3-5.

 

 朝、学校に着いて靴を履き替えるべく昇降口へと足を踏み入れた俺は、一年一組の下駄箱コーナーに人だかりができているのを見つけた。


 何事かと思って近寄ってみると、どうやらそこで誰かが倒れているらしい。ある者は必死に呼びかけ、ある者は一歩離れて不安げに見守っているというちょっとした学校生活的非日常な事件味を帯びていた。周りの生徒たちが尋常でない雰囲気でいるので俺も本能的に「これはヤバい」みたいなことを一瞬思い、騒ぎの中心にいる人物の姿を見て本当にヤバいと思った。

 

 荒川が倒れていた。

 

 思わず駆け寄る。うつ伏せに倒れる荒川は見るからに力なく、僅かに横に向けられた顔は見たこともないくらい苦しげだった。髪や制服も倒れた時に乱れたままになっていて、いつもウザいくらいに活力に溢れていたこの女子がこんなにもグッタリ横たわっているのは俺であっても心に不安を誘うものがあった。自転車を語る時のテンションがそっくりそのまま反対方向に向いてしまったレベルだ。一体どうしちまったんだ。と、言っても大体検討はつくのだけれど……。


 俺は群がる人を押しのけて荒川の傍へ行き、屈みこんで顔を覗く。悪夢にうなされるような顔をしているけど意識はあるようだ。誰かが傍にいることに気が付いたらしい荒川はそれをするのがやっとといった感じでそろそろと目を開け、今にも光が失われてしまいそうな瞳で俺のことを見上げた。


 そこにいる人物を認識すると、荒川は消え入りそうな声にわずかな自嘲の響きを込め、カタツムリよりゆっくり喋った。

 

 「江戸君……いたんだ。ごめん、あたし、やっぱりダメだった。電車はキツいや。あとちょっとだけ頑張ろうと思ってたけど、無理だったみたい。ああ、あたしこんなところで死ぬのかぁ。みっともないなぁ。人生いつ何が起こるかわからないって言うけど、まさかもう終わりが来るなんて思ってなかったよ。でも、来ちゃったもんはしょうがないよね。最後に江戸君に会えただけでも幸せって思わなきゃ。あ……江戸君、最後にひとつ、お願いしていいかな? あたしの自転車たちに、今までありがとうって伝えてほしいの。あと、こんな最後になっちゃってゴメンね、って。これがあたしからの最後のお願い……。あっ、あとそれから、学級委員はよろしく頼んだよ……」

 

 荒川のメッセージを受け取った俺は、毅然たる思いで答えた。

 

 「ぬかせ」


 

 勝手に死なれたら困るのですぐには動けそうにない荒川を保健室まで運んだのだけれど、その後しばらく、俺は暗澹たる気持ちから抜け出せずにいた。


 主な理由はもちろん事の行く末が不安になってきたからで、荒川があんな調子じゃ一刻も早く自転車通学を再開させないとどちらにしろ学校に来なくなってしまいそうなのだけれど、部員をあと二人確保して部活動申請し、承認されて部室を確保できるまでの作業がそんなに早く終わるとは思えない。


 そして、何か手を打たなければと頭をひねる俺の後ろにも懸案事項のひとつである人物がいて、

 

 「江戸! さっきのあれは何だったんだよ。お前、荒川のことお姫様抱っこしてたよな? もしかして本当に付き合い始めたのか? どういうことか説明しろよ!」

 

 奥田がそんなことを叫んでいる。昨日はトラックが本当にいただとかめっちゃデカかったとか言い散らしていたかと思えば今度はこれだ。つくづく喚くのが好きなんだろうなという印象を抱きつつ俺は今朝の状況を説明したのだけど、不幸なことに彼の脳には人の話を理解するという機能が備わっていなかったらしい。


 しばらく後ろの男は奇声を上げ続けていたけど、ついに俺は誤解を解くことを諦めた。奥田がホザいたところでこっちにはスバルがいる。IQの桁がそもそも奥田とは違うスバルは一度聞いただけですぐに状況を把握してくれたので、この物分かりの良い女子生徒がいる限り変な噂がクラスに広まることもないだろう。その点については安心を得ることができた俺は再び今後のプラン立てに頭を戻す。


 とにかく、このままじゃ荒川が来週から学校に来なくなるのは間違いないだろう(不幸中の幸いと言うべきかこの日は金曜日だった)。来させたければ電車以外の通学手段を用意してやる必要があるけど、その候補として上がるのは自転車、バス、タクシーくらいか。それぞれについて考察してみると、

 

 ・自転車……即却下。次自転車を教室に持ち込めば荒川は停学オア退学は免れない。それだけは何とでも阻止する必要がある。

 

 ・バス……電車の次、もしくは同等レベルにメジャーな通学手段と言えそうだけれど、それゆえに環境も電車と大差ない。むしろ車酔いだとか言ってもっと酷くなりそうだ。却下。

 

 ・タクシー……本人の精神的楽さだけを考えればこれが一番良さそうに見える。でもあいつがどこに住んでるのか知らないけど、タクシー通学なんて聞いたことないしするにしても莫大な交通費が発生せざるを得なくなる。現実的に考えて厳しいだろう。都内のカフェに強制連行させられた時に被った財布へのダメージが思い返される。高校生の懐事情にはちときつい。

 

 ・その他……思いつかない。

 

 

 昼休みになっても名案が浮かばなかった俺はとりあえず保健室へ向かうことにした。


 荒川はまだ教室に来ていないし早退したとも聞いてないからきっとグースカ眠りこけているんだろう。目を覚ました彼女が妙なことを思いつく前に、俺は保険を作っておくことにしたんだ。これでまた自転車で来られたり、もしくは学校やめるとか言い出したりすれば今度こそ取り返しがつかなくなりそうだったので、とにかく今はこの状況の悪化を防いで事態を安定させることが先決だ。


 保健室に入ると、ちょうど目を覚ましたところだったのかベッドに腰かけて先生と何か話している荒川の姿が目に入った。俺に気が付くなり彼女は意外そうな顔をし、

 

「あれっ、江戸君じゃん。どうしたの?」


 保健室まで運んでやった恩人に対してどうしたのはないだろう、どうしたの、は。それに今朝は死に際のセリフみたいなのを吐いていた割には元気そうじゃねえか。まあまだちょっと顔色が悪いようにも見えるけど。

 

 「あっ、そっか。ここまで運んでくれたのって江戸君なんだよね。えっと、その、そのことはありがと」

 

 寝ていたせいでボサボサな髪で顔を隠すような感じで荒川は何やらモジモジと言った。何故そんなに言いづらそうなのかもわからないし、そのことはとわざわざ言ったことに意味があったのかも多少気になる。


 荒川はいつも着ているブレザーとカーディガンを脱いで今は白のワイシャツ一枚の格好だった。薄着のおかげで特に引き締まった腰回りとかが際立っているのを確認しつつ俺は、


 「荒川。授業が終わったらケーキを食べに行くぞ。俺の地元にいい感じの店があってな。今日はそこに連れてってやろう。だから今は何も考えるな。電車乗りたくないとか学校来たくないとかそういうのは忘れてケーキのことだけ想像しとけ。後のことはどうにでもなるさ」


 連日の地獄のような苦痛もこの女子に限っては吹き飛ばしてしまうくらいの魔力をケーキが持っていることを俺は半ば確信していた。事実、荒川は途端に青白かった顔に生気を戻し、目をパチクリさせていたしな。

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