日か、彼女のほうから謝ってくる。

俺は彼女の賢さと健気さと苦しみに胸を痛めると同時に、一応丸く収まったことにほっと胸を撫で下ろす。


 やがて彼女が耐え切れなくなった時、あるいは俺が耐え切れなくなった時、彼女との時間は終わる。

二人は出会い、言葉を交わし、求め合い、抱きしめ合い、慈しみ合った後、すべてが幻であったかのように誰にも知られずに消え去る。

そしてそれこそが、俺の求めている事でもあった。

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