5.あるマンハッタンの夜に


 ニューヨーク滞在の初めのころ、トシはミッドタウンに位置する日本人宿に泊まっていた。

ドミトリーと呼ばれる形式の、ベッドだけを借りる宿だった。

ドミトリーという形式の特質上、そこに宿泊するのは若者にほぼ限られる。

ニューヨークに到着してからの数日、その日本人宿で暮らしながら、トシは狭い男性部屋の隣のベッドの若者二人とあまり打ち解けられない感覚を抱いていた。

互いにけん制しあうようなところを感じていたのだ。

ところが、ブルース・スプリングスティーンのライブから帰ってきた夜、感受性が高ぶって怖いものなど無くなっていたトシは、この二人の若者に機嫌よく話しかけた。

話してみると気のいい二人組みで、一人がトシと同い年、もう一人が二つ年下だった。

トシが宿に帰ってきたのはほとんど真夜中に近い時間だったが、トシの興奮に若者たちも当てられたのか、そこからトシと若者たちは、宿のリビングで朝方まで熱っぽく語り合った。


 二人はボストンの英語学校への一年間の留学を終えたばかりで、英語学校を卒業してから日本に帰国するまでの期間をニューヨークで過ごすために、その日本人宿に泊まっていた。

年下のほうの若者は、タクという名前で、色白のとてつもなく整った顔立ちをした美しい男のコであり、高校卒業と同時にアメリカに留学してきていた。

タクは天才肌の快楽主義者で、アメリカに留学することでひらけるキャリアにはほとんど興味を示さず、日本を出たほうが面白いことがありそうだというぼんやりとした予感だけを理由にボストンに留学してきていた。

トシと同い年の若者はケイという名前で、日本のトップクラスの国立大学の学生であり、一年間の休学を留学に当てていた。

ケイは上品なキングスイングリッシュにあこがれていて、ボストンですっかり染み付いたアメリカ訛りがこの先も決して抜けないだろうことを気にかけていたが、タクは逆に、アメリカの黒人たちのリズムと勢いのある英語にあこがれていて、ボストンで学んだ英語の文法のしっかりとした堅苦しさを気にかけていた。

トシはといえば、話すたびに明らかになるケイのあからさまな優秀さに、すっかりのぼせてしまった。

どう考えてみても、この若者が世界を舞台に活躍し、将来の日本を力強く支えることは明らかなことに思えたし、ケイ本人のほうでもそのつもりであった。

その自覚と自信にトシはすっかり当てられてしまった。


 世界の相対性と多文化主義という主題をめぐる、それ自体は特に何の役にも立たない議論を重ねながら、トシはある恍惚を感じていた。

ケイは国際的な舞台を自分のフィールドだと感じており、実際にそのような仕事に向けて歩んでいた。

ケイの彼女はダブリンに留学しており、彼女とのセックスについてもケイはあけすけに語った。

その宿にあっても、ケイは隙間の時間を見つけては英単語帳を開き、アメリカにいることで日本語が下手になっては意味がないと言って、日本の文庫本も常に用意してあった。

ケイにとって、夢も望みも叶えるためにこそあって、そのための行動にすぐに踏み出すことにためらいは少しも無かった。

それこそ、トシがずっとあこがれていたような人生の形であり、トシの熱意と努力と行動力が足りないためにあきらめていたものであった。

自分のあきらめたような形の人生を、現実に生きている人間を目の当たりにするということは、大きなショックであり喜びだった。

そういうわけで、ケイの姿はトシの目にとてもまぶしく映った。


 その日本人宿は、ミッドタウンの老舗デパートのすぐそばの一角にあり、ニューヨークを肌で感じられる位置にあった。

「眠らない街」と形容されるニューヨークは、まさにそのとおりの街で、たとえばトシと若者たちが、真夜中から始めた議論を日が昇り始めるほどの時刻まで長々とつづけていても、それがとても自然なことに感じられるところなのである。

アパートメントの三階に位置するその部屋からは、窓の下の道路をクルマが通り過ぎていく音が聞こえ、どこかで誰かが何かをしている音がいつでも絶えず聞こえていた。

そういった喧騒が、他人にわずらわされるストレスにはつながらず、ただ自分が大都市の中に浸っているという、環境との一体感につながるのが、ニューヨークという街なのだ。

真夜中に、どこまでも果てしなく連なっていくビルと人々の喧騒の真ん中に浸り、よそから来て知り合ったばかりの若者たちが、どのぐらい重要なのか誰にもわからない主題について熱心な議論を交わすというのは、とてつもなく気持ちのいいことだった。



 その夜、トシ、タク、ケイのほかに、その日本人宿にもう一人の泊り客がいた。

ハナという名の女のコで、前日から女性部屋に宿泊していた。三人の議論が始まってから、どこからか帰ってきたハナは、いつの間にか議論に参加していた。

ハナが参加すると、議論は相対性と多文化主義という話題を離れ、それぞれの人生の話になった。

ハナについて明らかになったのは、年齢はトシの一つ下であり、驚く事にトシと同じ東京の西側の地域の生まれで、トシにとっても馴染みのある名前の高校に通っていた。

しかし何らかの事情でその高校での生活に支障をきたし、アメリカにわたってきたのだという。

なぜアメリカなのかといえば、「オズの魔法使い」が好きだったからだ。

そこでトシは、「オズの魔法使い」について思い浮かぶ唯一の情報を口に出してみた。

「カンザス」と。すると、ハナはまさしく最も大切な要点はそれなのだと言うように「カンザス!」と叫んで、その発言をおおいに歓迎した。

オズに憧れて、カンザスに憧れたからこそ、ハナは今カンザスシティのハイスクールに通っているのだと。

それでなければ、あんな何も無い田舎の街など選ぶはずがない。

それで、今は夏休みなので、バケーションをニューヨークで過ごすために来た。

来年、高校を卒業したらニューヨークのファッションの学校に通うつもりなのだ。

夏休みはまだ始まったばかりで、このドミトリーを最初の拠点にして、2ヶ月ほど借りられるアパートの一室をこれから探す予定なのだと。


 トシと三人の若者は、そうしてこれまでの人生と、これからどんな事をしたいか、時間を気にせずに話しつづけた。

時計が指していた数字を言えば、それは午前1時から5時頃までの出来事だったから、いささか驚くべき事ではあろう。

しかしそれは彼ら全員にとってまったく不愉快でなく、しっくりくる進みゆきであった。

宿の女主人はさっさと近くにある自宅に引き上げてしまっていたので、あるアパートの一室ともいえるそのドミトリーは、完全に若者達のものだった。

目の前に、今初めて出会う同年代の若者たちがいて、共通の話題(世界での出来事や文化)や個人的な話題(それぞれの生活にまつわる事)について、全員の興味のおもむくままにさまざまな事を話し合う。

そこにいる4人が4人ともに休暇中で、時間の使い方においては自分にとって最も価値があると思えることを自由に選択できる立場にあった。

それで、今の時間がこんなにも豊かで楽しいものである場合、それを途中で切り上げる理由が何も無かった。


 タクだけは、早めに会話への興味を失ったのか、ソファの角でクッションを抱えてうとうとと眠り始めた。

それがいかにも彼らしいというか、破格に美しい若い男が気分に合わせてくつろいでいるのは、目に快いものだった。

やがてさすがに疲労感が情熱を衰えさせ、話題と話題の間隔もひらいてきた頃、4人は眠りについた。

翌日もそれぞれにニューヨークを歩くために。

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