3-7.
荒川はこの日だけはタクシーで帰って行った。試しにタクシー通学を提案してみたけど交通費の関係であっさり却下された。まあ、そりゃそうだわな。電車を使わないといけないような距離を毎日タクシーで通えるような金持ち高校生なんてそうそういないだろう。
まあ、荒川は百万円するという訳のわからない自転車を持っているから相応に金持ち家庭のはずなのだけれどそれとこれでは話が違うらしい。とにかく、荒川は「じゃあ、よろしくね」とだけ言い残して帰ってしまった。
夕日の出番は既に終わり、夜闇に包まれ始めた空の下。さあ、これで俺は今から締め切り寸前の漫画家よろしくひとりで頭を抱えないといけなくなったわけだ。
来週までに部室を確保? 正気か?
世間一般的に考えても明日と明後日は休日なんだから、最大限の努力しようにもできることがそもそもほとんどない。学校に休日出勤の教師がいたところで、生徒たちで土日に学校にいるのは部活動中の奴、そう、既に部活動に参加している連中くらいだ。そんな状況で部員をあとふたり確保し、申請書類を提出して審査に通り部室を――うん、物理的にも時空的にも無理そうだ。どうしよう?
悩める俺の足は自然と砂浜の方へ向いていた。世の人がどれだけ辛い思いをしてようが幸せを味わっていようが、ここの景色はいつも変わらず輝いている。人工ではあるけれどどこかそんな偉大なる自然の果てしない余裕っぷりを感じられるこの場所は、やっぱりこう、気分が浮かない時とかに何となくの気持ちで来るには打ってつけなんだ。
むしろ自然のように四季によって見せる表情を変えない辺り、荘厳さという点ではこちらの方が上かもしれない。何があっても(大災害でも起こらない限り)決して動じない懐の深さ。まあそこんところの捉え方については異なる意見もあるかもしれないけど、とりあえずオーロラブリッジは今日も名前の通りに煌めいている。
そういえば、一カ月とちょっと前くらいに同じこの場所で世にも不思議な出会いがあったなと、俺はふと思い出した。最初は地上の星々がひとつ抜け出してきたのかと勘違いしてしまったくらい白く美しい女の子。何故か似合わない地味な黒い自転車に乗って現れたツーの正体は未だにわからない。
俺は最終手段として、荒川にツーのことを話すという選択肢を考慮に入れていた。話したところでどうなるかはわからない。何しろあの謎の美少女は存在そのものが謎に包まれているから、荒川とどういう関係があるのかも想像が及ばないし、その答えを見つけ出したところで事態がどう動くかなんて全くの未知数だ。
そもそも何故今まで話さなかったのかと言えばまあ、あれだ、話すタイミングがなかったっていうのもあるし、いやそんなことよりも俺はたぶん、まだツーのことを認められていなかったんだと思う。生身の人間だと思えなかったっていうか、その非常識な存在を現実のものだと認識することを心のどこかで拒否していたのかもしれない。
だって、超絶綺麗な容貌や自称妖精云々は百歩譲って普通に可愛い女の子の虚言だとするにしても、あの人間離れした自転車上での立ち居振る舞い。いや、人間離れと言えば荒川の自転車テクニックも人間離れしているけど、それすら比にならない。
ツーが自転車に乗る姿はもはや人間じゃなかった。あまりにも何でもなさげに乗っているから不思議と見慣れてしまうものの、普通に考えればあのバランス能力というかそれが人間でいう直立二足歩行のデフォルトの体勢だと言わんばかりの、バランスを取ろうとすらしていない乗車姿勢。
ツーはもしかしたら本当に、妖精なのではないかと俺は心の奥底で思っていたのかもしれない。
だとしたら、わかるだろ? 妖精の話を人にするなんて、ある程度の常識と良心を兼ね備えていれば普通、できないだろ?
