3.ハート・オブ・ゴールド

I've been to Hollywood, I've been to Redwood

I crossed the ocean for a heart of gold

ハリウッドにも行った レッドウッドにも行った

純真な心のためなら海も渡った



控え室はかなり広いが、とても散らかっている。

サラは仕事を終えてフロアから戻ってくると、部屋にあるあらゆるものが散乱した床を見て、ため息をつく。

気にしても、きりがないことはわかっているけれど。

着替えを終え、出来る範囲だけでも片付けておこうかという気分になる。

ストッキング、下着類なんかはまだしも、ティッシュや紙類、化粧品の屑なんかは我慢できない。

踏まれて床にこびりついた口紅を見ながらため息をつく。

「私も手伝えればいいのだけれど」

ステイシーがワンピースを脱いで、心から残念そうに言う。

「いいのよ、あなたは自分で使ったものはきちんと戻すもの。イサベルとメリサのラテン人コンビは、もうどうしようもないわ」

それぞれのユニーのできる仕事の範囲というのは決まっている。

容量には限界があるからだ。

たった一言を発するのに、背後にどれだけの情報がそれを支えているのか。

それをサラは知らない。




使いっぱなしのグラスを洗いながらサラは思う。昔好きだった恋愛作家の小説では、主人公がいつも家事を楽しそうにこなしていた。

自分の世話は自分で見ること、そして時には他人へのもてなしの気持ちをわけること。

そんな風にまわっていく生活って、素敵だ。

こんなにくたびれて洗い物をしている私は、あの主人公たちと同じだと言えるだろうか。

いつもの笑顔をステイシーに返して、裏通りを歩く。

サラは思う。

ここで音楽がかかるといいのだけど。

映画が始まって間もない頃なら、何かの予感を抱かせるような爽やかで弾む曲。

恋の真っ最中なら、しっとりとして重々しいテイストの曲。

物語が終わりそうな頃なら、少し悲しくて、悪いことも人生の滋味なのね、って思える曲。

今のこの場面なら、どんな曲がかかるだろう。

サラの部屋には音楽を聴ける設備が一切ない。

帰ったらダグにLAN電話して、プレーヤーとスピーカーを持っているか聞いてみよう。




恋をするということは、今までにない何か特別なことが起こるのだと思いがちだけど、それは間違い。

恋をすると、それまでは気にもとめなかったような、全てのことが特別になる。

かつて見たロマンス映画を思い出し、そんなことを考えながら、サラは池の見える道を歩いた。

岸辺にきらめく無数の灯りの下では、今日もいくらかのカップルが抱き合っていることだろう。

私は今、はたして恋をしているのだろうか。そうでないといいのだけれど。







サラは窓をあけた。

入りこむ風は少し冷たい。

2ブロック向こうの歓楽街から流れてくる喧騒も、盛りのころよりはおとなしく、夏が過ぎ行くのを感じる。

「このあたりまでくると、窓を開けてても臭いは気にならないんだな」

ダグがキッチンの冷蔵庫を開けながら話しかける。

「もっとも、俺の小屋じゃあ、窓を開けようが閉めようが同じことだけどな。へい、水しか入ってないぜ。どうやってそのケツを維持してるんだい?」

「うるさい。冷凍庫のほうも開けてみて」

サラはベッドに横になりながら、全身で風を感じている。

「この辺りでは生鮮食品が高いのよ」

「君も飲む?」

グラスに水を注ぎながら、ダグが聞く。

「ええ、ちょうだい」

「高いっていうけど、君はあんなに稼いでるのに。この街のデリバリーは君でも使えるだろう?」




ダグは歩いてベッドルームに入り、グラスを渡して、ベッドに座る。

「やめてよ。あのぐらいの稼ぎじゃあ」

サラは水をなめながら、気だるく応える。

「わかってるけどね、むなしくならないかい?」

「もう。またそんな話をしようっていうの」

ダグの脚に軽く触れながら、サラはさえぎった。

「私には選べないのよ。そういうこと言うのはやめて」

「まるっきり選べないってわけでもないだろうに」

ダグは水を飲み干し、グラスをサイドテーブルに静かに置く。

「私は移動もできない。エアカー無しで、この砂漠の真ん中から抜け出せる?」

ダグの顔も見ずに、サラはつぶやく。

何かが間違って、こんなところにいるなんて考えたくない。

どうしたってこうあるべきだった姿として、ここにいたい。

「嫌な人ね。仮に抜け出したところでどうしろっていうの? この泥にまみれたIDでネットに接続もできずに、ここ以外の都市で生きていける?」




ダグは黙って立ち上がり、グラスを2つ、キッチンに戻す。

サラは、ふいに思いつく。

「言わないでおこうかとも思ったんだけど」

毛布にくるまり、キッチンのほうに向き直って声をかける。

「ジョン・イーデンの店で働こうかと思っているの。声をかけられたのよ」

「おいおい、あの店のことを知らないわけじゃないだろう。何もそんなことをしなくても」

