2.俺がタイで見たいくつかの最も美しい景色について話そう
俺がタイで見たいくつかの最も美しい景色について話そう。
夜のホテルの屋上階。
そのホテルはそれほど大きくないから、屋上はスカイトレインより少し高いぐらいのところにあり、超高層のオフィスビルに見下ろされるように囲まれている。
俺は水に浮いて、プールの縁に腕を乗せている。
転落防止の透明アクリルパネルに額をつけて、眼下を通りすぎるたくさんのクルマと頭上にきらめく巨大な高層ビル群、そして目の前のプラットフォームに滑り込むスカイトレインを眺めている。
無数の輝きと暗闇に取り囲まれるこの空間に心からの満足をおぼえている。
ふり返るとオレンジ色の縁取りのついた15メートル長ほどの黒いプールに、庇に並んだハロゲンライトが光を投げかけている。
ほの暗い水面が照らされていくつかのスポットに分かれてきらめき、ゆらめく水の底を映している。
そのスポットの一つに女が立ち、気持ちよさそうに水をかきわけながら、こちらを向いて笑っている。
女の向こうには日光浴用に横たわることのできる一人用の長いすがいくつか置いてあり、さらにその向こうにはシーロムの高層ホテルがそびえている。
プールには俺と彼女の二人きりで、彼女はゆっくりと俺の隣まで泳いでくると、一緒に夜景を眺める。
彼女がスポットライトの中にたたずんだプールの景色があんまり美しかったから、俺は彼女に、もう一度俺から離れてあの場所に立ってほしいとお願いする。
脈絡の無い要望に彼女はいぶかしみながらも、俺がゆずらないでいると、笑ってその場所に立ってくれる。
生まれた土地から海を隔てた遠い場所、人間文明の恩恵を潤沢に受ける建築物の片隅、星の海みたいに美しい景色の空中プールに浮かんで何の不安も恐れも無く、ただ出会ったばかりの愛らしい同郷の女と親しくなった事。
俺は何もかもが完璧なこの景色を永遠に眺めていたいと思う。
けれど永遠どころか、数十分もこのプールにいれば体が凍えてくるだろうし、カメラに収めたところでこの一日の美しさが捕まえられるわけではないということも知っている。
だからせめて記憶に収めておこうと、彼女をその場所にとどめて見つめながら、彼女の機嫌が悪くなって台無しになってしまわないように、気の利いたことを言って彼女を笑わす。
カオサンストリートから一番近い船着場へと抜ける、寺院の裏の木々に覆われた路地。
屋根で完全に覆われて、午後なのに薄暗い木造の、窓どころか壁すら無い吹き抜けの店内のテーブルに俺は座り、タイ風ポークチョップとオムレツのようなものを食べながら、ビールを飲んでいる。
通りに沿ったところの席は靴を脱いで上がるゴザ敷きの座敷席のようになっていて、そのゴザと座卓と向こう側の鬱蒼とした木陰が東南アジア風のいかにも心地いいくつろぎを作り出している。
その席には何人かの白人がくつろいだ服装で半分寝そべりながら、それぞれ勝手にビールを飲んで話をしていたり、WiFi接続したタブレット端末で何かを見ていたりする。
テーブルの向かいに座った女と、俺はこの後の予定を話し合う。
世界中のヒマ人が集まるこの場所は、この後何をしてもいいし、何もしなくてもいいと俺たちに告げていた。
まだ服を脱がせた事のないその女は俺の集中力を高め、それでいて失うものは何もない俺は完全にリラックスしていた。
目的も予定もなく、俺はその木陰を気に入っていた。
それはまるで幼い頃に木漏れ日の注ぐ畳に座って、縁側の向こうの陽だまりを眺めていたある日の午後の記憶のように、豊かな静けさに満ちた瞬間だった。
アユタヤの遺跡。
無数にある石造の搭も像も建物もことごとく半壊あるいは全壊していて、栄華と壊滅を同時に語りかけている。
晴天の午後の空気は乾いて穏やか。
すぐそこの浅いところを流れる小川の流れは目と耳に優しく、芝生を歩く俺たちを脅かすものは、遺跡の入り口で声をかけてきたみやげ物の売り子以外に無い。
今俺たちが立っているまさにこの同じ場所で、数百年前に人夫たちが石材を運んだこと、文明の栄華が実現されたこと、暴力が起こり破壊と殺人の限りが尽くされたこと、そのすべてを信じろというほうに無理があった。
知識や理屈としては理解できても、感覚として腑に落ちない。
それはつまり、俺も、先ほど俺と一つのココナツを分け合って飲んだ目の前の女も、どちらも百年後には地球上のどこにもいないということが腑に落ちないのと同じだった。
俺の十歩ほど先を歩く女が、長い髪を風になびかせてふり返り、俺に向けて何かを言う。
一つの果実の果汁が、そのとき俺と彼女の胃の中に同時にある。
数百年前に破壊された石塔の隣で陽光に照らされる彼女は、あまりにも命の脆さと眩しさそのものだった。
それでなぜか俺は唐突に、彼女が次にトイレに行くとき、俺も一緒に行って小便をしたいと思った。
思っただけの事で、結局それはしなかったけれど、今でも特に後悔にはなっていない。
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