【第一部】 二〇〇七年 十九歳 イチ

1.キャンパス


 やわらかく透きとおる若葉につつまれて、そこは楽園だった。

無知な者たちが集まり、それまで一度も耳にしたことがないようなことを学ぶ。

その者たちに課せられた日々の課題は極端に少なく、やりたいことがなければ何もやらなくてよい。

風雨や労働にさらされていない新品さながらの肉体を流行の上等な服でつつんだ若者たちが、必要以上の大声をかけ合いながら、自分たちのためにあつらえられた建造物群の中をごった返して歩き回る。

そこはどこだろうか。大学のキャンパスである。

大都市の郊外の山を買い上げたところにつくられた、大学のキャンパスである。

二一世紀初頭、人類史的に見て、そこはまったく楽園だった。



 ある日の朝、いつものようにたくさんの若者たちが、次々に到着するバスに乗ってキャンパスに集まってきた。

バスターミナルは山の中腹に位置しているので、そこから山の頂上付近にある教室棟まで、たくさんの若者たちの列が途切れなくつづくことになる。

その列の中に、「イチ」という若者がいた。

イチはこのとき、この楽園のようなキャンパスにふさわしく、無敵の高揚感に突き上げられていた。

というのはその時、イチは頭部に装着されたヘッドフォンで、プリンスを聞いていたからだ。

朝、これから一日が始まるというときに、たくさんの若者に囲まれて、プリンスを聞いていた。

これだけですでに、一人の若者が高揚感につつまれてしかるべき理由としては十分だろう。


 しかも、この日のイチが高揚する理由はこれだけではなかった。

イチの周囲を囲むたくさんの若者たちはそれぞれに孤立して歩いていたが、ときおり友人を見つけた者が声をかけ合い、少しずつグループを形成していた。

それもまたイチを高揚させた。

というのも、イチはそこに「若さ」と「将来への無知」の隠喩を感じていたからだ。

個別に、打ち解けない表情で、かすかな緊張感と共に集まってきた若者たちが、少しずつ打ち解けてグループを形成していく。

つまりその隠喩をてっとり早く表現するならば、入学式の日にこの学び舎でこれから何が起こるんだろうと新入生が「期待と不安に胸をふくらませて」感じる高揚感を、この日のイチの場合は、単に朝だというだけで感じていたのだ。


 さらに加えて、今並んで歩いているたくさんの若者たちときたら、男女比はほぼ一対一でわずかに女が多く、一握りのイチの知人と、その他の多くの見知らぬ者たち。

しかし、見知らぬとはいえ、同じ大学の同じキャンパスの同じ学部に所属しているのだから、まんざら知らない仲でもないというわけで、何かきっかけさえあれば、いつでも顔見知りや友人になる心理的準備は整っている。

つまりそれは開拓前の処女地であり、これから色を落とすためのキャンバスであり、これからパフォーマンスをくり広げるためのフィールドである。


 こんなふうに、どんな要素を挙げても、この朝のイチにとっては明るい材料にしかならないのだから、プリンスを聞きながら歩いているイチがほとんど陶酔ともいえる高揚感に突き上げられているとしても、それは当然の道理というものなのだ。

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