ベッドルームの入り口をふさぐように立つ。

「別にリスクがあるわけじゃないわ」

サラには議論をする気はないのだ。

「逮捕されるわけでも、身体を壊すわけでも、破産するわけでもないのに、この街で一番の娼婦よりも稼げる。こんな話がある?」

「もっと大事なものを失うかもしれない」

ダグはそうつぶやき、ドアべりにもたれたまま黙り込んだ。

「もっと大事なものって何よそれ、そんなものあるの?」

サラは小さく吐き捨てる。

「仕事を選ぶのに、そんなあてどの無いことを考える?」




乾いた風が二人の間をとおり抜け、数匹の虫が網戸についている。

二人は動かない。

サラの能力、技能は、ユニーを滑らかに統率できること。

それを活かすしかないのだ。

サラはそれを確信する。

ダグが、ため息を一つついて、声を出す。

「新しいIDを手に入れるのに、いくらかかるのか知らないし、知りたくもないけど、それでどうなる?」

「なにが言いたいの?」

サラは強く応える。

「あんまり無神経なこと言わないでよ」

「新しいIDで、君は何をするんだい?」

サラの態度が硬くなるのにかまわず、ダグは語りかける。

「また、ビジネスや投資でも始めるのかい? 成功したらどうする? どちらにしても同じ事の繰り返しじゃないか。」

この男は、何か嫌なことを言おうとしている、とサラは感じる。

「君は勤め先に行き、そこにいるヒューマンかユニーの様子を観察し、それに適切な応対をしてみせる。ビジネスなんて、結局はそんなもんだ。君は今と同じ仕事を終えて、家に帰って飯を食って寝るだけ。いつまでもそれだけ。」




「あなたは私に何を望んでいるの? 他に何をしろというのよ」

サラは上半身を起こし、声が少し大きくなる。

こんなこと、いつまでも言わせていいはずがない。

「それは、あなたがそこから逃げ出した場所のことでしょう。こんな街で隠遁しながら、あんなゴミクズの山から拾ってきたもので、芸術家を気取っているだけじゃない。そんな場所に、私も引きずりこもうってわけ? 私はこんな袋小路の街で、いつまでも過ごすつもりはないのよ。」

ダグはまた、ため息をつく。

「すまない。そういうことを言いたかったんじゃないんだ。つまり、言いたかったことは、上手くは言えないんだけど、この言い方でいいのかわからないけど、君はとても素敵だってことさ。君は素敵な女の子だよ。それなのに、それなのに、なぁ…」

ダグはドアの縁を、拳で力なく叩いた。

サラはダグを見つめて、しばらく考え込んだ。

あなたがそれを感じる、私は何人目の女なの?

それで、何かが変わった?

「始めはいつもそうだったんでしょう?」

サラの声が優しくなる。

「奥さんととダメになったのも、ユニーのせいだけじゃないわよ。どんな女の子も、いつまでも素敵なままでいるわけじゃないわ。そういうものでしょ。私もあなたのことが好きよ、ダグ。今はそれでいいじゃない。ね?」







サラはジョン・イーデンの店に向かう。

今までの店からは街の入り口のほうへ数ブロック近づいたところ。

ずっとにぎやかな通りに面しているが、外見は目立たない。

しかし有名な店だ。

不思議なことね、とサラは思う。

あの夜、ダグと話すまではジョン・イーデンの店に移るつもりなんて、これっぽっちもなかった。

それなのに、ダグと話していたら、店を移ることは自然に決まっていたかのように、いつの間にかそれを口にしていた。

自然なこと。鳥が羽ばたくように、ビルが崩れないように、私がこの街にいるように、自然なこと。

あの夜から、落ち着いてゆっくりと考えてみたら、たしかにこれは当然のことだ。

ユニー・チャームで働きつづけたところで、新しいIDが買えるほどのお金が貯まるのはずっと先のこと。

私の人生をマシなものにしようと思ったら、少しでもチャンスをものにしていくしかないのだから。




ヴァーチャル不動産への投資は馬鹿げていたかもしれないけれど、綱渡り的な戦略というわけでもなかった。

その後のヴァーチャル不動産の人気と高騰を考えれば、むしろ、投資分野そのものは間違っていなかった。

ただ、タイミングと投資対象を間違えただけだ。

そしてその一度の失敗で、私のIDには莫大な借金という拭い去れない染みがついた。

この国の始まりから、繰り返されてきたストーリー。

失敗も成功も破格に大きな規模で、すべての人に間口をひらいている。

私の失敗の大きさは、逆にそれまでどれだけ大きく成功していたかを証明している。

一度失った人生を取り戻すには、ちょっとでも良いやり方で、人一倍の努力をしなくては。




ジョン・イーデンは私の決断を聞いて大喜びで、高価なドレスをいくつも買ってくれた。

私が優秀なヒューマンであることの報酬。

これからは気分の変動の激しいボスを、常に上機嫌に保つように努力しなくちゃならない。私とユニーたちなら大丈夫だろうけど、失敗すればこの街でもずいぶんと居心地が悪くなるだろう。

