8.ワンダフル・ワールド


 ハナから電話がかかってきた時、トシはグリニッジ・ヴィレッジの地下鉄に降りる階段があるコーナーの公園のベンチに座って、鳩を眺めながらサンドイッチを頬張っていた。

その日、トシは午前中からヴィレッジに点在するライブハウスを巡っていた。

それぞれのライブハウスの壁にはスケジュールが張り出してあり、トシはその一つ一つをチェックしながら、ライブハウスの中ものぞいてみて、店の雰囲気や中の居心地を試してみたり、夜のライブの時の様子を勝手にシミュレートしてみたりしていた。

トシはその日だけで四十から五十程度のバンド名を見たと思ったが、ピンからケツまで見事に一つも知らないバンドばかりだった。


 その日に見たのはライブハウスだけではなかった。

ブリーカー通りでは良い音でブルースを聞かせてくれるバーを発見したが、あまりにも店が渋すぎて酒を買う勇気が出なかったので、その並びにあるイカしたカフェに入るだけでひとまず満足しておく事にした。

夜になれば人がもっと出てきて雰囲気も変わるだろうから、あのバーにも潜り込みやすくなるかもしれない。

その時に、近くの店に入って雰囲気を知っておくだけでも、いくらか怖気づく背中を押してくれるのではないかとトシは思ったのだ。

それに、そのカフェもまたかなりイカした店だったから、トシはブリーカー通りの雰囲気自体を気に入った。


 その午前中で一番の見ものだったのは、通りの脇にあるフェンスに囲われた一角で見ることができたバスケットボールだった。

それはまさしく映画で見たような、アスファルトが敷かれてフェンスに囲われた、バスケのためにあるかのような一角で、実際そこにはバスケのゴールが置かれ、十数人の黒人と数人の白人の屈強な男たちが全力バスケの真剣勝負を交わしていた。

鍛え上げられた巨大な肉体の躍動感はとてつもない迫力だった。

その本場のボールバトルのすさまじい躍動と理解できない怒声やジョークが飛び交うのを見ながら、トシはどちらかというと動物園を見ているような気持ちになったほどだ。

そうして、街を見学しながら歩くのに疲れたトシは、サブウェイ(サンドウィッチ屋のサブウェイ)でしこたま野菜を突っ込んでもらったサンドウィッチを頬張りながら、休憩していたところだった。



 ハナは電話で、ついにアパートを見つけたのだと言った。

結局、広さの点でも居心地の点でもかなり妥協を重ねたけれど、とにかくなんとか住めるアパートを見つけたのだと言う。

ハナの声はいつにも増してずいぶん輝いていた。

ニューヨークに、自分が住む部屋を借りる!

その素晴らしさは、ニューヨークについて何もしらないまま来てしまったトシにも、いまや完璧に理解できた。

トシは心からのおめでとうを言って、何にせよ2ヶ月の城が決まったのだからめでたい事だ、お祝いをしようと言った。

それで、今夜は飲みに出かけて、その後にハナの家に行ってお披露目パーティで祝杯を挙げるという段取りに決まった。


 ニューヨークに二ヶ月間住む部屋を借りる!

まず、人生に起こりうるさまざまな出来事の中で、これほどめでたいことはめったにない。

しかもそんな女の子と今夜、ニューヨークの街に繰り出して祝杯を挙げて、部屋のお披露目をする。

たまたま同郷の同年代の女の子とニューヨークで知り合って、その女の子がこの街に部屋を借りた瞬間に居合わせる!

そんなことが人生に起こりうるのだろうか。

カネも頼りも無いこのニューヨークで、一人ではなく二人で、手探りで道を知り、街を切りひらく。

これ以上に楽しい事がこの地球上にあるのだろうか。


 トシはサンドウィッチを食べ終えると、今夜の準備をするために地下鉄への階段を下った。

プラットフォームでは、低い円筒型の箱を置いた上に清潔な身なりで恰幅の良い黒人の青年がギターを持って立っていて、ジョン・メイヤーの「ウェイティング・オン・ザ・ワールド・トゥ・チェンジ」をカバーしていた。

トシはその曲が好きだったので、地下鉄を待ちながら、確かな技術にもとづいた余裕たっぷりの演奏と歌声を楽しんでいた。

何もかもがトシを祝福しているようだった。

その曲が終わると、彼は今度はサム・クックの「ワンダフル・ワールド」をやり始めた。

トシは前の曲に増してこの曲が大好きだったので、たまらなくなって青年の前に置いてある箱に1ドル紙幣を投げ込んだ。

青年が「サンキュー」と言ってこぶしを突き出してきたから、トシもこぶしを合わせて「この歌が大好きなんだ」と言った。

青年は「この歌が大好きなのかい? それはよかった」と言って、二人はもう一度こぶしを合わせた。

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