それでも俺は、その話をすることでどの方向にかはわからないけど荒川の心を動かせるのではないかと思った。だから奥の手として、もうどうしようもなくなった時にはツーの名前を出そうと、心を固めようとしていた。
いつも呼んでもないのに来ていたんだから、せめてこんな時くらい姿を見せてくれれば――と、そこで俺はハッとする。自分の気持ちに驚いた。こんな経験は初めてだ。俺はツーに会いたいと、思ってしまっていた。人だろうが妖精だろうが誰かに会いたいなんて思ったのは少なくともすぐに探し出せる位置の記憶の引き出しにはない。
柄にもないことを思っていた自分に苦笑し、俺はやっぱりツーに出てきてほしいと思った。何故なら今俺の頭を悩ませていることについて何かしら(何かはわからないけど)言ってくれそうなのは、あの神出鬼没で妖精のように不思議な少女だけだったからだ。
俺は過去になかったくらいに頭をモヤモヤさせていたため、この時点で夢を見ているような、自分がエキサイティングな非日常体験をしているような錯覚に多少囚われていた。
だから、漫画的にはこの上ないくらいのベストしかし現実的に考えれば都合が良すぎるタイミングで彼女がやって来ても、特段意外性を感じることはなかった。
「江戸さんどうしたの。困ってるのかな?」
顔を上げれば前でツーが円を描くようにクルクル回っていた。自転車に乗って、というのはもう特記する必要もないだろう。
「しばらく出て来ないと思ったら、こんなうってつけの時に戻ってくるんだな。まったく、都合が良すぎるぜ」
俺が呆れと安堵の混じったため息交じりに言うと、ツーは俺の傍までやって来て自転車の上でクルリと後ろ向きになった。そのまま停止して、ペダルに足を置きハンドルに腰かけるような形になってにっこりと、
「だって私は自転車の妖精だもん。自転車の楽しさを皆に教えるためにこの世界にやって来たんだ。自転車のことなら何でもわかるよ」
今やこのセリフも心に安らげてくれるようだった。思わず気が緩み、俺が笑いを堪えられずにいるとツーがそのまま続けて、
「リンコ、学校やめちゃいそうだね。やめちゃったら困るよ。ダメだよ。江戸さん、何とかして」
「今ちょうどその件についてどうしようか考えてたとこだよ。でも、ダメだ、何も思いつかねえ。どう考えても土日だけで部活を作るなんて無理だ。お前こそ、何とかしてくれよ。自転車のことなら何でもわかるんだろ? だったら、自転車と一心同体の荒川のことだってわかるんだろ。どうしたらあいつを止められるか、教えてくれよ」
ツーは足をプラプラさせながら、誕生日プレゼントを何にしようかワクワクドキドキが止まらない子どものような顔でしばし考えるような素振りを見せ、
「じゃあ、私も部活作るの、手伝ってあげる」
いたずら大作戦の話を聞いて胸を弾ませているような感じに言ってきた。
「手伝うって言っても、何をしてくれるって言うんだ? あいつの言った期限まであと三日しかないんだ。何かできる時間は二日だけ。その間に部員を集めて申請してとかって色々やらなきゃなんねえんだぞ。むしろそこにお前の出る幕があるようにも思えないけど、具体的に何か考えがあるのか?」
「私にできるとしたら、部員を探すことくらいかなー。心当たりはあるよ。自転車部に入ってくれそうな人、知ってるんだ」
それは瓢箪から駒だ、と思ってすぐにそうでもないことに気が付く。ツーは自称自転車のことなら何でも知っているし、実際俺の身の回りで起こる出来事をどこからか見ていたかのようにいつもピタリと言い当ててくるではないか。それなら存外頼ってもいいかもしれないと思い誰なのか聞いてみると、
「フフフ、それは内緒。会ってからのお楽しみだよー」
この少女らしい解答だと思いつつも俺は、
「そんな悠長なこと言ってる暇はねえぞ。あと二日しかないんだから、さっさとできることはやっておいた方がいい。だから教えてくれよ」
「そうだなー。じゃあ明日のお昼前に、タマっていう川に架かってる五番目の橋に来て。そこでその子と会わせてあげるから。楽しみにしててね。リンコみたいに可愛い子だよ」
そう言うなりツーはぴょんクルリと高台から降りるような感じにサドルに戻り、
「おい、ちょっと!」
という俺の制止も耳に入れず行ってしまった。
相変わらずあっさりとしてるって言うか、自分勝手なタイミングで帰ってしまう奴だ。言いたいことだけ言って去るというのはいつものことだけれど、今日は最後に意味のある言葉を残してくれただけマシだ。
ツーが消え、心なしか段階調整式の蛍光灯を一段落とした時のような暗さが感じられる中、俺は心の中の光は見失わずに残された言葉の意味を考えていた。
タマっていう川? 南の県境沿いに流れている川がそんな名前だったはずだ。五番目の橋っていうのは、河口から数えて五番目ってことかな……? 大体目星は付けられるな。他に案が思いつかない以上、言われた通りにするしかないか。
一週間心の支えにしていた二日間の至福の時がなくなりそうな気がするけど、今は四の五の言っている場合じゃない。二日間辛い思いをするかこれから一年間ずっと面倒を背負うかどっちかって言ったら絶対前者の方がいいもんな。それくらいの分別なら俺にだってあるさ。メッチャクソめんどくせえことには変わりないけど。
いつにない決意を胸に、俺は翌日、ツーが示したと思われる場所へと赴くのであった。そしてその日の出会いを皮切りに、この物語は一気にクライマックスへと向かうこととなる。
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