ジョン・イーデンはそういうタイプだ。

よくある経営者だし、扱いがそこまで難しいわけではない。




綺麗に整頓された個室で、真新しいドレスに着替える。

鏡を見ながらサラは考える。

私はまだ美しい。

やはり、今稼ぐしかないのだ。

この美しさがあるうちに。問題なのは、ボスへの応対よりも、仕事のほう。

客とユニーたちをよく観察しながら、ソツなく統率しなければならない。

今までにない状況で、それをやることができるだろうか。

何よりも、理性を保っていられるだろうか。

ユニーたちとの理性的でない関係なんて、想像できない。




快楽と破壊への欲求。

徐々にそのモードへと導いていき、自己防衛のモードを低く、低く抑える。

もちろん、起動時のプログラミングで自己防衛のモードは抑えてあるが、あまり抑えすぎると、始めの会話が成り立たない。

そこから徐々に享楽と退廃、そして狂気のモードを、会話と行為の中で引き出していくのが、サラの役割だ。

ネット上の蓄積は、全世界のユニーたちから集められる情報の、取捨選択をしない。

およそ人間のとり得るあらゆる行為と言動の蓄積が、そこにはある。「この犬が!」

客の男がケイティのドレスを引き裂く。

男はすでに服を脱ぎ、丸く突き出た白い腹を下着の上に乗せている。

ケイティは床に置かれた皿から、じかにサラダを食べている。

「音をたてるな!」

男はケイティの後頭部を踏みつけた。鼻がつぶれたような音がする。傷口から、赤い循環オイルが流れる。

オイルが赤いのは、製作者の理想主義なのか、悪意なのか。

ここまで来れば、サラの仕事はもう終わっている。

あとは男の好きなようにすればいい。

サラへの手出しは禁止されているし、違反すれば腕っぷしの強いボーイが飛んでくる。




「よし、いい子だ」

男はケイティのあごをつまみ、割れた顔面を見つめる。

「私の名前を言ってみろ」

「ロニー・バレジ様です」

口は動いていないが、ケイティの発声器官は壊れていないようだ。

「違う!」

男はケイティの手首を持ったまま、肩甲骨の辺りを踏みつけた。

乾いた音がして、肩が折れる。

サラは小さく悲鳴をもらしそうになるのを、こらえた。

「私はレイノルズ公爵だ。おそれ多い女だな」

これでも、かなり良いほうの客のはずだ。

初めて店に入るサラのために、ジョン・イーデンの友人で店の常連でもある男が、最初の客になろうと申し出てくれた。

そのおかげで、ケイティの気分を徐々に高めていく過程はスムーズだった。

これが、これから毎日見ることになる光景だ。

見つめながら、何も感じなくなるようにならなければ。

こんなことは何でもないこと、と自分に言い聞かせながら、サラはその光景を見つめている。

「おい」

男がサラに声をかける。

「何をやっているんだ、お前も一緒にやれ」




男はケイティの腰の辺りをつかんで、頭を下に逆さづりに持ち上げている。

「俺がここで支えているから、お前は足首をこのロープで縛るんだ」

天井から垂れ下がったロープを指差す。

「はい」

サラに手出しはできないが、基本的に客の要望には逆らうなと事前に説明されていた。

あり得るだろう様々な状態に、この男は慣れさせてくれようとしているのだろう、とサラは思う。

善意で解釈しなければ、まだ耐えられない。

慣れなければ。

「結んだらお前も服を脱げ」

「はい」

ボスにもらったドレスの下には、ボンテージようなものを着込んでいる。




ケイティの足首を天井のロープに結び終わり、サラはドレスを脱ぐ。

サラにしてみても、ユニーたちに対して逆上しかけたのは一度や二度じゃない。

めちゃくちゃに壊したい、という残虐な欲求も何度も感じた。

それでも自分を抑えられた理由を、サラは自分が女性であるということに見出していた。

女性たちは若いときから、そういう感情と何度も付き合っている。

それとの付き合い方も知っているというものだ。

だけど男たちは?

男たちがそういう感情をめったに抱かないとしたら。

抱いたときには、それを発露させる以外のなだめ方を知らないとしたら。

そして、ユニーたちが、誰に対してもそういう感情を抱かせてしまうような特性を持っているとしたら。

男はムチを取り出し、太ももに一つ、力をこめて打ち込む。

ケイティはうめき声をあげる。

これは条件によるプログラミング反射としての声、苦痛の訴えではない、とサラは自分に言い聞かせる。

「俺はこの子の顔を眺めて、全身が機能不全に陥り壊れていく様をじっくり見たい」男はサラにムチを渡す。

「声をあげさせるのはお前がやってくれ、ミセス・レイノルズ?」

男はニヤリと笑いかける。


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